054. 黒咬病
王命が告げられた夜から、まだ一日も経たぬころ。
丘の上では、移動団が焚き火の灯に包まれ、港町コルキスの方角を見つめていた。
その夜、風は変わった。
教会の鐘が鳴り、遠くから届く光の信号。
黒咬熱、百年前に封じられたはずの疫病が、静かに目を覚ました。
レイナたちは動き、神殿の使者は報せを携え、そして、神の円卓では王が決断を下す。
それぞれの地で、それぞれの祈りが重なり、
夜の果てに、ひとつの希望が灯ろうとしていた。
※丘の上、光の報せ
夜の風は冷たく、空気はひどく澄んでいた。
焚き火の残り火がかすかに光を投げ、丘の上の野営地を包んでいる。
見張り台にいたロクスは、ふと顔を上げた。
港の方角――暗い水平線の向こうに、点滅する光が見えた。
短く、長く、また短く。規則的に、迷いのないリズム。
「……信号だ」
ロクスは息を飲み、隣で仮眠をとっていたイオスを呼んだ。
「イオス様、起きてください! 港から光が!」
イオスはすぐに立ち上がり、瞳を細めて光を追った。
「――・ --- ・・- ・---……」
口の中で繰り返し、すぐに判断した。
「“G・O・U・J”……第四警戒信号だ。港で危険発生。封鎖要請だ」
ロクスの顔が強張る。
「封鎖って……まさか、火災とかじゃ……」
「いや、あの符号は感染の報せだ」
イオスの声は低く、確信を帯びていた。
「黒咬熱の……可能性がある」
焚き火の赤い光が、二人の顔を青ざめさせた。
イオスはすぐに決断した。
「団長を起こせ。全員、準備に入る」
※医療班の招集と初動会議
レイナの天幕の灯りがともる頃には、すでに医療班が集まっていた。
ユーリ、イリアス、ナセル、他の治療士たちが簡易卓を囲む。
地図が広げられ、港から丘へ吹く風の向きが記されていた。
「報せは確かです」
イオスが短く告げた。
「禁制獣が逃げ、検疫官が倒れた。症状は高熱と痙攣。
“黒咬熱”の発生信号が、教会から出ています」
ユーリの手が震えた。
「黒咬熱……まさか、あの病が……?」
イリアスが眉をひそめる。
「封印病・・・神殿の記録では百年以上前に消えたはず」
レイナは、静かに地図を押さえた。
「風下は南。今夜のうちに幕と井戸を封鎖する。
医療班は消毒の準備。馬車の魔導炉を使って熱湯を確保して」
イオスが頷く。
「防疫線を二重に張ります。港との往来を一時遮断」
レイナは短く息を整えた。
「神殿の使者、オルフェン殿の帰還を待ちましょう。
病名の確定と、王国への正式報告が必要です」
医療班は即座に散り、野営地に再び慌ただしさが戻った。
夜の丘に、焚き火の光がいくつも増えていった。
※オルフェンの帰還
夜半を回ったころ、丘の下から馬の蹄の音が聞こえた。
オルフェンの一行が戻ってきたのだ。
その顔には疲労が刻まれていたが、眼差しは鋭く、決意に満ちていた。
イオスが迎えに出る。
「教会の様子は?」
「最悪だ」
オルフェンの声は低い。
「倉庫で禁制獣が逃げ、検疫官が発病した。
症状は高熱、リンパ節の腫れ、黒斑。黒咬熱と断定した」
野営地の空気が一瞬で凍りつく。
レイナはわずかに息を呑んだが、すぐに立ち上がった。
「港は封鎖できたのですか?」
「教会が鐘を鳴らし、監視班が街を封鎖中。
ただし、逃げ出した者がどこまで行ったか分からぬ」
レイナは地図を指でなぞった。
「では、ここが最後の防壁になりますね」
オルフェンが頷く。
「神々があなた方をここに導いたのかもしれません。
風上に陣取るあなた方が、町を守る盾となる」
レイナの声が静かに響く。
「盾であるなら、迷いはありません」
※防疫布陣と民の避難支援
深夜、移動団の全員が動いた。
白布の幕が張られ、井戸の周囲には封鎖札が打ち込まれた。
病院馬車では魔導炉が唸り、蒸気が立ちのぼる。
医療班が次々と桶を運び、薬草を煎じ、消毒水を作る。
神官たちは浄化の祈りを唱え、風除けの結界を設置。
夜風に乗って漂う香は、薬と聖油の混じった重い匂いだった。
レイナは風向きを見ながら、手勢に指示を飛ばす。
「南西の道を封鎖! 風下の人たちは丘の裏手へ! 荷馬車は北の林へ避難を!」
ユーリが駆け寄り、息を切らせて報告した。
「港からの避難者が三十人ほど、丘の下に! 子どももいます!」
「分かりました。医療班を半数下へ! 発熱者の確認を!」
混乱の中でも、誰一人として声を荒げなかった。
レイナの号令が届くたびに、団員たちは迷いなく動く。
まるで訓練された軍のように。
だがその行動の根には、ただ“命を守る”という祈りがあった。
オルフェンがレイナのそばに立つ。
「王の“静かな後ろ盾”が、ここで生きるとはな」
レイナはわずかに笑みを浮かべた。
「本当に静かですね。でも、確かに背を押されています」
その夜、丘の上の野営地は防疫拠点へと変わった。
焚き火の炎が高く揺れ、
その光が港を覆う闇に、かすかな希望の色を投げかけていた。
※母様からの知らせ
夜の丘は、冷たい風に包まれていた。
焚き火の火は細く揺れ、遠く港のほうには、まだ警鐘の音が小さく響いている。
レイナは野営地の外れ、風を避ける岩陰に腰を下ろした。
指先で小さな祈りの符を描き、目を閉じる。
「神カグヤよ。忍に、伝えたいことがあります」
淡い桜色の光が彼女の掌を包む。
次の瞬間、その光は波紋のように広がり、どこか遠く、忍の眠る夢の中へと届いた。
***
忍は、柔らかな月光の下に立っていた。
目を開けると、そこにはレイナの姿。
夢の中とは思えないほど、凛とした輪郭が光の中に浮かんでいる。
「母様?」
「忍、聞いて。コルキスで、黒咬熱が発生したの」
レイナの声は穏やかだが、深い緊張を帯びていた。
「黒咬熱! あの、昔、王都で流行った?」
「ええ。検疫官が倒れた。禁制の獣が関わっている。
港の封鎖は始まったけれど、感染が広がる前に王国へ伝えなければ」
忍は唇を噛んだ。
「王の耳に、直接……」
「そう。だから、今夜――神カグヤの円卓で伝える。
王と宰相、捕縛部隊の総隊長を呼ぶようお願いしたの」
レイナの表情が一瞬だけやわらぐ。
「あなたの側に、神カグヤがいるでしょう? きっと導いてくれるわ」
忍は頷き、胸に手を当てた。
「分かった、母様。必ず伝える」
桜の光がふたたび波紋のように広がり、夢の中の景色が消えていく。
「どうか無事で」
忍の声が、静かに夜に溶けた。
※ 王国の城に夜が満ちる頃
誰もいない王の執務室に、柔らかな白光が差し込んだ。
その光の中心から、静かな声が響く。
「王よ、宰相よ、そして捕縛隊の長よ。
来なさい。カグヤの円卓にて、語るべき時が来ました」
瞬きの間に、四人の影が光に包まれた。
王アレクシウス三世、宰相ルドルフ、捕縛隊総隊長ダルマート、そしてその副官。
彼らは次の瞬間、白亜の円卓の前に立っていた。
天井は見えず、空気は静謐。
円卓の中央には桜色の光が漂い、そこにカグヤの姿があった。
「神・カグヤ?」
王がわずかに目を見張る。
カグヤは微笑みを浮かべ、静かに語り出した。
「王よ。あなたの国の港、コルキスで“黒咬熱”が再び息を吹き返しました。
その源は、禁制とされた獣。あなたの領主が扱っていたものです」
宰相ルドルフが息を呑む。
「まさか…そんな、港の検疫は厳重にしていたはず!」
「しかし、禁制の裏取引はあなたの臣下の手で行われていました。
いま、感染は倉庫から町へ。
移動団が封鎖線を築き、風上を守っています」
円卓の上に、幻影のように港の地図が映し出される。
倉庫群、教会、丘。
そして黒い影が風に乗って広がっていく。
王は拳を握り、低く言った。
「やはり、裏で繋がっていたか。不正の根が、まだ生きていたのだな」
カグヤの瞳が淡く光る。
「あなたの“静かな後ろ盾”は、試されようとしています。
王国は、この災いをどう裁き、どう救うのか」
捕縛隊長ダルマートが跪いた。
「陛下。直ちに出撃の許可を。領主を拘束し、禁制物を押収いたします」
王は頷いた。
「ゆくがよい。夜明けとともに出発せよ。
だが民に剣を向けてはならぬ。救うための行軍であると心得よ」
カグヤは微笑み、右手を掲げる。
「その決意、神は見届けましょう。この夜、あなた方の行いが、ひとつの時代を分ける」
円卓の光がゆるやかに沈みはじめていた。
神カグヤは、淡い桜の衣を揺らしながら言葉を結ぶ。
「王よ、宰相よ。あなた方の決意を、確かに見届けました。
この災いの行く末を、神も共に歩みましょう」
王アレクシウス三世が深く頷き、宰相ルドルフが安堵の息をついた。
捕縛隊長ダルマートと副官は、王の前に跪き、出立の準備を誓う。
その時、空気が震えた。
円卓の中心、淡い光が渦を巻き、そこに小柄な影が飛び込むように現れた。
「母様!」
忍だった。
息を切らし、目を見開いて立つその姿に、カグヤの目が驚きと微笑を宿す。
「忍! どうしたのです?」
忍は深呼吸をして、声を張った。
「疫病、黒咬熱の治療薬が、あの島で完成しそうだと連絡がありました!」
円卓の空気が一変した。
宰相ルドルフが椅子から身を乗り出す。
「治療薬だと!? 本当か!」
「はい!」
忍は頷いた。
「研究班が、あの孤島で薬草の精製に成功したそうです。
発症を抑える効果が確認されていて、すぐに“アスラン”が運ぶと!」
王が息を呑む。
「アスラン、神速の風を持つ聖獣か?」
忍はさらに続けた。
「発生源のコルキスへ運ぶ予定ですが、王国にも、少し届けましょうか?
保存が利くように調合を変えられるそうです」
王アレクシウス三世は深く考え、宰相ルドルフと視線を交わした。
「保存が利くのか?」
「はい。乾燥粉末の形で保管可能と」
宰相が短く頷く。
「陛下、これは王国の備えにすべきです。
今後の発生に備えて、王都医療庫に一定量を保管しましょう」
王は静かに立ち上がった。
「同意する。アスランの便で半量をコルキスへ、半量を王都へ運ばせよ。
これは神々と人が共に作った、初めての薬だ」
カグヤが微笑んだ。
「見事な判断です。
この光の輪は、争いではなく“癒し”のために繋がりました」
忍は少し安堵の笑みを浮かべた。
「母様も、きっと喜びます」
カグヤはそっと忍の頭に手を置き、桜色の光が円卓全体を包み込む。
王と宰相、将官たちの姿がゆっくりと霞に溶け、再び現世へと戻っていった。
忍はひとり、光の余韻の中に残る。
その胸の奥で、小さく呟いた。
「神の声と、人の知恵。どちらも、守るための力なんだね」
遠く、夜の向こうで、風が静かに鳴った。
それはまるで、アスランの羽音のようだった。
円卓の光がふわりと揺れ、王と宰相、将官たちは再び現世へと戻された。
王城の窓から見える東の空が、わずかに白んでいた。
夜明け前。
捕縛部隊の出立を告げる鐘が、静かに鳴り始める。
黒咬熱。再び現れた闇の病。
だが、その闇の只中で、人と神は共に立った。
レイナは丘で民を守り、忍は神通信で未来を繋ぎ、王は円卓で決断を下した。
そして、遠くの島で生まれた治療薬が、アスランの翼に託され、風となって旅立つ。
恐れではなく、祈りと知恵で立ち向かう者たち。
それが、この世界に生きる“人”の証なのだろう。




