第四話:見知らぬ誰かのために
四日目の昼下がり。
風は冷たく、曇りがちの空はどこか重たく見えた。
リセルは、湿った街道を歩きながら、疲労の色を隠さず顔に浮かべていた。
体は重く、足取りも鈍い。昨夜は冷え込みが強く、浅い眠りしかとれなかった。
「今日こそ……町の影くらい、見えてくれてもいいのに……」
誰にともなく、いや正確には、手にした杖にぼやくように呟いた。
紅水晶は鈍く光っている。いつもより応答がないような気がして、リセルは小さく眉を寄せた。
――と、そのときだった。
「やめろォ! うわああっ!!」
悲鳴。
風に乗って、森の方から人の声が届いた。慌てた足音、何かが地面を叩くような音。
「っ……!」
咄嗟に身体が動いた。疲れも重さも忘れ、リセルは街道を外れ、森の斜面を駆け下りる。
もし魔物なら。もし人が襲われているのなら。
考えるより早く、火のように飛び出していた。
*
森の中――。
倒れた荷車と、崩れ落ちた旅人。その前に立ちはだかるのは、灰色の毛皮を持つ魔物――二匹の森犬だった。
鋭い爪、裂けた口元。嗅覚と脚力に優れ、群れで狩る凶暴な魔物。
リセルはすぐに距離を取りながら杖を構えた。
――この状況、魔法を使うしかない。
けれど、頭の中に冷たい声が響く。
(魔法は、連続三回まで……それ以上は……)
セナ婆の言葉が、訓練中の怒声と共に思い出される。
――「その火は力じゃねぇ。無理して振り回せば、お前が先に焼け死ぬぞ」
けれど――それでも、今はやるしかない。
「……よし」
リセルは静かに詠唱を始めた。集中する。杖の先に魔力を集め、地面からの反応を読む。
「――燃え上がれっ!」
一回目。火の柱が魔物の背後に炸裂し、爆風が巻き起こる。驚いた森犬が吠えながら振り返る。
リセルは地面を蹴り、旅人との距離を詰めながら再び杖を構えた。
「まだ――いける!」
二回目。狙いすました火の奔流が一匹の胴体を巻き込み、炎が裂ける。森犬は地面に転がり、動かなくなった。
残る一匹が、今度はリセルに向かって突っ込んでくる。
飛びかかる寸前、リセルは必死に足を踏み込み、最後の魔力を搾り出す。
――三回目。
「っ、燃えて……沈めっ!!」
炎が爆ぜる。だが、それはどこか不安定で、威力も先の二発に劣っていた。
それでも、距離を詰めた魔物の足元に炸裂した火は、かろうじて相手の進行を止め、跳ね返すに足る力を持っていた。
森犬はうめき声を上げ、林の奥へと消えていった。
*
「は……ぁ……」
リセルは膝をついて、肩で息をした。
全身が火照っている。汗が止まらない。呼吸が浅い。額に手を当てると、脈が速くなっているのがわかる。
――魔力酔いの兆候だ。
頭がずきんと重く、足元がふらつく。
「っ……まだ、三回までしか使えないのに……これか……」
空気が揺れる。視界の端が少しだけ歪む。それでも、なんとか踏みとどまって、リセルは旅人のもとへ歩み寄った。
男は、土まみれの顔で、彼女を見上げた。
「お、俺……生きてる……?」
「うん。……多分、ギリギリ」
リセルは苦笑して、片手を差し出した。
*
旅人は、年若い商人だったらしい。
この辺りの森に時々現れるという魔物の噂を軽く見て、一人で荷車を運んでいたのだという。
「助けてくれて……ありがとう。本当に……」
何度も頭を下げる男に、リセルは恥ずかしげに肩をすくめた。
「通りがかっただけ。あんまり大したことしてないよ」
「でも、おかげで俺は生きてる。……これ、ほんの気持ちだけど」
そう言って、旅人は革袋から銀貨一枚と、銅貨数枚を差し出した。
「旅の途中だろ? あんたみたいな人にこそ、ちゃんと無事に行ってほしいからさ」
リセルは一瞬ためらったが、やがて静かにそれを受け取った。
「……ありがと。大事に使うね」
*
その夜。
焚き火の炎が落ち着いたころ、リセルはマントにくるまりながら、フレマをそっと抱いて座っていた。
「ねぇ、フレマ……やっぱり、三回が限界だよ。……まだ、無理だったね」
頭の奥がじんわりと重く、身体の芯がぐらぐらする感覚が残っている。
けれど――
「でも、今日の魔法は……ちゃんと“誰か”のために使えた気がする」
誰かを守るために火を使う。それは里で教わった通りの“正しい魔法の使い方”だった。
けれど、教科書よりもずっとずっと実感があった。
確かな重みと、達成感と、そして……ほんの少しだけ、誇らしさが。
杖の紅水晶が、焚き火の揺らめきを反射して優しく光った。
それはまるで、「よくやった」と言っているように見えた。