第二話:はじめての町と銅貨の重さ
三日目の朝は、曇り空だった。
昨日までの快晴が嘘のように、空一面が灰色に染まり、遠くの木々も湿った風に揺れていた。
リセル・フレアライトは、街道の土をぬかるませた雨上がりの泥に足を取られながら、それでも歩いていた。
夜露で湿ったマントを払い、懐から地図を引っ張り出す。
「……もうすぐ、だったはずなんだけどなぁ」
頼りない手描きの地図。縮尺も曖昧で、目印のはずの“大きな岩”も“古い祠”もどこにでもありそうな記号ばかりだ。
けれど――
風の向こうに、人の声が混じった。
ぬかるんだ街道を抜けた先、木々の間から、ぽつぽつと瓦屋根が覗く。煙が空へと伸びていた。遠くから鐘の音も聞こえる。
「やった……町だ……!」
自然と笑みがこぼれた。ようやくたどり着いた“人の暮らす場所”。
その名は「クルードの町」。
リセルにとって、それは初めての“町”だった。
*
街道を抜け、柵の門をくぐると、景色が一変した。
石畳の道、木造の建物。人の声、荷車の音、焼きたてのパンの匂い。焔の里とはまるで違う空気が、ここにはあった。
「わぁ……!」
思わず声が出た。何もかもが新鮮だった。通りを行き交う旅人、商人、兵士、子どもたち。誰も彼もが忙しそうに、それでいて楽しそうに見えた。
けれど、同時に、ひとつ気がかりなものがある。
――財布だ。
リセルはローブの内ポケットに忍ばせた革袋をそっと指で確かめる。
銀貨は二枚。あとは銅貨が十数枚。
この二日、野営と川水でなんとかやり過ごしてきたが、これ以上無理はできない。
「まずは宿だよね……。フレマ、ちゃんとお金、足りるかな」
杖の紅水晶がかすかに揺れた。まるで“知らん”と言っているかのように。
*
町の通りを歩いていると、こぢんまりとした宿屋の看板が目に入った。赤い花を模した木板に『エンジェルの止まり木』と彫られている。
入口をくぐると、カウンターにいた男性が顔を上げた。
「いらっしゃい!泊りかい?」
大きな体格と肝の据わった笑み。袖をまくった腕には火傷の痕と筋肉が浮いている。元・冒険者だろうか。
「はい、一泊できますか?」
「もちろん。素泊まりなら銅貨五枚、朝食付きで銀貨一枚だ。お風呂は……今は焚いてないけど、足湯くらいは用意できるよ」
リセルは少し迷って、銅貨を五枚差し出した。
「じゃあ、素泊まりで。……ごはんは、あとで……考えます」
財布の底が、確実に軽くなっていく。
*
部屋は小さな二階の個室だった。布団が一組と机が一つ。窓の外には洗濯物が揺れていた。
リセルは荷を置いて、深く息を吐いた。
ようやく、ちゃんとした屋根の下。
昨日までの冷たい夜風と地面の硬さを思えば、贅沢すぎるほどだった。
「……やっぱり、家っていいな」
ふとそんな言葉が漏れた。
焔の里にいた頃、個室なんてなかった。寝床は訓練場横の雑魚寝部屋。寒さと隣の寝言と、布団の取り合いが日常だった。
けれど今――この狭い部屋は、自分だけの空間だった。
窓の外で子どもたちの笑い声が聞こえる。どこかで鐘が鳴る。パンの焼ける匂いが漂ってきた。
「……お腹、すいた」
リセルは顔をしかめた。
財布の中の銅貨は、残り七枚。
買い食いをすれば一食で三、四枚は消える。次の町までの距離もまだわからない。水も補充しないといけない。魔導具の手入れ用品も、そのうち要る。
計算すればするほど、不安になっていく。
それでも――
「今日だけは、ちょっとくらい……いいよね」
ローブのポケットに手を突っ込み、銅貨三枚を握りしめて、階段を降りた。
*
「いらっしゃい! 焼き串、焼きたてだよ!」
露店の少年が元気に声を張る。
リセルは、その香りにつられて立ち止まり、銅貨三枚と串焼き肉を交換した。
熱い。香ばしい。肉汁が舌に広がって――
「……なにこれ、美味しっ!」
目を丸くして、もう一口、もう一口と頬張った。
魔法でもない、訓練でもない、ただの食事なのに。
それだけで、心の底から“生きてる”と実感できた。
「……ねえ、フレマ。お金って、大事だね」
ふと、そんなことを呟いていた。
杖は黙っている。けれど、紅水晶が夕陽にきらめいていた。