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花の精霊はいじわる皇帝に溺愛される  作者: アルケミスト


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 汚れた雑巾を水を張った木桶につけて絞ると、赤くなった手にぴりっとした痛みが走った。


 空気が冷たくなってきた。


 そろそろ秋も終わりだ。


 寒い冬になる。


 朱音が後宮に入って、二十日が過ぎていた。


 端女となった朱音は、同僚たちとともに、後宮内を縦横に走る歩廊の床を磨いていた。


 漂う陰の気や〈実録・後宮夜話十巻〉におびえた後宮は入ってみると意外と平和だった。


(なんだか、ひょうしぬけするわね……)


 空一面に渦を巻いている陰の気は相変わらずだけど、陽光のさす昼は動きづらいらしく、息をひそめている。


 夜には殿舎の外をぞわぞわと触手を伸ばして動きまわる嫌な気配を感じるが、朱音が外にでるのは日中だけだから遭遇することもない。


 朱音は花仙の気配を消しているし、あちらは気づいていないのだろう。


 このままやり過ごせそうな気がする。


(だけど……)


 朱音は小さくため息をついて、傍らにいる同僚たちを見る。


 皆、朱音と同じくらいの年頃の少女たちだ。


 三々五々に固まって手を動かしつつも、互いにあれをとって、そっちをお願いと、秘やかに声をかけあっている。


 なのに朱音の周囲には誰もいない。


 同僚たちと、うまくいっていないのだ。


「あの、すみません、水はどちらで汲んでくればいいのでしょうか」


 声をかけても、皆そそくさと立ち去ってしまう。


 後宮に入った初日からこうだったから、嫌われることをする暇もなかったと思うのだが。


(私、そんなに人相が悪い?)


 ひと目で遠巻きにされてしまうほど?


 まさか龍仁が無視していじめろという指示をだしているとは思えないし、何故避けられるのかさっぱりわからない。


(私一人だけ遅れて入ってきたからかな……)


 皆はもうふた月も前から後宮で働いていて、すでに仕事の分担や仲間の輪もできている。


 それに端女とはいえ後宮の女官なのだ。


 ここに入るには努力もいっただろうし、矜持があるだろう。


 なのに人手不足でもないのにぽんと入ってきた新人に、反発を覚えるのかもしれない。


 こればっかりはしかたがない。


 時間をかけて馴染んでもらうしかない。


 教えてもらえないから見真似で水桶を井戸まで運び、水を汲んで担当箇所の床を磨く。


 清掃は区画ごとを短時間で終わらせるため、複数で組になっておこなうから助かった。


『教えてもらおうと甘えるな。

 やり方は見て覚えるものだ』


 と、どこの職人かと思うことを龍仁は朱音に実行させていたから、仕事の基本はできている。


 だから仕事自体はなんとかなる。


 問題は密偵仕事なのだ。


 慣れない端女仕事のせいで動きまわる余裕がない。


 端女と妃候補では接点もない。


 朱音がどうしようと悩みながら長い歩廊を磨いていると、華やかな声が聞こえてきた。


 妃候補たちだ。


 大輪の花のように着飾った娘たちが、それぞれ侍女をひきつれてやってくる。


 接点がなくて困っていたが、向こうからきてくれた。


 だが。


(噓、よりにもよってどうして清掃中にこんなところにくるのよっ)


 下働きの女官は、妃候補たちの眼についてはいけない。


 かといって令嬢たちがまだ眠っている早朝に広い後宮を清掃してしまえるわけがないから、人通りの少ないところは後回しにする。


 そして前もって清掃の時刻帯を女官長に知らせて、なるべくかちあわないようにしてあるのに。


 皆あわてて水桶や雑巾をもって苑に降りる。


 朱音も地面に膝をついた。


 清掃途中の見苦しい歩廊だ。


 妃候補や侍女たちの機嫌をそこねることのないように祈りながら、ひたすら頭を下げて嵐が行き過ぎるのを待つ。


 華やかな衣擦れの音と芳しい香がどんどん近づいて、盗み聞きするつもりはないのに彼女たちの会話が耳に入ってくる。


「ねえ、お聞きになった?

 陛下が皇太子時代に寵愛しておられた娘のこと」


「銀の髪に緑の眼ですってね。

 下級文官の娘らしいけど、どうやって陛下に近づいたのかしら」


「父親にねだってこっそり皇城に忍びこんだらしいわ、あつかましい。

 正式な妃候補の私たちですら陛下にまだお目にかかってもいないのに」


 えっと。


 それって私のこと……?


 朱音は固まった。


 他人の話と思いたいけど、龍仁の周囲で銀の髪緑の眼の娘は自分だけだ。


「陛下は珍梗の猫よろしく髪色を珍しがっておられるだけと思うけど、もったいぶったその娘、邸第から一歩も出なかったそうよ。

 ずっとべったりで、陛下のお着替えからすべて独占してたんですって」


「まあ、本当?

 なんてうらやまし……、あ、いえ、ずうずうしい娘ですこと!」


(は?

 私、外ではそんなふうに思われてるの??)


 嫉妬ゆえの歪んだ解釈にしても歪みすぎだ。


 それって誰のことですかとつっこみたくなる。


「でも陛下はその子を皇城にはお連れにならなかったのね。

 それはそうよね、後宮の妃たちをさしおいてそんな娘が陛下を独占してるなんておかしいもの」


「いったいどこに隠されているのかしら。

 もしまだ密かに寵愛されてるなら腹がたつわ。

 その猫、見つけてご自慢の緑の眼とやらをえぐりだしてやりたい」


 こ、怖い。


 本当にやりかねない口調だ。


 朱音の背を、冷たい汗が伝い落ちる。


 自分がどうしてここまで恨まれなくてはならないのか。


 これも皆、あの意地悪大王のせい……とむかっ腹をたてかけて我慢する。


 今はそんなことを考えている場合ではない。


 もし〈猫〉がここにいるとばれでもしたら。


(いやっ、考えたくもないっ)


 あわててもっと深く身を伏せる。


 この距離だと顔をあげれば眼の色がわかってしまう。


 髪は染めているし、まさか〈陛下の猫〉と同一人物とばれないと思うのだが……。


 ばくばくと心の臓がなりはじめる。


 落ちついて、鼓動の音が聞こえてしまう。


 こちらに注意を引きつけるわけにはいかないのに。


 息をつめて眼を閉じた先を、絹沓の足音と衣擦れの音がゆっくりと行きすぎていく。


 もうすぐ、もうすぐ通り過ぎる。


 一歩、一歩、後もう少し。


(お願いっ、そのまま行っちゃってっ)

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