006. それぞれの場所で始まる脱出戦
忍と母・レイナを巡る状況は、静かに、しかし確実に動き出していました。
正面からの敵意ではなく、“見えない悪意”が屋敷を覆うなかで、
忍を守ろうとする者たちは、それぞれの場所で、名前も名乗らずに連携を始めます。
かつて師団として共に戦った仲間たち。
家族のように寄り添った侍女たち。
そして、信頼の中で生まれた“絆”。
今回は、それぞれが一歩ずつ脱出へ向けて歩み出す“前夜”の物語です。
その夜、辺境伯邸は静まり返っていた。
だがその静けさの裏で、誰にも気づかれない“わずかなほころび”が広がりつつあった。
離れ家の奥。忍は眠ったふりをしたまま、耳を澄ましていた。
布団の中、母の温もりと、おたきの足音。
それらを通じて、いまこの小さな家の中に張り詰めている“何か”を肌で感じ取っていた。
囲炉裏のそばで、おたきは道具の準備をしていた。
荷を包む麻布、保存食、薬草、着替え、雨除けの外套。それらを小さな袋に詰め直し、静かに棚の裏へと押し込んだ。
「……しのぶ坊の荷はこれでよし。レイナ様の薬湯も、今夜の分で最後になる」
独り言のように呟きながらも、その手付きは正確で慣れていた。
外では、侍女のひとり――かつては本邸にいた者が、灯りのない道を通って来ていた。
小さな紙束を手に、そっと戸口に近づく。
トントン、と二度だけ戸を叩く。
合図は“屋敷の南棟、見張りの交代時刻”。
おたきはすぐに扉を開けると、無言で紙束を受け取り、すぐに戸を閉めた。
誰にも気づかれずに出入りするため、言葉すら交わさないのが取り決めだった。
「……感謝するよ、あんたたちも一緒に逃げりゃいいのにねぇ」
おたきは小さく呟きながら、紙束に目を通した。
──裏門の鍵は、午前二時ごろに“修理点検”と称して外される。
──馬車が通れるだけの隙間が十五分だけ開く。
──西門側の兵舎が交代に入るのは、さらにその十七分後。
見事な連携だった。黒鳥の外部支援と、屋敷内の“気づいている者たち”が繋がり始めていた。
そのとき、囲炉裏の火がパチンと鳴った。
おたきははっと顔を上げ、レイナの方を見る。
レイナはまだ眠っていた。忍も、目を閉じたまま動かない。
だが、おたきにはわかっていた。
(……この子、起きてるね)
だがそれでいい、とも思った。
言葉を交わさずとも、忍は察している。
“何かが始まる”夜であることを。
おたきはそっと、自分の腰に巻いた布の内側に短刀を収めた。
誰かを傷つけるためではない。あくまで「最後の壁」として、自分に課した覚悟だった。
(逃がすよ、坊。あんたと、あんたのお母さんだけは――)
外では風が吹き、屋敷の瓦をかすかに鳴らした。
夜は深まり、決行の時が静かに近づいていた。
※※※
屋敷の本棟。
壁に掛けられた油灯が細く揺れていた。既に深夜、侍女や下働きたちの多くは寝床に入り、通路はしんと静まり返っている。
だが、その静寂の中に、“音を立てずに動く影”がいくつも存在していた。
南棟の物資倉庫。
一人の若い侍女が、棚の裏から小さな麻袋を取り出している。中身は乾燥肉と干し野菜。保存の効く、軽くて栄養のある品ばかり。
それを古びた布にくるみ、夜明け前に届ける手筈になっている“離れ家用の洗濯物”の袋に紛れ込ませる。
「……これで、三日分はもつわ」
彼女は小声で呟き、すぐに元の棚に戻った。動作に迷いはない。
彼女は“かつてレイナに薬草を届けてもらった”ことがある。誰にも頼らず子を産み育てようとした姿を、密かに敬っていた。
一方、北廊下では別の侍女が見回り当番と交代する。
交換の挨拶も最小限、交わすのはただの言葉――
「お湯の準備、もう済んでます」
「じゃ、見回ってきますね」
表向きの会話。しかしその実、“合図”だ。
“お湯”とは、裏門の鍵が開くタイミング。“見回り”は、その間の兵の視線を逸らす役回り。
彼女の名はミーナ。侍女の中でも古株にあたるが、よく見るとその足取りは異様に軽い。
それもそのはず、ミーナはかつて盗賊の情報係をしていたという過去を持ち、今は「屋敷付き侍女」として転生後の身を隠していた“元師団員”のひとりだった。
さらに、厨房では別の侍女が、わざと派手に食器を落とす。
ガシャーン!!
「わ、わっ、ご、ごめんなさいっ!」
派手な音に、近くの下働きが驚いて飛んでくる。
その騒ぎの中で、別の侍女がそっと台所の裏口を開け、小さな包みを外へと放る。
受け取ったのは、庭木の影に身を潜めていた少年。村の協力者だ。
「母ちゃんの分も頼むよ」
「うん! ちゃんと届けるから!」
少年はすぐさま茂みの中へと消えた。
――誰も彼もが、互いの顔を知らず、名乗らず、それでも繋がっていた。
この家には、辺境伯に仕えて長い者もいれば、心から従っている者もいた。
だが、それ以上に「もうここには未来がない」と感じた者たちが、確かに存在していた。
そして彼らは、皆が口をつぐんだまま、“あの母子”を守るために動いている。
名もなく、報酬もない。
ただ――生きてほしいと願って。
※※※
夜半を回り、辺境伯邸はますます深い静寂に包まれていた。
だがその中で、屋敷の“影”に身を置く侍女たちは、静かに、確実に動いていた。
北廊下の脇、使われていない物置部屋の中。
数人の侍女が灯火もなしに集まり、低い声で言葉を交わしていた。
「……予定通り、裏門の鍵は“外れた”わ」
「警備の目も、厨房側が囮を入れてる。今のうちに……」
「今日を逃したら、次はない。あの子たちを、死なせるわけにはいかない」
その声に、皆が静かにうなずく。
この屋敷に仕える侍女たちの中には、ただ従っているだけの者も多い。
けれどこの場に集まった者たちは皆、かつてレイナに助けられたことがある者ばかりだった。
薬草を分けてもらった者、弱った親の看病を手伝ってもらった者――
そして何より、“黙って頭を下げるしかない自分たち”に、人として目を合わせてくれた妾だった。
「……わたしたちも、ここに未来なんてないものね」
「だから、せめて“あの子”には、未来を」
別の侍女が、小さな袋を差し出す。
中には、金貨数枚と、街で使える旅装束の切れ端が入っていた。
「これ、あの人たちに。通行証の代わりになるはず」
「わかった。わたしが“洗濯物”に紛れ込ませる」
決して声を荒げることなく。
手紙も名も残さず、ただ「できることを、できる範囲で」。
その静かな連携が、屋敷のあちこちで進行していた。
誰かが灯火を吹き消す。
誰かが、裏門の板に“合図の刻印”を小さく残す。
誰かが、廊下に水をこぼして掃除のふりをしながら、見張りの視線をずらす。
誰もが互いの顔と名を知らず、それでも「その母子を逃がしたい」という、たったひとつの想いでつながっていた。
そして、彼女たちは知っていた。
――この夜が明けたとき、もう自分たちは“屋敷の人間”ではいられないことを。
それでもいい。
それでも――この夜だけは、守ると決めた。
※※※
夜明け前の空は、深い群青色を帯びていた。
星の光は少しずつかき消され、東の地平にわずかな明るさが滲みはじめている。
森の奥、辺境伯邸から数百メートルほど離れた小さな野営地。
そこに、焚き火すら使わず気配を消した一団が静かに待機していた。
先頭に立つのは、黒い外套に身を包んだ男――“黒鳥”。
彼の背後には、数人の冒険者風の男女が腰を下ろしている。全員、無言。
「時刻、予定より三分早い。裏門の鍵はすでに外されてるはずだ。裏口からの視線誘導は、本邸の侍女たちが担っている」
黒鳥は低く囁くように言いながら、腰の短剣を一度だけ確認し、外套の裾に手を滑らせた。
中には、封のされた魔力封印札が数枚と、気配遮断の薬草袋。
「……“あの子”は、すでに準備を終えている。屋敷内の者と連携が取れているから、こちらは合図とともに“受け取り”に行くだけだ」
一人の若い冒険者――情報通の女が、心配そうに口を開いた。
「……本当に、子どもと病気の母親を歩かせるんですか?」
「いや。手押し車を一台、南側の林に隠してある。小柄な子どもと痩せた母なら、充分運べる」
黒鳥は地面に棒で簡単な図を描く。
「ここが裏門。こっちが離れ家。門番の見張りは既に外されている。裏門の“右側”の荷物置き場が集合場所だ。屋敷の物資運搬口とつながっている」
「“合図”は?」
「門の外に吊るされた古桶が一度、風で揺れる。それが“脱出実行”のサイン。門のそばの協力者が“偶然を装って”蹴飛ばす」
女が小さく笑う。
「……いいですね、風任せってのが、まさに忍びの作戦」
「だからこそ、こっちの動きに迷いは許されない。遅れたら、全滅だ。
母と子だけじゃない。“中で動いてる連中”も、戻る場所を失う」
黒鳥の声には、強さと静けさがあった。
「救出は戦じゃない。“信頼”だ。俺たちはあの師団長の命を、もう一度預かる」
風が木々を揺らす。
それは、夜の終わりを告げる風――同時に、行動の時が近いことを告げる“合図”でもあった。
ご覧いただき、ありがとうございました。
「それぞれの場所で始まる脱出戦」では、忍たちを救うための準備が水面下で進められ、
多くの名もなき協力者たちの思いが描かれました。
誰かに命じられたわけではない。
ただ、「この子を生かしたい」「この母を救いたい」――その想いが、
人を動かし、繋げ、未来への扉を少しずつ開き始めています。
次回、いよいよ脱出の夜が明けます。
合図、決行、混乱、そして“もうひとつの計画”が動き出す――
どうぞお楽しみに。