008. つなぐ者たち
静かに灯る家の明かり、その一つひとつが希望の火種となる夜。
忍たちの脱出は、ただ一組の親子だけの逃避行ではなかった。
子どもを匿う家族、助け合う領民、つながる意思。
それはやがて、大きな流れを生み出してゆく。
これは、その始まりとなる、目に見えぬ連携の物語じゃ。
裏門から少し離れた茂みの中、黒鳥は一人、耳を澄ましていた。
夜は、すでに“夜明け前の静けさ”へと変わり始めている。
冷たい空気が肺を満たし、緊張した身体を無理やり落ち着けていく。
――風が、吹いた。
吊るされた古桶が、ほんの一瞬だけ揺れる。
ぎい、というかすかな音。
しかし、それはこの作戦のために仕込まれた“合図”だった。
「……来たか」
黒鳥は短く呟くと、隠していた小型の魔導符を取り出す。
符に指先で触れ、意識を軽く同調させると、透明な“震え”が空気中に広がる。
その揺らぎは、配置された仲間たち――裏門の外、通用路の影、第二退避地点――に瞬時に伝わる。
音も光もない、だが確かな“始動の気配”。
同時に、黒鳥は手を掲げて小さく回す。
それを見た仲間のひとりが、地面に伏せていた姿勢から起き上がり、警戒態勢に入った。
「屋敷内の通路、異常なし。協力者の子どもが裏門外で待機中」
「林側の退避路、偽装布に問題なし。馬車組、準備完了」
「西の丘に配置した監視役、状況に応じて退路へ誘導可能」
続々と入る“気配の応答”。
黒鳥は全てを聞きながら、そっと腰の短剣を確認する。
(……この瞬間が、一番、心がざわつく)
戦場でもそうだった。
矢が放たれる前、剣を抜く前――“一歩目を踏み出す前”こそ、最も命が揺れる時だ。
彼は自分の胸元に仕込まれた薄い布包みを触る。
中にあるのは、小さな折りたたまれた紙片――忍の前世で、彼と交わした“師団結成時の誓い”だった。
「……あの子を、生かす。たとえ俺が灰になっても」
目を閉じ、深く息を吸う。
そして、目を開いたときには、完全に“実行の顔”になっていた。
「配置完了。“道”は開いた。――始めようか、“師団長”」
※※※
静かだった。
あまりにも、静かすぎるほどの夜だった。
それでも、確かに“始まり”は訪れていた。
裏門の前、レイナはおたきに支えられながら、そっと忍を胸元で抱き直した。
風に揺れた古桶の音を聞いた時、母子の中で何かが切り替わっていた。
「……行くよ、しのぶ。お母さんも、もう迷わない」
忍の目が、まっすぐ前を見つめていた。
小さな身体で、赤子の姿で、それでもそのまなざしは、前世の“決断”を持っていた。
その視線を見て、おたきは小さく笑った。
「しのぶ坊の目は……父親と同じだね。あたしの命に代えてでも、通すよ」
周囲の闇から、黒鳥が音もなく現れた。
仲間の一人が素早く周囲を見張り、もう一人が荷車を引いてくる。
「レイナ様、こちらへ。お乗りください。森を抜けた先で馬車が待っています」
「ありがとう……あなたたち、本当に……」
礼の言葉を口にしかけたそのとき、屋敷の中からわずかに足音が響いた。
急ぎの足。誰かが気づいたのか、それとも偶然か。
黒鳥は即座に短剣に手をかける。
だが、おたきがすっと手を上げた。
「大丈夫、“あれ”を使うよ」
おたきが懐から取り出したのは、小さな粉末の包み。
それを火にくべると、甘く煙たい匂いが立ちのぼる。
「侍女時代に仕込んだ“目くらまし”さ。お館様が近づくとき用にね」
その煙に紛れるように、荷車が音もなく裏門を通り抜けた。
すぐさま、門は中からそっと閉じられる。
誰かが“通った形跡”を消すために、足跡に砂をかける。
森の中、黒鳥が先導し、後衛にもう一人がつく。
荷車を引く手は早く、だが決して慌てない。
そして、石壁を越えたその瞬間――
レイナが、ふっと息を吐いた。
それは、初めて“この屋敷から離れることを実感した”安堵だった。
長く、冷たく、重苦しかった空気の中から、ようやく出られた瞬間。
忍が、小さく声を上げた。
「……ぁ」
レイナが、はっとして顔を覗き込むと――
その顔に浮かんでいたのは、泣き顔ではなかった。
むしろ、微笑に近いものだった。
その表情を見たとき、レイナは確信した。
(この子は、きっと生き延びる。たとえ、どんな運命でも)
夜は、まだ明けきらない。
けれど、一行の向かう先には――確かに、新しい光が始まりつつあった。
※※※
あの騒乱の夜、忍たちの脱出の陰で、別の小さな逃走劇が密かに進んでいた。
辺境伯邸の外れにある古びた納屋。その奥に、腰をかがめて入れるほどの狭い地下収納があった。
「しーっ、声を出すんじゃないよ。大丈夫、朝になれば迎えが来る」
小声で囁いたのは、侍女頭のひとり、中年の女性クララ。彼女の腕には幼い少女がしがみつき、もう一人の男の子は藁の上で震えていた。ふたりとも、協力してくれた侍女や職人たちの子どもだった。
「ほんとうに、みんな来るの……?」
「来るさ。この子たちの親御さんは、ちゃんと先に出てるんだよ。きっと、すぐに追いつくよ」
クララの声は柔らかいが、目元には強い覚悟が浮かんでいた。
忍たちの脱出と同時に、協力者たちの子どもたちも数人ずつ、信頼できる家族や知人に分散して託されていた。村の外れ、酒場の裏、炭焼き小屋、時には街道近くの果樹園にある倉庫。誰にも気づかれないよう、家族たちは暗闇の中を潜り抜け、我が子を一時的に匿っていた。
「……僕、会えるかな。お父さんとお母さんに」
男の子が泣きそうになりながら囁いた時、クララは藁の山の奥から、手作りの小さな笛を取り出した。
「お母さんから預かってるよ。ほら、これ。これがあれば、ちゃんと見つけてくれる」
その笛をぎゅっと胸に抱いた男の子の目から、ぽろりと涙がこぼれた。
やがて夜が明け、誰にも知られることなく、子どもたちは一人、また一人と集団へと合流していく。見送る者も、迎える者も、泣きたい気持ちをこらえながら。
その小さな命を守るために、大人たちは今日も「忍」の名を胸に、静かに歩み続けるのだった。
※※※
夜明け前の薄闇の中。細い街道を、数組の人影が静かに歩いていた。老いた荷馬に引かれた小さな荷車には、最低限の荷物と幼子。周囲を囲む大人たちは、言葉を交わすことなく、ただひたすら前へと進む。
「……ここで合ってるはずじゃが」
そう呟いたのは、鍛冶職人だったハル。灯りも持たず、野良道を進むのは不安だったが、それでも彼の手はしっかりと妻と子の手を握っていた。
その先に、古びた祠のような建物が見えた。扉が軋む音とともに中から現れたのは、先に脱出していた協力者の一人。顔を確認すると、小声で言った。
「おう、来たな。中に十人ほど集まってる。もう少ししたら、次の移動じゃ」
ハルは小さく頷くと、無言で祠の中へ。そこには同じようにして逃れてきた家族たちが、藁の敷かれた床に身を寄せ合っていた。
「ハルさん……!」
炭焼き小屋の管理をしていた男が声をかけてきた。皆、顔なじみだった。鍛冶屋、大工、縫製職人、雑貨商、それぞれが腕を持ちながらも、辺境伯家の暴政と無関心に見切りをつけた者たちだった。
「忍様は、無事か……?」
「抜けたと聞いとる。黒鳥の手引きじゃ。今は先を進んでるはずじゃ」
小声ながら、その場にいた全員がほっとした空気を漏らした。彼らにとって、あの親子は象徴だった。ただ見捨てられる妾子ではなく、“逃げる”という選択を示してくれた希望だった。
その後も、点在する祠や農作小屋、集会所などを“仮の集結地”として使いながら、次々と家族たちが合流していく。道案内をするのは、事前に手はずを整えていた配達人や旅商人たち。皆、表向きは平民のままだが、心はすでに“脱出の同士”として繋がっていた。
太陽が昇る頃には、既に50人近い小集団がひとつの谷間に集まり、さらに次の合流地へと向かう準備を進めていた。
人知れず、だが確実に。「辺境伯領からの夜逃げ作戦」は、広がり始めていた。
妾腹の子を救うなど、表立っては語れぬこと。
されど、見ておる者は見ておる。聞いておる者は聞いておる。
この領に留まる価値を見失い、密やかに歩みを合わせる者たちが現れた。
主従や身分を越えた、人の絆の芽生えに、爺は胸が熱うなったわい。
さて、次なる地平には何が待つのか。じっくり見届けてくだされ。