052. 報せの後(2)
港町コルキスに、静かな朝が訪れる。
潮風は穏やかで、人々の笑い声が戻りつつある町。
その海を見下ろす丘の上では、移動団の人々がいつもと変わらぬ支度を始めていた。
だが、その穏やかな風の奥に、誰も気づかぬ“変化の息吹”が潜んでいた。
――王都からの使者が、動き出していたのだ。
見張りの青年ロクスが、朝霧の中に見た桜印の旗。
それは、王と神殿の意志が結ばれた証。
この瞬間から、移動団の歩みは次の段階へと進んでいく。
※港町コルキスの朝
東の空がゆっくりと白みはじめた。
夜明け前の港町コルキスは、まだ夢の中にあるように静かだった。
潮の香が薄く漂い、波が桟橋の下で小さくさざめく。
通りには人影もまばら。
市場の屋台は帆布を下ろしたまま、漁師たちの家からは早朝の灯がちらほらと漏れている。
港に繋がれた船の帆が風を受けてふわりと膨らみ、帆柱の縄がきい、と静かに鳴いた。
丘の上の宿営地では、移動団の一日が始まろうとしていた。
焚き火のそばで、炊事班の若者が湯を沸かし、香草の香りが漂いはじめる。
レイナは少し離れた場所に立ち、港の方角を見下ろしていた。
「……今日も、静かね」
彼女の隣でイオスが頷く。
「ええ。人の流れも落ち着いたようです。町の者たちも、やっと息をついておる」
レイナは目を細めた。
昨夜の潮風が嘘のように穏やかだ。
だがその静けさの奥に、何かが動き出す気配を感じていた。
少し離れたところで、ユーリが鍋をかき混ぜながら声を上げる。
「団長、朝食できましたよー! 今日は野菜多めです!」
レイナは笑い、イオスと並んで焚き火の方へ向かった。
医療班のイリアスが寝台の帳を下ろしながら、静かに報告する。
「夜間診療は問題なし。熱のあった者も落ち着きました」
「ありがとう。今日も一日、いつも通りに動きましょう」
「はい」
港の方では、早起きの子どもたちが小舟を見に駆けていく。
母親たちは水汲み場で話しながら笑っている。
昨日までと何も変わらない、穏やかな朝。
それでも、どこか空の色が違って見えた。
レイナはふと、遠い東の丘の方へ目をやった。
朝霧の向こう、細い街道が陽に照らされはじめている。
「風が少し強くなってきましたね」
イオスの言葉に、レイナは小さく頷く。
「ええ……。でも嫌な風じゃないわ。どこか、清らか」
潮風に乗って、遠い鐘の音が届いた。
コルキスの町にある祈りの鐘の音だ。
ゆるやかな音の波が、町の屋根を越え、丘の上まで広がっていく。
誰もまだ知らない。
その風の向こうを、王命を携えた神殿の使者たちが、まさにこの港を目指して進んでいることを。
※王命、コルキス教会へ
朝の光が、教会のステンドグラスを透かして床に模様を落としていた。
港町コルキスの教会は、木造の小さな祈りの場だ。
潮風に晒された白壁には、長い年月の塩の跡が残っている。
神父ミハイルは、朝の祈りを終え、祭壇の蝋燭を整えていた。
信徒たちはすでに帰り、堂内は静まり返っている。
その時――。
外から、馬の蹄の音が響いた。
軽くも、整った歩調。
ただの旅人ではない。
扉が開き、潮風とともに三人の影が差し込んだ。
先頭の男は白と藍の法衣をまとい、胸には桜印。
クラズ神殿所属――しかも王都系の高位使節である。
ミハイルは息を呑み、すぐに頭を下げた。
「おお……クラズ神殿の御方。ようこそ、コルキスへ。
こんな小さな教会にまでお越しとは……何か御用で?」
使者の長が一歩前に出た。
落ち着いた声で答える。
「我らは王国陛下の命を預かる者。
この地に滞在する“移動団”へ、勅命を届けに参りました」
「……王命を、ですか?」
ミハイルは思わず顔を上げた。
使者は静かに頷いた。
「彼らがこの町の南、海沿いの丘の下――
小さな入江のあたりに宿営していると聞き及びました。
その所在、確かめたい」
ミハイルは頷き、地図を取り出した。
「ええ、ええ……あの方々のことなら存じております。
町の者が“旅の医者たち”と呼んでおりましてな。
貧しい者にも診療を惜しまれぬ。皆、感謝しております」
使者の表情がわずかに和らいだ。
「そうですか。では間違いありません」
ミハイルは少し考え込み、慎重に尋ねた。
「……失礼ながら、どのような勅命で?」
使者は短く息を吐いた。
「内容は王と神殿のみに許されたものです。
お尋ねには答えかねますが――」
その先を濁し、静かに巻簡の封を撫でた。
封蝋の金の印章と桜の刻印が、光を受けてきらめく。
ミハイルは、その光景に息を呑んだ。
「……王印と神印の両封。
なるほど、並ならぬお務めでございますな」
使者のひとりが小さく頷いた。
「道中、御教会に立ち寄ったのは、正確な所在を確かめるためのみ。
すぐに出発いたします」
ミハイルは迷った。
町を見守ってきた神父として、彼らに恩のある移動団を放っておくことができない。
「……でしたら、私もご案内いたしましょう。
あの方々はこの町の者に心を開いております。
よろしければ私が先導いたします」
その申し出に、使者の三人が目を合わせた。
わずかな沈黙。
そして、使者の長が静かに首を振った。
「ご厚意、感謝いたします。
ですが、これは王命。
その言葉を伝える責は、我ら神殿にのみ許された務めにございます」
ミハイルは唇を結び、しばし沈黙した。
その目には不安と、少しの寂しさが浮かぶ。
「……そうですか。
ならば、どうかお気をつけて。
彼らは善き人々です。決して疑うことなきように」
「心得ております」
使者の長が一礼し、扉へ向かった。
同行の神官が外で待つ馬を整え、朝の光の中へと進む。
ミハイルはその背を見送りながら、祈りの言葉を小さく唱えた。
「……神よ。どうか、あの方々の道に争いの影がありませんように」
外では、海風が強くなっていた。
馬の蹄が石畳を打ち、使者たちは丘を下る街道へと向かっていく。
遠く、港の先には波が光を反射していた。
その先、山裾の海岸沿いに――彼らが探す、移動団の野営地があった。
※東の街道より
朝の光が水平線から立ち上がる。
潮の香と冷たい風が入り混じる中、三頭の神馬が海沿いの道を進んでいた。
白銀の毛並みが朝日に光り、馬蹄が砂を蹴るたび、波音と調和するような規則的な音が響く。
先頭に立つのはクラズ神殿の使者長、神官オルフェン。
法衣の裾を潮風になびかせ、胸の桜印を隠すように外套を押さえていた。
後ろには副官ナセルと、若き従者イシュト。
彼らの背に、薄桃色の布旗、神殿の“桜印の旗”がたなびいている。
「……もうすぐ港が見えるはずだ」
オルフェンの低い声に、ナセルが頷いた。
「ええ。教会で聞いたとおりなら、この先の入江に“移動団”の野営地があるはずです」
「王命を携えて来た以上、慎重にいこう。無用な騒ぎは避けたい」
潮風が吹き抜ける。
彼らの表情には、使命の重みと一抹の緊張が宿っていた。
※見張りの青年、ロクス
その頃、丘の上。
海岸を見渡す見張り台で、若い男がひとり望遠筒をのぞいていた。
ロクス――移動団の護衛班に所属する青年だ。
快活で仲間思い、だが責任感は人一倍強い。
朝靄が薄れ、遠くの海岸道に動く影が見えた。
「……ん?」
筒を覗くロクスの眉が動く。
「馬が三頭……? いや、もっと後ろに予備馬があるな。
あの旗、見たことない……桜、か?」
彼は見張り台の鐘を軽く叩き、下にいる仲間に合図を送った。
「来客だ、北東の街道! 三頭、神官風!」
下から返事が上がる。
「了解、報告を!」
ロクスは急いで階段を駆け降りた。
腰の剣が軽く鳴る。
息を整えながら、彼はイオスの詰所へ駆け込む。
※報告と判断
焚き火の煙が薄く立ち上る野営地の中央で、イオスが地図を広げていた。
その背に、ロクスの声が飛び込む。
「副長! 丘の向こうに神殿の旗を見ました! 三人、馬です! 武装は軽いようですが……」
イオスは顔を上げた。
「神殿の旗、だと?」
「ええ。白地に桜印。間違いありません」
イオスは立ち上がり、外套を羽織る。
「この町の教会とは違う……クラズ神殿の印だな」
「そんな遠くから?」
「“遠くから”来た理由があるのだろう」
イオスは短く息を整え、ロクスに目をやった。
「ロクス、落ち着け。敵意は見えなかったか?」
「いえ。整った列でした。王都の使者のような雰囲気です」
「ならば、まずは迎えよう」
イオスは地図をたたみ、ロクスの肩を軽く叩いた。
「報告ご苦労。護衛二名を連れてくれ。私も行く」
「はっ!」
イオスが焚き火の脇にいたユーリへ声をかける。
「団長に伝えてくれ。王都から、風が来たかもしれんと」
ユーリは一瞬、驚きに目を見張った。
「……まさか、本当に?」
「まさか、だ。だが神殿が動いた以上、次は王国の番だろう」
イオスはロクスたちを連れ、東の丘道へ向かった。
朝霧の中を歩くその背には、微かな緊張と期待が同居していた。
※丘の下の対面
朝の霧がまだ低く漂っていた。
潮風が白い靄を巻き上げ、海と空の境を曖昧にしている。
イオスはロクスと二名の護衛を伴い、丘道を下っていった。
馬の足跡が濡れた砂の上にくっきりと残る。
やがて霧の向こうに、三つの影がゆっくりと姿を現した。
「止まれ!」
イオスの声が鋭く響く。
使者の一行も足を止めた。
先頭の男が軽く右手を上げる。
「敵意はありません。我らはクラズ神殿よりの使者。
王命を携え、この地の“移動団”にお目通り願いたく参りました」
霧の中で、白と藍の法衣が揺れる。
胸元の桜印が、朝の光を受けて淡く輝いた。
イオスは目を細めた。
「……クラズ神殿、だと?」
「左様。この封書に、王の印がございます」
使者の男が外套の内から巻簡を取り出し、胸の前に掲げた。
封蝋には、金の王印と桜印――二つの刻印が並んで押されている。
ロクスが息を呑んだ。
「本物……」
イオスは静かにうなずき、声の調子を落とす。
「お前たちは王都の命を運ぶ者。ならば、こちらも礼を尽くそう」
イオスは軽く頭を下げた。
「私は移動団副長、イオス・カーヴェル。
団長レイナ殿の許可を得ねば面会は叶いませんが、
まずはその旨をお伝えします」
使者の長がうなずいた。
「感謝いたします。我らも争いを望むものではありません。
王命の伝達のみが務めです」
潮風の中で、双方の視線が静かに交差した。
イオスは、確かにこの使者たちが“敵”ではないと悟った。
※報告
イオスが野営地へ戻ると、焚き火のそばでレイナが待っていた。
彼女の顔には、わずかに緊張と期待の影があった。
「どう?」
「三名。クラズ神殿の使者です。王命を携えているとのこと」
「王命……」
レイナは静かにその言葉を繰り返した。
ユーリが息を呑む。
「本当に、王が……?」
「封印は本物でした。王印と桜印の二重封。
内容までは確認できませんが、あの慎重さからして間違いありません」
レイナはしばらく黙り、海の方を見つめた。
波打ち際には、朝の光が反射している。
その光が、彼女の瞳の奥で揺れた。
「……風が、届いたのね」
イオスが頷く。
「そう思います。王が“見た”のです。我々の報告を」
レイナは息を整えた。
「わかりました。お迎えしましょう」
「団を整列させますか?」
「いいえ。ここは旅の場。儀礼ではなく誠意で迎えます」
彼女は外套を羽織り、髪を結い直す。
その横顔に、緊張と静かな覚悟が宿っていた。
※再び、丘の下へ
丘を渡る潮風が少し強くなってきた。
イオスとロクスが再び丘道を下ると、
神殿の使者たちは馬を下り、静かに待っていた。
オルフェン使者長が深く一礼する。
「団長レイナ殿に、お目通り叶いますでしょうか」
イオスが頷く。
「案内いたします。団長は野営地でお待ちです」
その時、ロクスが思わず声を漏らした。
「すごい……本当に、王都の神殿の方々なんだな」
オルフェンが微笑んだ。
「我らも、君たちの働きに敬意を抱いております。
神々の導きがなければ、ここまで来ることも叶わなかった」
潮風が三人の間を抜けた。
遠くで波が砕ける音がする。
イオスが一礼し、手で道を示した。
「どうぞ。ここから先は、我らが導きます」
「感謝します」
三頭の神馬が再び歩き出した。
桜印の旗が朝の光を受けて揺れ、
その影がゆっくりと丘を越えていく。
このあと、王の意志が正式に告げられる。
その瞬間を、誰もがまだ知らなかった。
海沿いの風は、確かに変わっていた。
それは、神々がもたらした新たな導きか――
あるいは、王国がようやく目を覚ました“人の決意”か。
クラズ神殿の使者たちは、王命を胸に、
潮騒の道を静かに進む。
その先に待つのは、旅を続ける者たち。
この出会いが、彼らの運命を少しずつ動かしていく。
そして次回――
丘の上、野営地の焚き火の前で、王の言葉が告げられる。
風が、いよいよ彼らの背を押し始めた。




