第三話:兎と火と、ひとりの晩餐
三日目の午後。
川の流れが見えてきた頃、リセルの足はとうに限界を訴えていた。
荷を軽くするため、朝からまともに食べていない。財布には銅貨が三枚。とても食料など買えたものではない。
野営の準備のため、川辺に降りて水を確保したあと、リセルは草むらに腰を下ろし、空腹に耐えながら考えた。
「……どうしよ。これ以上、お腹鳴らしながら歩くのは無理だよね」
すぐそばに立てかけた杖に目をやる。
返事はない。けれど、長旅を共にする相棒に向けて、つい言葉をこぼしてしまう。
「買えないなら……もう、狩るしかないか」
自分に言い聞かせるように、ぽつりとつぶやく。
焔の里での訓練に、野生動物の捕獲実習があったのを思い出す。獲物は主に兎か鳥。罠や追い込みのやり方、最低限の解体作法も叩き込まれた。
一人でやるのは初めてだけれど。
「よし……やるしかない、よね」
*
茂みをかき分け、足音を殺しながら草むらの奥へと入る。
リセルの手には、杖。だが今は、炎は使わない。派手すぎる炎では、獲物が逃げてしまう。
代わりに、炎の“余熱”を使った火の細工――足元の地面にごくわずかに魔力を通し、葉の揺れを偽る。陽炎のように光が揺らめき、兎の目を惑わせる。
教本の片隅に書いてあった古い猟師の知恵。今の自分には、それくらいがちょうどいい。
やがて、草の間から小さな影が現れた。
灰色の体毛、ぴくぴくと動く長い耳。警戒しているようで、でも完全には気づいていない。
息を潜めて、手にした杖を静かに下ろす。狙うのはその一歩手前。足元に魔力を送り、地面を一瞬だけ熱で弾かせる。
ぼふっ、と音がして草が爆ぜた。兎が驚いて跳ねた瞬間、リセルは走った。
「よしっ!」
草をかき分け、兎の動きを先回りして地面を蹴る。訓練で覚えた足運びが、体に染みついていた。
ナイフを抜き、素早く跳ねた影を押さえ込む。
「――やった、捕まえた……!」
リセルは肩で息をしながら、汗ばんだ手でしっかりと兎を押さえていた。
手は震えていた。生きた獲物の温もりが、直接指に伝わってくる。
――命を奪うということ。
それがどういうことか、頭ではわかっていたけれど、今この瞬間、心で知った気がした。
*
川辺の窪地に、小さな焚き火を起こした。
リセルはそこに腰を下ろし、解体の作業に取り掛かる。
初めての手作業。毛を剥ぐだけで十数分かかった。血と脂が指にまとわりつき、内臓の処理で胃がひっくり返りそうになる。
「……うぅ、セナ婆、実習ちゃんとしてよね……!」
ぶつぶつ文句をこぼしながらも、ナイフは止めない。
川の水で肉を洗い、串に刺し、ようやく火にかける。
肉が炙られ、じわじわと香ばしい香りが立ち上ってくる。
リセルはその匂いに目を細め、思わずごくりと唾を飲んだ。
「……いただきます」
串を口元に運び、ひと口かじる。
表面は少し焦げ、芯はやや硬い。それでも、温かくて、肉の旨味がしっかりある。
何より、“自分の手で得た食事”というだけで、味が格別だった。
「……美味しい……!」
熱い肉を頬張りながら、思わず顔が綻ぶ。
焔の里では、焦げた芋や薄い粥ばかりだった。誰かに決められた食事。
けれど今は、自分で選び、自分で掴んだ食事。
その一口一口が、旅に出た意味を思い出させてくれる。
*
空には、満点の星。
焚き火の火がぱちぱちと音を立て、リセルはその前に座っていた。
風は少し冷たいが、心は妙に落ち着いていた。
ふと、焚き火の向こうに立てかけた《フレマ》を見つめる。
「……ねえ、フレマ。今日、少しだけ旅人っぽかったよね、私」
火の粉が舞い、紅水晶がちらりと光を返す。
「でも、思ったよりずっと、きついよね……旅って」
銅貨はもう数枚。次の町まではあと一日以上。魔法も、まだうまく使いこなせない。気を抜けば、すぐにでも倒れてしまいそうな現実。
でも、それでも。
「今の私は、自分で選んで、生きてるって気がするの」
誰にも命令されず、誰にも縛られず、自分で判断して、道を決める。
その自由は、想像以上に不安で、でも――心の奥に小さく火を灯してくれるものだった。
「明日も、ちゃんと歩こうね」
リセルは杖にそっと語りかけ、マントをかぶって焚き火の側に横たわった。
星の光が、静かに野営地を照らしていた。