053. 報せの後(3)
丘の上では、王命が告げられ、
“静かな後ろ盾”という言葉が移動団の胸に刻まれた夜。
人々はようやく安堵の息をつき、
海から吹く風も穏やかに感じられていた。
だが、同じその夜――
港の倉庫では、誰にも知られぬ小さな影が動き始めていた。
※野営地での対面
潮の香を含んだ風が、丘をゆるやかに渡っていた。
焚き火はすでに消され、移動団の野営地は整然と静まり返っている。
医療班の天幕も片づけられ、布の影には淡い朝の光が差していた。
丘の下の街道から、三人の影がゆっくりと現れる。
法衣の裾を揺らしながら、神殿の使者たちが近づいてきた。
先頭に立つのは、クラズ神殿の神官オルフェン。
その胸には桜印、腰には封蝋の巻簡。
レイナは一歩前に進み、柔らかく礼を取った。
「クラズ神殿よりの使者とお見受けします。ようこそ、この丘へ」
オルフェンも同じように頭を下げる。
「移動団を率いられるレイナ殿に、王国よりの伝達を預かって参りました」
野営地の空気が変わった。
焚き火の周囲にいた団員たちは作業の手を止め、
息をひそめてその場を見守る。
※王命の告知
オルフェンは両手で巻簡を掲げ、静かに言葉を紡いだ。
「王国陛下アレクシウス三世の御命により、
クラズ神殿がこれを伝えます」
彼は慎重に封を切り、金と桜の印章をほどいた。
朝日が羊皮紙に反射し、光の筋が彼の顔を照らす。
オルフェンは深く息を吸い、読み上げた。
> 王国命令書
> 神々の託宣を受け、王国は不正を糾す。
> その過程において、“移動団”と称される者たちは
> 王国の誇りを守り、民を救う正しき手足として認める。
> よって、彼らの行動には王の静かな後ろ盾を与える。
> 王国国王 アレクシウス三世
読み終えた後の沈黙は、まるで時間そのものが止まったようだった。
潮の音さえも、遠くで細く響くだけ。
やがてレイナがゆっくりと頭を垂れた。
「……謹んで拝命いたします。
陛下の御意と、クラズ神殿のご厚意に、心より感謝申し上げます」
オルフェンは巻簡を丁重に差し出した。
レイナは両手でそれを受け取り、胸に抱いた。
桜印の封蝋が、朝の光を受けてほのかに輝いていた。
※静かな風の中で
団員たちは静かに息を吐いた。
ユーリがぽつりと呟く。
「……本当に、王国が……」
イリアスが微笑み、そっと頷いた。
「これで、私たちの道が認められたのですね」
イオスはその様子を見て、小さく笑った。
「王も神も見ておられたということだ。
これ以上の後押しはないな」
レイナは巻簡を見つめ、静かに言った。
「“静かな後ろ盾”……。
見えぬ風のようでも、確かに私たちを押している。
それなら、私たちも応えなければね」
オルフェンは頭を下げ、穏やかな声で言葉を添えた。
「王命を伝えるのが我らの務め。滞在はいたしません。
神々の加護が、あなた方の道にありますように」
レイナは深く礼を返した。
「クラズ神殿の皆様に、どうかよろしくお伝え下さい。
この御恩、決して忘れません」
使者たちは馬を引き、海沿いの道を戻り始めた。
潮風に乗って、桜印の旗がふわりと翻る。
その姿が丘の向こうに消えたとき、
レイナは小さく呟いた。
「風が、確かに変わったわ」
イオスが頷く。
「ええ。これからは追い風です」
波音が優しく響き、その日のコルキスの空は、青く澄み渡っていた。
※教会の灯の下で
夜の港町コルキスは、昼間の穏やかさを脱ぎ捨てていた。
灯を落とした船が静かに波間に揺れ、桟橋では警備の松明が点々と灯っている。
そんな港を見下ろす丘の上、白壁の小さな教会に、柔らかな灯がともっていた。
扉を叩く音が響く。
「ミハイル神父、夜分に失礼いたします」
クラズ神殿の使者長オルフェンの声だった。
同行のナセルとイシュトが外で馬をつなぎ、礼拝堂の前に控える。
扉が開くと、神父ミハイルが驚いた顔で現れた。
「おお、これは……! 王都よりの御方。
昼間にお見えでしたな。もうお帰りになるとばかり」
オルフェンは微笑んで頷く。
「はい。ですが、その前に一つお伺いしておきたく。
“移動団”と呼ばれる一行のことです」
ミハイルは、すぐに表情を柔らげた。
「レイナ殿たちのことですな。ええ、ええ、よく存じております。
町の者たちにとって、あの方々はまさに救いの風。
病人を診、古い井戸を浄化し、孤児たちに食を与えてくださいました」
「ほう……」
オルフェンの眉がわずかに動く。
「王命を伝えた際も、礼節と穏やかさを崩されなかった。
民のために動く者と聞いていたが・・・なるほど、評判に違わぬ方々だ」
ミハイルは笑いながら、暖炉の火をくべた。
「ええ、それにね。“母様”と呼ばれておるんです。
幼い子らや、護衛の若い者たちからも慕われてね」
「“母様”……なるほど」
オルフェンが静かに笑う。
「神の愛に似た呼び名ですな」
それから、二人の会話は次第に弾んでいった。
神父は移動団が修繕を手伝った井戸の話、
夜な夜な医療班が働く病院馬車のこと、
そして旅の途中で拾った孤児たちの教育まで、
まるで誇るように語った。
オルフェンは聞きながら、何度も頷いた。
ナセルは黙って記録を取り、イシュトは湯を淹れ直す。
外では潮風が吹き、教会の鐘が小さく鳴った。
そのまま、時間は過ぎていった。
やがて、窓の外がすっかり暗くなっていた。
ミハイルは時計を見て、苦笑した。
「おお……もうこんな時刻ですか。
すっかり話し込んでしまいましたな」
オルフェンも肩をほぐし、穏やかに笑った。
「ええ。しかし有意義な夜でした。
彼らの実情を、国へ正しく伝えることができます」
その時だった。
扉の外で、荒い足音が響いた。
「神父様っ! 神父様ぁー!」
教会の戸を叩く若い声。息が切れている。
ミハイルが立ち上がる。
「どうした? こんな夜更けに!」
「港で……! 港で大変なことが!」
飛び込んできたのは港の若い水夫だった。
汗と潮にまみれ、目を見開いている。
「領主の倉庫から、禁制の獣が見つかったんです!
輸入禁止の異国の生き物を、檻に入れて運んでたって!」
「な、なんだと……?」
ミハイルが青ざめる。
オルフェンが立ち上がり、声を落とした。
「禁制動物……まさか、この港で」
水夫がさらに言葉を続ける。
「しかも検疫官が、発病したって!
病原を持つ小毒物が、檻から逃げたらしいんです!」
教会の空気が一変した。
暖炉の炎がはぜ、三人の影が壁に大きく揺れる。
ナセルが即座に動いた。
「イシュト、馬を回せ! 港へ向かう!」
「はっ!」
ミハイルは唇を震わせ、祈りの言葉を口にした。
「神よ!どうかお守りください」
オルフェンは外套を羽織りながら、低く言った。
「神父殿、教会の鐘を鳴らしてください。
この知らせは町全体に伝えねばなりません」
ミハイルは頷き、鐘の綱を握った。
深夜の港町に、緊急を告げる鐘の音が鳴り響く。
※港、混乱の夜
夜の港は、火のようにざわめいていた。
怒号、叫び声、足音。
荷車がひっくり返り、松明の炎が風にあおられて踊っている。
クラズ神殿の使者長オルフェンは、馬上から港の入り口を見下ろした。
潮の匂いに焦げた木の臭いが混じる。
波間には倒れた樽が浮かび、衛兵たちが必死に通りを塞ごうとしていた。
「状況は!」
オルフェンの声に、駆け寄った衛兵が顔を上げる。
「領主の倉庫で“禁制の檻”が見つかりました!
積荷の中に、異国の毒獣が! 検疫官が咬まれて倒れました!」
ナセルが眉を寄せる。
「発病したというのは確かか?」
「ええ、熱と痙攣を起こして……医師を呼んだが、手の施しようがないと……!」
「病原を持つ獣……まさか、病原菌を持った生物かもしれぬ」
オルフェンは低く呟き、馬から下りた。
「倉庫はどこだ?」
「この先の埠頭です! ですが、今は立入禁止に……!」
「神殿の名において通る。道を開けなさい!」
衛兵たちは顔を見合わせ、慌てて道をあけた。
松明の火が揺れ、オルフェンたち三人が倉庫へ駆ける。
倉庫前には、すでに数名の役人と医療係が集まっていた。
扉は壊れ、木片が散乱している。
檻の鉄格子がねじ曲がり、中は空だった。
「逃げたのか……?」
イシュトが息を呑む。
医療係の一人が震える声で答えた。
「はい……“尾のある小獣”と……“小瓶”がいくつか……無くなって……!」
「小瓶?」
「薬品か、毒かは不明です! 中身が流れ出した形跡も……!」
オルフェンの胸に冷たい汗が流れる。
「……最悪の事態だ。毒物と病原の両方か」
ナセルがすぐに判断を下す。
「人を集め、海沿いの路地と井戸を封鎖せよ! 風下の住民は避難を!」
衛兵たちが一斉に動く。鐘の音が港中に鳴り響き、
家々の扉が開き、人々が叫びながら走り出した。
「母さん! こっちだ!」
「子どもを連れて! 早く!」
泣き声と怒鳴り声、波の音が混ざり合う。
港町は、まるで海そのものがひっくり返ったかのような混沌に包まれた。
オルフェンは深呼吸し、祈りの言葉を唱えた。
「クラズよ……我らを導きたまえ。
この港を、罪なき者たちを、どうか護りたまえ……」
そのとき、背後でミハイル神父が駆けつけてきた。
白衣を翻し、息を荒げながら叫ぶ。
「使者殿! 倉庫の奥、祭具倉の側で……まだ何か動いていると!」
「動いている?」
オルフェンは振り返った。
暗闇の中、崩れた樽の影で――
何かが、カサリ、と音を立てた。
それは小さく、低い、けれど確かに“生き物”の動きだった。
イシュトが松明を構える。
光が走り、樽の隙間に潜む黒い影が照らされた。
「っ……動いた!」
「下がれ、毒を持っているかもしれん!」
だが次の瞬間、影が飛び出した。
甲高い鳴き声――それはネズミに似ていたが、
尾の先が赤く光り、滴る液体が石畳に焦げ跡を残した。
「毒液っ! 触れるな!」
ナセルが叫び、剣の鞘で弾き飛ばす。
獣は壁にぶつかり、ひるんで下水の穴へと逃げ込んだ。
「逃げた……!」
オルフェンは拳を握る。
「このままでは町中に広がる!」
ミハイル神父の顔が蒼白になった。
「そんな……港全体が……!」
オルフェンは即座に命じた。
「鐘を鳴らせ! 全ての教会と詰所に知らせよ!
“風下の井戸を封鎖し、飲水を止めよ”と!」
神父はうなずき、走り出した。
教会の鐘が、ふたたび夜空に鳴り響く。
それは警告の音。
※教会の鐘、光の知らせ
鐘の音が、夜の港町に鳴り渡っていた。
警鐘は三度、四度――やがて人々のざわめきを呼び覚ます。
窓が開き、誰かが叫ぶ。
「火事か!?」「違う、教会の鐘だ!」「何があった!?」
白壁の教会前に、数名の影が駆け込んできた。
街の監視班――夜警を担う若者たちだった。
濡れた外套を翻し、息を切らしてミハイル神父に叫ぶ。
「神父様! 鐘を鳴らされたのは……何が起きたんです!?」
ミハイルはまだ鐘の綱を握ったまま、額の汗をぬぐった。
「禁制の獣が港の倉庫から逃げた……。
それに、検疫官が発熱と痙攣を起こして倒れた!」
「発熱と……痙攣?」
監視班の若者が顔を見合わせる。
オルフェンが一歩前に出た。
「“黒咬熱”の兆候だ。
異国の病、王国では封印病とされている。
感染すれば、一日もたずに倒れる者もいる」
若者たちの喉が鳴る。
「まさか……この町で……?」
「落ち着け」
オルフェンの声は静かだが、確かな威厳があった。
「今は恐怖より先に動け。封鎖と報せが第一だ」
「報せ……?」
ミハイルがハッと顔を上げた。
「そうだ、丘の上だ! あの方々――移動団に知らせねば!」
監視班の隊長が頷き、背負っていた灯具を外す。
「合図を送ります。彼らの見張り台は、教会の鐘塔から見える距離です」
夜風が吹く。
隊長は手早くランタンの蓋を開け、光を遮る布を手にした。
仲間が傍らで火を調整し、オルフェンとミハイルが見守る。
「……何をするつもりだ?」
オルフェンが尋ねる。
「光で言葉を送ります。“丘の仲間へ”」
ランタンの光が、闇の中で瞬いた。
長く、短く。
規則的な明滅が丘の方角へ向けて打たれる。
――・ --- ・・- ・---
その点滅が、まるで小さな星のように、闇を切り裂いた。
ミハイル神父が息を呑む。
「……いまのは、言葉なのか?」
監視班の隊長が頷きながら、短く答える。
「ええ、“G・O・U・J”――私たちの暗号信号です」
「……“ゴウジ”? どういう意味です?」
ミハイルが首をかしげる。
「港(Gate)で危険発生。封鎖命令(Order)。
上方(Up)への連絡を要請し、丘(Junction)へ警戒を――
という、第四級の警戒符号です」
オルフェンが静かに感嘆の声を漏らす。
「……なるほど。神殿の祈りよりも、早い伝達手段だ」
やがて、遠くで一瞬だけ光が返った。
丘の方角から――二度、三度、短く。
ロクスたちの見張り台がそれを受け取った合図だ。
ミハイルが胸に手を当てた。
「届いた……」
オルフェンは外套の裾を押さえ、冷たい風の中で呟いた。
「港の病、丘の者にまで届く前に――我々が止めねばならぬ」
ランタンの光が消える。
残るのは、鐘の余韻と、遠くでざわめく波の音だけ。
夜は深く、そして不穏に静かだった。
教会の鐘は、まだ遠くの空で響いていた。
港に吹く潮風が冷たく、
光信号の残光が、丘の闇の中でかすかに瞬いている。
伝えた。――だが、もう間に合うとは限らない。
黒咬熱の影はすでに港の倉庫を離れ、
波止場の影に、路地の片隅に、そして人の体の中に忍び寄っていた。
それでも、人は祈り、走り、伝える。
神の導きよりも速く、灯の言葉で。




