第五話:涙をこらえる夜
王都――グランフェルド。
その名は、地平の先にある光のように、リセルの胸を焦がし続けていた。
そして今日――その王都は、もう目前だった。
街道の坂を越えた丘の上、遠くの空にかすむ高い塔と城壁の影。それが、リセルが夢にまで見た場所。
だけど――
「……まだ、今日は着かないんだよね……」
王都へ至る直前、旅人たちがよく立ち寄るという中規模の宿場町――フラメル。
王都への旅を終えた者も、これから向かう者も、一度は通る場所だ。
日が傾く前、リセルはようやくその町へ辿り着いていた。
疲労は強く、魔力も昨日の戦闘で削れていた。今夜こそは、きちんとした宿で身体を休めたい。
そう願いながら、彼女は町の門をくぐった。
*
夕暮れのフラメルは、人でごった返していた。
王都から流れてきた商隊、演説をしている流れの神父、酔いどれの冒険者、物売りの子どもたち――
雑多で喧騒に満ちたその雰囲気は、これまで立ち寄ったどの町よりも生き生きしていた。
けれど、そんな雑踏に気を取られていたせいかもしれない。
リセルがそれに気づいたのは、ほんの数分後のことだった。
「……あれ?」
ローブのポケットに手を伸ばした瞬間、心臓が跳ね上がった。
財布が――ない。
慌てて他のポケットを探る。背負い袋を開いて中身を確認する。だが、どこにも見つからなかった。
「え……うそ、でしょ……!?」
腰が抜けそうになる。視界がぐらりと歪む。鼓動が速くなる。
――スられた。
人混みの中で。あれだけ気をつけていたのに。旅人の常識だとわかっていたのに。
けれど、現実はあっさりと、その油断を突いてきた。
「っ……」
涙が、にじんできた。
財布の中には、旅人からもらった銀貨、残りの銅貨。
全部、なくなった。
それはつまり――
今夜の宿も、明日の食事も、すべて失ったということだった。
*
日が沈む。
店の明かりが灯り始め、人々が居酒屋へ吸い込まれていく。宿の看板も赤く照らされていた。
けれど、その扉を開けることが、今のリセルにはできなかった。
「……ばか、ばかだ……っ」
人気のない小さな倉庫の裏手。
リセルはその影に身を潜め、膝を抱えていた。
フレマをそっと胸に抱き、泣かないように奥歯を噛んだ。
泣きたくなかった。けれど、悔しさが溢れてくる。
――もうすぐだったのに。
――もう少しで、王都だったのに。
あと一日分の路銀があれば。あと一食分の食料があれば。
そんな小さな差で、今、自分は一文無しで、寝床もなく、町の隅に座り込んでいる。
「私……ここまで、来たのに……」
焔の里から歩き続けて、寒さにも、飢えにも、魔物にも負けずに。
それでも、たった一瞬の油断で、すべてが崩れてしまう現実。
それが、あまりに悔しくて、情けなくて――
涙が一筋、頬を伝った。
*
夜の風が冷たい。石畳の地面も、背中にあたる木の壁も、じわじわと体温を奪っていく。
けれど、リセルは火を焚かなかった。
町中で焚き火など許されない。魔法で熱を帯びるのも控えた。下手に目立てば追い払われる。
だからこそ、彼女はただ、身を丸めて耐えるしかなかった。
せめてもの支えは、胸に抱いた杖だけ。
魔力も残っていない。温もりもない。けれど、この杖だけは、ずっと一緒だった。
「……ねぇ、フレマ……」
かすれた声が夜に消える。
「私……間違ってなかったよね?」
返事はない。ただ、紅水晶がかすかに月の光を反射して揺れていた。
「……負けたくないの。こんなことで終わりたくない」
涙が止まらなかった。けれど、それでも心の中の火だけは――まだ、消えていなかった。