056. 黒咬病 (3)
静かな海の底から、ひとつの光が立ち上がる。
それは祈りではなく、技術の結晶。
けれど、この時代の人々にとっては、まぎれもなく“奇跡”だった。
海に眠る夢の拠点。そこから飛び立つ戦闘機。彼の任務は、救いを運び、命の灯を繋ぐこと。
海と空、信仰と科学。その狭間で、アスランは人の限界を超えてゆく。
彼が見た世界の光景は、やがて地上の者たちの“目覚め”を呼び起こすことになる。
静かな海の底。
水圧センサーが安定値を示し、前方に薄い光の筋が伸びている。
それは海中基地への案内灯だった。
左右に連なる小さな明滅が、まるで深海の街路灯のように彼を導いていく。
『ドーム艦、ドックゲート開放。減速せよ。』
「了解、推力七割に調整。」
金属の軋む音と共に、機体がゲートをくぐった。
数秒後、水が一気に引き、ドックの床が現れる。
天井の照明が順に灯り、格納庫の全景が露わになる。
潮の香りと鉄の匂いが混ざる空気。
整備員たちが走り寄り、整備灯を向ける。
先頭の技術者が笑みを浮かべ、片手を挙げた。
「いらっしゃい、アスラン飛行士!」
アスランはハッチを開け、冷気を含んだ空気を吸い込む。
「ドック圧力安定、確認。」
足を下ろすと、金属板がかすかに鳴った。
眼前には、ガラス越しに広がる白い通路と緑の居住区。
かつて“移民ドーム艦”として建造された。
その内部は、今や仮設基地として再生されていた。
老技師が彼に歩み寄り、工具を肩に掛けたまま笑う。
「昔の試作艦を、ようもまぁここまで生かしたもんだな。」
アスランは微笑を返す。
「壊すには惜しい技術だ。今夜は、人を救うために使わせてもらう。」
技師が頷き、指で奥の通路を指し示した。
「研究棟は準備済みだ。特効薬も冷却保存中。あんたの機体に積める量、計算しておいたよ。」
アスランは軽く息を吐いた。
「助かる。夜明けまでに戻る。」
老技師が肩をすくめる。
「無茶を言う。だが、それがあんたの仕事だったな。」
格納庫の奥で、薬剤を積んだコンテナが光を放った。
青白い液体が揺れ、金属の外殻に反射する。
アスランは無言で歩み寄り、それを自らの手で持ち上げた。
彼の背後で、整備員たちが敬礼する。
その敬礼は、命を運ぶ者への祈りにも似ていた。
※
老技師が奥の通路を指し示した時、
アスランの無線がチリ、と鳴った。
『こちら師団長、忍。聞こえるか、アスラン。』
懐かしい声に、アスランの口元が緩む。
「こちらアスラン飛行士。受信明瞭だ。」
『王国からの指示で、特効薬の仕様が変更になった。
液状のままでは長期保存に不向きだそうだ。
粉末化した状態で納品するよう、仮設基地に伝えてある。
出発までに確認してくれ。』
「了解。粉末仕様での受領に切り替える。……忍、そっちは無事か?」
『ああ。捕縛隊は無傷だ。だが、街の状況は想像以上に深刻だ。お前の持ち帰る薬が、命の分かれ目になる。頼んだぞ。』
「任せておけ。」
短い沈黙ののち、通信が切れた。
ヘッドセットから微かなノイズだけが残る。
アスランは踵を返し、研究棟へと歩いた。
研究棟の中央では、数名の研究員と神官が待機していた。
彼らの前には、冷却結界に包まれた作業台。
その上で、粉末化された薬剤が淡く光を放っている。
小瓶の中には、青白い粒子がゆっくりと舞っていた。
光の角度で色が変わり、まるで星の粉のようにも見える。
「これが、王国仕様の新型です。」
若い研究員が報告する。
「液体を蒸留・結晶化して粉末に。保存期間は従来の五倍、投与時に水または血清に溶解します。」
アスランは瓶を手に取り、慎重に振ってみせた。
粒子が静かに渦を巻き、淡い光を返す。
「……これなら長距離輸送でも安定する。忍の判断は正しい。」
老技師が笑う。
「さすがだな。粉末にするなんざ、古代医術の発想だ。」
「古いものと新しいもの、どちらも必要だ。」
アスランは小瓶を専用ケースに収め、封印を施す。
カチリと音がして、冷却魔法が作動。
ケースの表面に青い紋章が浮かんだ。
「これで準備は整った。発艦準備に入る。」
「了解。全システム、発艦モードへ移行。」
技術者たちが次々と端末を操作し、ドームの外壁が低い音を立てて動き始める。
アスランは無線のチャンネルを再設定し、静かに呟いた。
「忍、王都――必ず届ける。」
天井の照明が落ち、発艦区画に赤い警告灯が灯る。
黎明艦の外壁が開き、海水が押し寄せる音が響く。
弾道の翼が再び、その海の底で目を覚まそうとしていた。
※
黎明艦の整備区画に低い振動が伝わった。
発艦準備の合図だ。
アスランは格納庫の中央に立ち、壁に映る艦内構造図を見上げていた。
「この補給チューブ……最上層は海面近くまで延びているな?」
技術主任が慌てて顔を上げた。
「ええ、物資搬送用ですが……まさか、使うおつもりですか?」
アスランは静かに頷く。
「使える。推進炉を絞れば圧力差を利用できる。
ここから直に海面へ浮上する。」
技師たちの間にざわめきが広がる。
理屈は通る。だが、誰も試したことがない。
老技師が肩をすくめ、薄く笑った。
「やれやれ……また“実験飛行”だな。」
「理論上は問題ない。」
アスランは淡々と答え、ヘルメットを被った。
その一言が、すでに命令のように響いた。
発艦チューブが光を帯び、透明な管の外で海水が揺らめく。
整備士たちの声が飛び交う。
「安全弁閉鎖! 圧力安定確認!」
「誘導灯、稼働良好!」
「黎明艦、こちらアスラン飛行士。発艦チューブへの連結を確認。
推進炉、起動開始――浮上モードに移行する。」
管制席のオペレーターが息を呑む。
「……了解。神の加護を。」
機体〈アスラニア〉がゆっくりとチューブ内に進む。
周囲の海水が振動し、気泡が巻き上がる。
圧力ゲージが上昇し、管全体が青白い光を放ち始めた。
観測窓に群がる研究員たちが、その光景を固唾を呑んで見つめる。
「これ……本当に行くんですか?」
「海面まで一直線だぞ……」
老技師が腕を組み、微かに笑う。
「行くさ。あれが“飛行士”の仕事だ。」
機内の計器がすべて緑を示す。
アスランは短く息を吸い、手元のスイッチを押し込んだ。
「ブースト解放。行くぞ。」
次の瞬間、推進炉が轟音を上げた。
水流が弾け、無数の泡が閃光のように走る。
チューブ全体が震え、黎明艦の床が低くうなった。
「出た!」
誰かが叫ぶと同時に、
海面が爆ぜ、巨大な水柱が立ち上がる。
その中心から、銀白の機体が姿を現した。
水滴をまといながら、一直線に空へ――。
濡れた外殻が朝の光を反射し、翼が展開する。
滴る水が虹を描き、波間に散った。
黎明艦の観測室では、歓声とも悲鳴ともつかぬ声が上がる。
「浮上成功!」「水圧波、異常なし!」
「いや、ちょっと待て、これ計算より三割速いぞ!?」
「推進炉の出力、想定外だ! でも……成功です!」
老技師は静かに息を吐き、笑みを浮かべた。
「止めたって、あいつはやる。
止めても、自分で道を作るだけだ。」
隣の研究員がメモを取りながらぼそりと漏らす。
「……報告書、どう書けばいいんです?」
別の者が笑いながら答える。
「“発艦成功。ただし方法は想定外”で十分だろう。」
観測窓の向こう、海面の上にはまだ光の尾が残っていた。
それはまるで、黎明艦から空へと伸びる一本の道――
希望の航跡のように見えた。
※
海中から突き上げた〈アスラニア〉は、白い水柱を貫いて夜空へと躍り出た。
外殻の水滴が蒸発し、機体が銀色に輝く。
黎明艦の灯が遠ざかると、周囲には星と静寂だけが残った。
アスランは姿勢制御を整え、推進炉を再点火。
弾道飛行モードに切り替えると、機体が高高度へと滑るように上昇した。
「こちらアスラン飛行士、衛星リンク再接続。地上通信を確認。」
無線の向こうから、忍の声が届く。
『聞こえる。帰還ルートは確保済みだ。燃料は十分か?』
「問題ない。三時間後には北域圏に入る。」
短い沈黙の後、忍が言葉を続けた。
『……さっきの話だが、生体の熱で人を探せるというのは本当か?』
「理論上はな。地中でも、体温があれば赤外線に反応する。」
『なら――今回の感染源、小動物を探すのにも使えないか?』
アスランの目がわずかに細まる。
「……なるほど。原因を“探す”という発想か。」
『街を焼くより、一匹を見つける方が早い。』
「いい考えだ。試してみよう。」
機体の計器に指が走る。
アスランはナビゲーションシステムを再構成し、
赤外線と魔力波の融合スキャンを起動した。
眼下に広がるのは、黒海沿岸の夜。
コルキスの街が、点在する灯のように暗闇の中に浮かぶ。
「スキャン開始――地表温度差補正、オン。」
ディスプレイに、無数の光点が現れた。
人々の体温、獣の群れ、燃え残る瓦礫の熱。
だが、その中に異質な反応がある。
街の南東――山裾の森。
他より高い温度の塊が、幾重にも密集していた。
「……これは、動物の群れだな。」
出力を上げ、波形を分析する。
規則的に移動する複数の小型熱源。
呼吸の周期、体温の偏り――明らかに生体だ。
アスランはスキャンデータを保存し、無線に切り替えた。
「忍、データを取得。コルキス南東の森に異常な熱反応あり。
感染源の群れの可能性が高い。」
『了解。帰還後に地上班へ共有する。よくやった。』
通信が切れる。
機体は北東へ針路を取り、夜明け前の空を滑る。
外気温が急激に下がる。
高度は一万メートルを超え、視界の彼方で地平がわずかに白み始めていた。
アスランは燃料残量を確認し、微かに笑う。
「夜明けには間に合いそうだな。」
推進炉を再出力。
機体が震え、薄い雲を切り裂く。
北から吹きつける風が、帰還の方向を指し示していた。
高台スモトロ上空、午前四時。
夜明け前の薄明かりが地を覆う。
捕縛隊と移動団が眠りの浅い時刻――
突如、遠方の空に白い光が走った。
「……流星か?」
見張りの兵が空を仰ぐ。
だが光は落ちず、ゆっくりと高度を下げてくる。
風が強まり、次の瞬間――轟音と共に可変戦闘機が降下してきた。
草原の中央、昨夜発進した場所に着陸。
地面が震え、夜露が宙に舞う。
捕縛隊の兵たちは一斉に武器を構えた。
「な、なんだあれは……!」
「敵襲か!?」
イオス副団長が素早く前に出る。
「落ち着け! 味方だ!」
兵士たちは半信半疑のまま、光の中に立つ機体を見つめる。
翼から滴る水が地を打ち、風防が開いた。
アスランが姿を現す。
ヘルメットを外し、短く言葉を放つ。
「ただいま戻った。」
その一言で、場の空気が変わった。
移動団の子どもたちが最初に走り出し、「おかえりなさい!」の声が広がる。
イオスは苦笑し、アスランに歩み寄る。
「夜に出て、もう戻ったのか。まるで夜明けと競争しているようだ。」
「予定より早かっただけだ。」
アスランは端末を取り出し、イオスに差し出す。
「港町コルキス上空でのスキャンデータだ。感染源の群れらしき熱反応を記録してある。」
イオスは端末を受け取り、画面を覗き込む。赤い点群が森の一角に密集している。
「これが、感染の元か。」
「可能性は高い。街に入る前に確認を。」
イオスは頷き、鋭い眼差しで画面を閉じた。
「助かる。これで動ける。」
二人の背後で、夜が明け始める。
捕縛隊の兵士たちはまだ半信半疑のまま、銀白の機体と朝焼けを見つめていた。
風が止み、静寂の中でアスランが一歩踏み出す。
その足元に、夜露の滴がきらりと光った。
海の底を離れた光は、夜を越え、朝の空に帰ってきた。
彼が見たものは、絶望ではなく、まだ生きている命の輝き。
それを携えて戻った彼の姿は、誰の目にも“希望の化身”として映っただろう。




