057. 黒咬病(4)
夜が明けきる前、野営地の中央に大きな天幕が立った。
そこに映し出されるのは、空から見た街。
神々の目線にも等しい光景だった。
初めて目にする“上からの世界”。
理解を超えるその映像の前で、人々は息を呑む。
けれどその驚きの中に、確かに何かが芽生えていた。
恐れでもなく、疑いでもなく。
希望。
光を見つけた者たちが、その光を守ろうと立ち上がる朝の始まりである。
イオスは受け取った端末を手に、静かに命じた。
「観測班、天幕を張れ。魔導布を広げてスクリーンにする。全員に見せる。」
移動団の人々が戸惑いながらも動き出す。
支柱が打たれ、白い布が朝風に揺れた。
光を受けると、わずかに透き通る。
その様子を見ていた捕縛隊長が、腕を組んでイオスに近づく。
「イオス副長。あれは、飛行士殿の道具か?」
「はい。空から得た観測データです。街の上空を通過した際に、熱反応を記録しています。」
「熱反応?」
隊長の眉が動く。
「火災の記録ではないのか。」
「いいえ。人や動物の体温を示すものです。どこに命があり、どこに感染が広がっているか。それを、一目で確認できる。」
隊長は短く息を吐き、張られていく白布をじっと見つめた。
「まるで神の目だな。」
イオスは否定も肯定もせず、ただ穏やかな口調で答える。
「神が見ているなら、せめて我々も、真実を隠さずに見たいと思います。」
隊長はしばらく黙ったあと、「よかろう。全員を集めろ。」と命じた。
陽が地平線をかすめ、天幕の中が薄く明るくなりはじめたころ。
捕縛隊の集合を聞きつけた移動団の炊き出し班が、湯気の立つ鍋を抱えてやって来た。
「朝食をどうぞ! 冷える前に受け取ってください!」
香ばしい匂いが風に乗って広がる。
まだ緊張の残る空気の中に、少しだけ人間らしい温もりが戻った。
兵たちは次々と皿を受け取り、自然と小隊ごとに集まって腰を下ろしていく。
イオス副団長がスクリーンの前に立ち、「全小隊、視界を確保。食事をとりながらで構わない。」
と声をかける。
パンをかじる者、スープをすすりながら地図を見ている者。
ただ、誰もがまだ落ち着かない。
「あの空の人が撮ったっていう映像、どんなものなんだろうな。」
若い兵士がぼそりと呟く。
隣の同僚が苦笑する。
「神様の目でも借りてきたんじゃないか。」
少し離れたところで年長の兵が低く言う。
「どうであれ、俺たちがやることは同じだ。見る前に腹に入れておけ。冷めた飯は気持ちが冷える。」
笑いが小さく起き、湯気がその音を包み込む。
外ではまだ風が冷たいが、天幕の中には確かに“人の営み”があった。
それでも、心の底では皆が思っていた。
この後、何が映し出されるのか。自分たちはそれを、どう受け止めるのか。
スプーンを口に運ぶ音が次第に減っていく。
誰もが自然とスクリーンの方を見ていた。
期待と、わずかな怖れを混ぜたまなざしで。
魔導布に光が流れ、街の俯瞰図が浮かび上がる。
それだけで、天幕の中の空気が止まる。
最初の反応は、息を呑む音だけ。
捕縛隊も移動団も、誰一人として声を発しない。
彼らの世界に「上から街を見る」という概念自体がないのだ。
「これ、絵じゃないのか?」
「どうやって、こんな高いところから?」
その問いすら小声でしか出てこない。
まるで神官が奇跡を目撃した時のような、畏れの沈黙。
イオスは淡々と話す。
「この映像は、夜の上空から記録されたものです。光って見える部分は、生きている者たちの体温です。」
意味が通じるようで通じない。
“上空”“記録”“体温”――どの言葉も、
この時代の人々にとっては新しい概念だった。
捕縛隊の一人が不安げに尋ねる。
「それは……神の力なのですか?」
イオスは少しだけ笑い、答える。
「神の力ではありません。人の手で、空を飛び、人の目で見た映像です。」
ざわめきが広がる。
“人が空を飛ぶ”というだけでも理解を超えるのに、“その目で街を映す”など、神話にしか存在しなかった。
最初は恐怖。
自分たちの姿が“上から見られていた”という事実に、何人かの兵は無意識に帽子を脱いで頭を下げる。
だが、映像の中で光る赤い点「命の痕跡」を見つけた瞬間、空気が変わる。
「生きているんだ。」
「街の中にも、まだこんなに!」
恐れは驚きに、驚きは希望に変わっていく。
誰かが祈るように手を組み、誰かが静かに涙を拭った。
イオスはその反応を見ながら、短く言葉を添える。
「これは奇跡ではない。彼が、夜空で見つけた“命の証”です。」
アスランの方を一瞬だけ見やる。
その視線に答えるように、アスランは小さく頷いた。
イオスの説明が終わると、
天幕の隅から一人の男が前に出た。
ユーリだ。
医療と技術、両方を担う旧師団のメンバー。
彼は投影された街の映像を見上げ、手元の杖の先で赤い点の一つを指した。
「この赤い光は、熱を持つ場所を示しています。人も獣も、生きていれば体の中で熱を生み出します。それを拾い上げたのが、この映像です。」
周囲が息を呑む。
ユーリは落ち着いた声で続けた。
「ここ、街の南東。点がいくつも重なっているのが分かりますね。これは、同じ温度を持つ小さな生き物の群れです。おそらく、感染を広げた元になった動物たちでしょう。」
捕縛隊の隊長がゆっくりと立ち上がった。
年季の入った鎧のきしむ音が、天幕の静けさに響く。
「待て。人も獣も、その“熱”とやらで見分けられるのか?」
ユーリは頷く。
「はい。人はおよそ三十七度前後の熱を放ちます。獣はそれより高いものも低いものもいます。この映像では、それらを別々に表示しています。」
「では、冷たいものは?」
「熱を持たぬものは映りません。つまり、そこには“命”がないということです。」
天幕の中に、静かな緊張が走った。
誰もがスクリーンを見つめ、光っていない場所。闇の領域に目を留める。
それは、街の半分以上を覆っていた。
隊長が低く息を吐く。
「あの闇の部分は、もう死んでいるということか。」
ユーリは一瞬、言葉を選び、
「そうです。しかし、この光の点が残っている限り、街はまだ、生きています。」
沈黙。
誰かの喉が鳴る音だけが聞こえた。
イオスが隊長の方へ振り返る。
「これがアスラン飛行士の報告です。我々はこの光をもとに動きます。闇を恐れるより、光を守ることを優先しましょう。」
隊長はゆっくり頷いた。
「……いいだろう。ならば、我々の役目は決まったな。」
その声に、天幕の中の兵たちが次々と立ち上がる。
スプーンの音が止まり、代わりに鎧の金属音が重なった。
希望と覚悟が同じ温度を持った瞬間だった。
天幕の布が揺れ、朝の光がその向こうから差し込んでいた。
誰もが知っている。
映し出された光点のすべてを救えるわけではない。
それでも、見てしまった以上、もう目を逸らせない。
隊長は静かに立ち上がり、副長のイオスもまた頷く。
その周囲で兵たちが武具を鳴らし、ひとつの音として響いた。
夜の闇が終わり、命の灯が彼らの行軍を導く。
捕縛ではなく救出のための行進が、ここから始まる。




