第十一話:ただいまの灯り
夕陽が王都の屋根を朱に染める頃。
リセルは、ふたたび《風車の羽根亭》の扉を押した。
木製の扉が軋んで開くと、いつもの鈴がちりんと鳴り、厨房の奥から鼻歌混じりの声が聞こえてくる。
「ん? あら、おかえり」
カウンターの奥から顔を出したのは、宿屋の店主マルガ
大柄な体格に、がっしりした腕。けれど、目元はどこか優しく揺れていた。
リセルは小さく息を吐いてから、にこりと微笑んだ。
「ただいま。……ちゃんと、お金、稼げたよ」
「ほう?」
マルガの眉がぐいっと上がる。
「初稼ぎってことかい?」
「うん。……すごく地味な仕事だったけど、ギルドの倉庫の掃除。モップと雑巾で一日中ごしごししてた」
「へえ、倉庫の掃除ねえ」
マルガはエプロンの端で手を拭きながら、ゆっくりとカウンターから出てきた。
そして、ふいにぐいっとリセルの肩を抱き寄せ、腕を組ませるようにして言った。
「よくやったじゃないの、リセル!」
「うわ、ちょっ……重い重い! く、くるしい……!」
思わずもがくと、マルガはけたけたと笑って腕を放した。
「そりゃね、最初の稼ぎってのは一生もんだよ。あたしなんか最初は日雇いで馬糞掃除だったけど、五枚の銅貨が嬉しくてなぁ……パン一つ買って泣きながら食ったっけ」
「……わかる。なんか、泣きそうだった」
「泣いとけ泣いとけ。王都じゃ、そう簡単に人は褒めちゃくれない。自分の頑張りを、自分で褒めてやれるのも大事なことさ」
その言葉を聞いて、リセルは思わず胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
マルガの横に並んで、宿の中を見渡す。
小さなテーブル、飾られた風車の飾り、壁に掛けられた古びた絵。すべてが温もりに満ちている。
「……なんか、懐かしい感じがする」
「ほう? あんた、王都は初めてだろ?」
「うん。でも……その、姉がいたんだ。……なんか、マルガさん、ちょっと似てる」
「へえ。そりゃあ、美人ってことかい?」
「いや、口うるさくて力強くて、料理が上手くて、勝手に世話を焼いてくるところ……」
「ほぉ〜う?」
「わ、ごめんなさい冗談です!」
慌てて両手を挙げるリセルに、マルガは大笑いしながら、奥から大鍋を取り出した。
「はいはい。ちょうどいいタイミングで夕飯ができたよ。お祝いも兼ねて、今日は少し多めに盛ってやろうじゃないの」
「ほんとに?!」
「代わりに、食器は自分で片付けること。ついでに風呂桶も空にしておいてもらうよ」
「う……それくらいなら……!」
リセルは笑いながら、席についた。
テーブルには、あつあつの野菜シチューと香ばしいパン。それにチーズをのせたオムレツまで並べられた。湯気と香りが鼻をくすぐる。
「……ありがとう、マルガさん」
スプーンを握る手が、少しだけ震えた。
それは疲労からか、それとも、胸に灯った“居場所”の実感からか――自分でもよくわからなかった。
「……いただきます」
声に出すと、なんだか胸の奥がいっぱいになった。
*
夜が更けた後、リセルは一人、自室の窓辺に座って空を見上げていた。
街の灯りは遠く、けれど確かに光っていた。
初めての依頼。初めての報酬。
そして、初めての「ただいま」。
何もかもがささやかで、でも確かに心に残っている。
その胸に宿った灯りを、リセルはそっと抱きしめるように、紅水晶の杖に語りかけた。
「ねぇ、フレマ。……きっと、ここが私の始まりなんだよ」
窓の外、遠くに聳える王城の塔の先端が、夜空に静かに光っていた。