濡れ女
その町には、古くから「水帳」という習わしがあった。
旧暦の文月の十三夜、町内の各家は戸口の前に濡れた和紙を貼る。墨で家族全員の名前を記し、それを井戸水に浸してから玄関に吊るすのだ。
「水の者」が徘徊する夜、名前の墨が流れた家には、その年のうちに“水死者”が出ると言われている。
それを防ぐために、町の人々は黙って、毎年水帳を吊るしてきた。なぜそうするのか、誰が最初に始めたのか、もはや誰も知らない。だが、風習は今も根強く残っていた。
東京から引っ越してきたばかりの若夫婦、滝沢悠馬とその妻・絵里は、そんな迷信をただの田舎の風習だと一笑に付していた。
「うち、やらないから」
近所の老婆にそう伝えると、老婆は細く目をすぼめて、絵里の腹をじっと見た。
「……子どもがいるなら、貼っとくんだね。濡れ女は“喉が渇いている”から、若いものから連れていくよ」
その夜、悠馬は仕事の付き合いで外泊だった。
一人残された絵里は、ふと、窓の外がやけに静かなことに気づいた。
雨も風もないのに、水の流れるような、さらさらとした音が聞こえる。台所の蛇口を確認しても、水はきちんと閉まっていた。だが、廊下の奥、トイレの方から、誰かが“びちゃびちゃ”と濡れた足音を立てて歩いているように感じられた。
「……悠馬?」
誰もいないはずの家で、濡れた布がこすれる音がした。玄関から廊下へ、そしてリビングへ……その足音は確実に近づいてくる。
ぎい、とリビングの襖が開く。
中にいたのは、髪から水を滴らせた、白装束の女だった。
目は落ち窪み、口元から水がぼたぼたと垂れている。
何より恐ろしかったのは、その女の肌――まるで長時間、水に漬けられ、ふやけきった死体のような、灰色の皮膚。
「……みず……」
女はそう呟いた。だがその声は、言葉というより水音に近く、耳の奥を濡らすように響いた。
絵里は咄嗟にテーブルの下に潜り込み、携帯電話を掴もうとした。だが、床に落ちた画面には、先ほどの老婆が言っていた“水帳”の和紙が浮かび上がった。
「名前が……流れちゃ、いけなかったのに」
幻覚か、それとも何かが絵里の記憶を操作しているのか。
水女がしゃがみ込み、ずるりと這って近づいてくる。その顔が、赤ん坊のようにしわくちゃになりながら、にやりと笑った。
「……お腹の……中……乾いてるの……?」
絵里は絶叫して、意識を失った。
* * *
翌朝、悠馬が帰宅した時、絵里は玄関に倒れていた。
幸い命に別状はなく、病院の検査でも異常は見られなかった。だが、彼女の腹を撫でながら呟いた言葉が、悠馬の胸に突き刺さった。
「この子……もう動いてない……」
その年、滝沢家では、水帳を吊るさなかった唯一の家だった。
* * *
そして、一年後。町では再び、水帳の季節が巡ってきた。
絵里は姿を消し、悠馬は一人、かつての家に戻っていた。
水帳を貼るつもりなどなかったが、不意に玄関の外から、水を含んだような声が聞こえた。
「……帳が……足りないよ……」
振り返ると、びしょ濡れの和紙が一枚、部屋の中央に貼り付いていた。
そこには――“滝沢 悠馬”の名前が、にじんだ墨で書かれていた。
水が、音もなく部屋に滲み始める。