第七話:ひと晩の灯り
木造の扉を押すと、鈴が軽やかに鳴った。
リセルが《風車の羽根亭》の中へ足を踏み入れると、ほんのりと焼きパンとスープの匂いが鼻をくすぐった。
木目の床、低めの天井、壁には小さな絵と風車の飾り。どこか家庭的な温もりがある。
「はーい、いらっしゃいませっと……ん?」
カウンターの奥から現れたのは、どっしりとした体格の中年の女性だった。
厚手のエプロンをつけ、太い腕を腰に当てて、リセルを見下ろす。
その目は厳しそうでいて、どこか人懐っこい光を宿していた。
「ひとり旅、かい?」
「はい……その、すみません」
リセルは胸の前で深く頭を下げた。
しばし言葉を選び、けれど、逃げずに正直に口を開く。
「私、昨日……町で財布をすられてしまって。お金がなくて、でも、泊まる場所がなくて……それで、少しでも、何か手伝うので、今日は……泊めていただけないでしょうか」
頭を下げたまま、声が震える。
それでも顔は上げない。プライドなんて、今は邪魔なだけだった。
数秒の沈黙――
そして、店主は鼻を鳴らした。
「ふん。まあ、あんたみたいなの、時々いるよ。財布すられて、腹も空いて、寒さに凍えて」
「……!」
「ただし。今夜だけだよ。働かせるつもりも、掃除してくれなんて言う気もない。あたしはね、商売してるの。善意で飯を出すことはあっても、タダで泊まらせるのは筋が通らない。でも、今のあんたの顔、あたしが昔見た仲間にそっくりだ」
そう言うと、女主人はカウンターの奥から木の鍵をひとつ取り出した。
「二階の左奥。小さい部屋だけど布団はある。風呂はなし、代わりに熱いスープつけとく」
「……ありがとうございます……!」
リセルは思わず、ぎゅっと拳を握った。
唇が震えそうになるのをこらえて、深く、何度も頭を下げる。
「リセル・フレアライトです……! 必ず、恩返しします!」
「ん、マルガ・ブランベル。ここの店主だよ。ま、せいぜいしっかり食って、明日から立て直しな」
*
出されたのは、野菜と豆のスープに、ふっくら焼かれた黒パン。
大きな卓の端に座ると、マルガが湯気の立つ椀を置いてくれた。
リセルは両手を合わせ、小さな声で「いただきます」と呟き、一口スープを啜った。
熱が、喉から胸へ、ゆっくりと染み渡っていく。
体温が戻ってくるたびに、昨夜の寒さと不安が溶けていくようだった。
パンも少し酸味があって、外はかりっと、中は柔らかい。噛むたびに、涙が出そうになる。
「……美味しいです……!」
「そりゃそうさ。うちのは地元の干し豆と自家製ブイヨン。旅人にゃ丁度いい具合で煮てあるよ」
マルガは椅子にどかっと腰を下ろす
「それで、あんた。これからどうするんだい?」
「……王都で、冒険者になります」
「ふん。やっぱりね」
マルガは腕を組み、じっとリセルを見た。
「目がね、負けてない。財布なくして、空腹で、寝床も失って、それでも王都に来る子はそういないよ。あたしは好きだよ、そういう目をした子」
「……うれしいです。でも、ほんとにまだ何もできてないです。魔法も、三回しか使えなくて……倒れるし、酔うし、財布も守れないし……情けないです」
言ってから、また少しだけ、涙が出そうになった。
けれどマルガはくくっと笑いながら、言った。
「最初から完璧だったら、苦労なんてしないよ。あたしなんて、最初の冒険で靴が崩れて、裸足で一日歩いたからね」
「え……」
「そのときは、泣きながら木を足に巻き付けて靴底にしてさ。仲間には大笑いされたけど、今じゃいい思い出だよ」
リセルは目を丸くして、それから小さく笑った。
「じゃあ、私の昨日も……笑い話になりますか?」
「なるさ。あんたがこの先、真っ直ぐ進み続けられたならな」
マルガは真剣な目で、リセルを見た。
「この都じゃな、夢は腐るほど転がってる。だがそれを掴み続ける奴は、ほんのひと握りだ。あんたがその中に入る気があるなら――応援するよ」
リセルは深く頷いた。
今夜のスープは、どこかしょっぱくて、でもあたたかかった。