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058. 黒咬病 (5)

高台スモトロを後にし、捕縛隊と移動団の選抜部隊が静かに歩み出す。

目指すは、内海沿いに広がる港街コルキス。

黒咬病に追われ、家を捨て、闇の中をさまよう住民たちを救い出すための進軍だ。

夜明け前の薄闇の中、彼らの足元を照らすのは星明りだけ。

それでも、胸にある意志は揺るがない。

失われる命を、ひとつでも救うために。

※命を守る者たち


空気が冷たい。

草原の上に、夜の名残がまだ漂っていた。

東の地平が薄く金を帯び、雲の端を静かに照らしている。


イオスは指先で端末を操作しながら、捕縛隊の整列を確認していた。

甲冑の列が規律正しく並び、吐く息が白く立ち上る。


副長として、この空気には覚えがある。

戦の前。

その緊張が、人の心を研ぎ澄ます。

だが今回は違う。

戦いではなく、“救い”のための出発なのだ。


「配置完了。全小隊、報告を。」


各隊長が順に声を上げる。

声の響きが静かな谷に返り、朝の冷気の中に溶けていく。


イオスは短く頷き、横に立つ捕縛隊長へ向き直った。

「予定どおり、出立可能です。ただし、行先は感染地。油断はできません。」


隊長は深く息を吸い、顎をわずかに上げて朝の空を見た。

「覚悟はできている。捕縛とはいえ、これは浄化の戦だ。生き残る者が街を再び動かす。」


イオスはその言葉に静かに頷く。

「ええ。ですが、無駄な犠牲は一人も出させません。我々は“救いに行く”のですから。」


そのとき、耳の通信具が小さく震えた。

アスランからの報告だ。

『こちらアスラン。上空より監視中。天候は良好、風は北西。降下経路に問題なし。』


イオスは空を見上げた。

青白い空に、まだ星がわずかに残っている。

そこに彼の姿は見えない。

だが、確かに“見守られている”感覚があった。


「了解。地上は出立準備中。予定通りに進める。」


『了解。地形図の最新情報を送る。南東の丘を越えると、街の外壁が見えるはずだ。』


端末の画面に新しいルートが描かれる。

捕縛隊長が覗き込み、驚きの声を漏らす。

「まるで地図の上を歩くようだな。」


「ええ。彼の視界から見た地形です。」

イオスが微笑む。

「これが、空の時代の戦い方ですよ。」


隊長は短く笑った。

「神の加護を受けるのではなく、空を味方につけるか。いい時代になったものだ。」


イオスはその言葉に小さく頷き、視線を再び列へ戻す。

「よし。これより最終点呼を行う。医療班、準備を開始。薬の配布はすぐに。」


その声が草原に響いた瞬間、朝の風が吹き抜けた。

隊の旗がはためき、その影が長く地面に伸びる。


彼らの出発は、もう間近だった。

闇を越えた夜明けの光が、静かにその背を押していた。


※予防薬の配布


朝日が地平を越え、草原に長い影を落とし始めたころ。

捕縛隊の列の前方に、移動団の医療班が姿を現した。

白布の腕章が朝光を受け、揺れるたびに光を返す。


先頭の女性医師が銀盆を掲げる。

そこには小瓶がずらりと並び、淡い青の液体が光の中で震えていた。

薬の中から微かに魔力のきらめきが立ち上り、風に溶けて消える。


「これが、感染を防ぐための薬です。」

医師の声は、静かで澄んでいた。

「全員、一本ずつ必ず服用してください。効果は六刻ほど。この時間を越えれば、再投与が必要になります。」


列の中に、ざわめきが走った。

見慣れぬ色、見たことのない光。

誰もが瓶を見つめ、息をのむ。


「こんなものを飲むのか?」

若い兵の声が漏れる。

その不安が、隣へ、さらに後方へと伝わっていく。


そのとき、イオスの声が響いた。

鋭く、しかし力強く。

「感染したくないなら、早く飲め!」


空気が張り詰める。

兵たちは一瞬たじろぎ、全員の視線が前へと集まった。


捕縛隊長が無言で歩み出る。

医師から瓶を受け取り、栓を抜くと、匂いも確かめずに一気に飲み干した。


「苦いな。」

そう言って、瓶を返す。

表情は変わらない。

だが、その一言で場の空気が動いた。


次の瞬間、列の中から声が上がる。

「隊長が飲んだぞ!」

「なら、俺もだ!」


ひとつ、またひとつと瓶が傾き、ごくり、と喉を鳴らす音が草原に響く。

飲み終えた兵士の頬に、かすかな色が戻った。


「味は……悪くない。」

「これで守られるなら、いくらでも飲むさ。」


笑い声が混じる。

緊張がほどけていく。

ほんの数分前まで“未知”だった薬が、今は“仲間の証”になっていた。


医療班の女性が最後の瓶を配り終えると、

短く礼をして告げた。

「効果が出るまで半刻。体を冷やさぬよう、温かい水を取ってください。」


イオスはその様子を見守りながら、捕縛隊長の方を振り返る。

「これで準備は整いました。もう誰も、恐れで立ち止まることはないでしょう。」


隊長は静かに頷いた。


※地上・空・医療班の連携指示


薬の配布が終わる頃には、草原を包む空気が少しだけ暖かくなっていた。

夜露は蒸発し、甲冑の表面に淡い光が揺れている。


イオスは整列した捕縛隊の前に立ち、腰の通信石に手を当てた。

その動作ひとつで、兵たちの視線が一斉に集まる。


「これより、全隊の行動指針を伝えます。」


低く落ち着いた声が、草原の静けさを切る。

「各小隊には、我々移動団の斥候を同行させます。彼らは魔導通信具を装着しており、各隊同士の連絡に加え、隊長殿および私とも直接交信が可能です。」


兵たちの間に、小さなどよめきが起きた。

知らない仕組み。けれど副長の声には迷いがない。

イオスは続ける。


「斥候の通信具は、声を出さずに会話ができる。言葉を心に浮かべるだけで、相手に届く。音を立てずに意思を伝えられる。これが、我々の目と耳となる。」


捕縛隊長が一歩前に出た。

その鎧が金属音を立て、朝の光を反射する。

「それは、思念の伝達ということか?」


「はい。短距離では直接、長距離では中継を通じます。」

イオスは懐から淡く光る石を取り出し、指先で軽く触れた。

青白い光が瞬き、静かに消える。


「これが中継石です。あなたと私の通信も、これを経由しています。」


隊長はしばらく沈黙したのち、静かに呟いた。

「まるで神官が祈りを捧げる儀式のようだな。」


イオスは微笑を浮かべた。

「神ではなく、人の技です。ですが、届かぬ場所へ“声”を運ぶ力には変わりません。」


その時、通信石がわずかに震えた。

アスランの声が届く。

『こちらアスラン。上空三千。通信安定。地上各隊の動きは明瞭に把握できています。』


イオスは隊長に顔を向け、短く告げる。

「上空にはアスラン飛行士がいます。地形、敵の位置、風向き…必要な情報があれば、彼が答えます。」


隊長は空を仰いだ。

そこには青く澄んだ空だけ。

だが、そのどこかに彼がいる。

人の目には見えぬが、確かに“空が味方になった”感覚があった。


「……なるほど。」

隊長の口調には、もはや疑いはない。

「地を守る我々、空を見守る彼。そして、連絡を結ぶあなた。これで陣は整ったな。」


イオスは短く頷いた。

「はい。これより、空と地上、医療と斥候。すべてが一つになります。必要があれば、アスラン飛行士が医療班や後方支援の動きも中継します。」


通信石を通して、アスランの声が再び響く。

『了解。すべてのチャンネルを開放。地上との交信、問題なし。……行け。』


風が草原を駆け抜けた。

旗が鳴り、鎧が揺れる。

「ああ。全員、生きて帰る。それが命令だ。」


朝の光が強くなり、草の上にきらめく露が白く輝く。

その光の中で、兵士たちは瓶を置き、胸に手を当てて列を整えた。


薬の苦味が、覚悟の味として残っていた。


隊長は深く息を吸い、地図を握る手に力を込めた。

その瞳は、戦場ではなく、救いの先を見ていた。


「全隊、最終確認!」


静寂の中で、声が響く。

「この地を越え、街を取り戻す。いや、街の人々を黒咬病から救い出す!」


一瞬の沈黙。

だが次の瞬間、全員の胸に手が当たった。

拳と鎧がぶつかり合い、甲高い音が草原を震わせる。


誰もが、その言葉の意味を理解していた。

敵は人ではない。

病と恐怖。それを解き放つのが、自分たちの役目だと。


イオスはその光景を見つめながら、小さく頷いた。

「ようやく、皆の心が同じ方向を向きましたね。」


通信石の向こうで、アスランの声が届く。

『了解した。上空からも、逃げる民を確認している。

 領主館の周辺に閉じ込められている者たちも多い。

 順に救出を優先しよう。』


隊長は頷き、「民を優先する。領主とその家族は、最後で構わん。」


イオスは短く応じた。

「了解しました。救いから始まる捕縛、それが今回の戦いです。」


風が吹き抜け、隊旗が朝日に照らされて翻った。

その影の中、兵士たちは再び隊列を整える。


空と地、そして人の心が、一つになった瞬間だった。


※闇を導く光


夜と朝の狭間。

高台スモトロの上空には、まだ星がいくつも残っていた。

その下で、捕縛隊と移動団の救出隊が二手に分かれる。


海側へ降りる者たちと、山の斜面を進む者たち。

彼らの目的はひとつ。

コルキスの街に取り残された民の救出だった。


風が冷たく、湿った草の匂いが漂う。

足元は露に濡れ、甲冑がかすかに軋む。


イオスの号令で、斥候部隊が前に出た。

彼らの額には、淡く光る小さな装置が装着されている。

魔導式の暗視具。旧師団の技術を応用したものだ。


「斥候、進行開始。」

「了解。進路を確保しつつ誘導します。」


その声が通信具を通じて響くと、斥候たちの目の前に、淡緑の光が広がった。

木々の輪郭が浮かび上がり、足元の岩や根も明確に見える。


一方、後方の捕縛隊には、ただ闇しかない。

星明かりだけを頼りに進む彼らの視界は限られ、闇と木々の境目さえ曖昧だった。


「足元注意! そこ、段差になってます!」

先頭の斥候が声を上げ、手信号を送る。

その動きに合わせ、捕縛隊の列がゆっくりと進む。


「まるで、夜の精霊に導かれてるみたいだな。」

列の中から、誰かが小さく呟いた。


暗闇の中で、斥候たちの光が瞬き、まるで小さな星々が地を歩いているようだった。


だが、進軍は容易ではない。

根が張り出した道、崩れた斜面、湿った岩。

捕縛隊の重装備には酷な道のりだった。


「くそ、足が滑る!」

「慌てるな、声を出すな。光を追え。」

副長の声が低く響き、緊張が戻る。


上空の通信具がわずかに震えた。

アスランの声が届く。

『こちらアスラン。両隊とも順調だ。

 海側は砂浜に沿って、やや右へ。

 山側は斜面を避けて進め。北東の尾根が狭い。』


イオスは空を見上げ、「了解。上空確認、ありがとう。」と返す。


捕縛隊長が息を吐いた。

「見えぬ空の上で、よくもまあ状況が分かるもんだ。」


「ええ、彼の目は、我々の何十倍も遠くを見通せます。」

イオスの声は静かだが、確信があった。


やがて、木々の間から、ぼんやりと街の輪郭が見え始めた。

内海に沿って伸びる、北西から南東へ続く光の線。

それがコルキスの街だった。


山側の隊は、北東の高台を下りながら、斥候の光に導かれ、街を見下ろす位置に立つ。

その向こうに、海側の隊が進む灯がちらちらと見えた。

暗闇の中で、それぞれの光が一つの線を描いている。


「まるで夜空の星座みたいだな。」

捕縛隊の若い兵が呟く。

その言葉に、イオスは小さく微笑んだ。


「星は、道を示すためにある。今夜の星は、我々の手で地上に降りたのです。」


彼の言葉に、誰もが無言で頷いた。

冷たい風が吹き抜け、

その向こうに、夜の終わりが見え始めていた。

高台を離れ、二つの隊はそれぞれの道を進んだ。

斥候の誘導を頼りに、闇の中を慎重に下っていく。

街まではまだ距離がある。

救出はこれから始まる。

そのための準備として、彼らはただ静かに前へと歩み続けた。

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