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051. 報せの後(1)

港町コルキス。

港に響く波音の中で、ひとりの青年が新しい名を得る。

それは、旅路の仲間にとっても・・・

※名を得る夜

 日が沈み、空の赤がゆっくりと群青に溶けていった。

 野営地のあちこちで焚き火が燃え、鉄鍋の音や子どもたちの笑い声が風に混じる。

 夕餉を終えた人々は、それぞれの持ち場に戻りながら、明日の旅路の話をしていた。


 彼、まだ名前を持たぬ青年は、黙って食器を洗い、火のそばの木箱に腰を下ろした。

 手のひらに残る湯気の温もりが、かえって心を締めつける。

 誰もが誰かを名で呼ぶ中で、自分だけが「兄さん」か「おまえさん」。

 呼ばれるたび、笑って受け流していたが、今夜はふと胸にひっかかった。


 名のない自分は、この焚き火の光にも影を落とせていないような気がしたのだ。

 「……お兄さん」

 やわらかな声に顔を上げると、ランプを手にしたリセアが立っていた。

 その腕には、眠たげな目をこすりながら、幼いリサが抱かれている。

 「もう寝る時間よ。ほら、リサが『おやすみ言いたい』って」

 「うん……おやすみなさい、お兄さん」

 眠そうな声に、彼は思わず笑みをこぼした。

 「おやすみ、リサ。今日はたくさん走ったね」

 「うん。でもね、父さんって言っていいの?」

 その言葉に、リセアの手が一瞬止まり、青年の胸に小さな衝撃が走った。

 「いいのか、そんな風に呼ばれて」

 「いいのよ。あなたは、もう私たちの家族なんだから」

 リセアは穏やかに言って、火の明かりの向こうに腰を下ろした。


 焚き火の火花が、夜風に小さく舞い上がる。

 リサは布団の端に丸まりながら、ぼんやりと口を開いた。

 「ねえ、お母さん。この人、名前ないの?」

 「そうね。まだ、ないのよ」

 「じゃあ、つけてあげようよ!」

 リサは笑って、小さな指を空に向けた。星を一つ選ぶみたいに。

 リセアがそっと彼を見つめた。

 「……名前、ほしい?」

 彼はしばらく黙っていた。

 そして、小さくうなずく。

 「誰かに呼ばれる名が、もう一度ほしいと思ったんだ。

 この世界で、もう一度、生きていきたいから。」

 リセアはリサの髪を撫でながら、優しく微笑んだ。


 「なら、リサと決めた名前があるの。“アスラン”

 「アスラン?」

 「古い言葉で、“光の中で生きる人”。

 あなたがどんな空の下でも、私たちのもとに帰ってこられるように。」

 リサがにっこりと笑った。


 「アスラン、おやすみ!」


 その瞬間、青年の胸の奥に、温かい何かが灯った。

 名を呼ばれるというのは、こんなにも柔らかく、力強いものなのか。

 彼はゆっくりと目を閉じた。


 「ありがとう。俺の名をくれたんだね。」


 リセアが静かに頷く。


 「あなたの生きる場所は、もうここにあるわ。」


 夜は深く、風が静かに野営地を包みこんだ。

 遠くの波音が聞こえる。焚き火がぱちりと弾ける。

 アスランは立ち上がり、空を見上げた。

 星々が、燃え尽きた過去を慰めるように瞬いている。


 「移動団のアスラン、か」


 小さく呟くと、心の奥底で“何か”が反応した。

 格納庫魔法 かつての記憶の残響。

 だがもう、それは過去を引きずる鎖ではなく、これからの道を照らす光だった。

 東の空が、わずかに白み始める。

 アスランは振り返り、眠る二人の姿を見つめた。

 焚き火の残り火が、家族の寝顔をそっと照らす。


 「俺の空は、もうここにある。」


 新しい名を胸に、アスランは静かに微笑んだ。

 そして、夜明けの風を受けながら、明日へ歩き出した。


※朝の光、名を告げる日


 夜明けの光が、白い布を透かして天幕の中へ差し込んでいた。

 アスランは、まぶしそうに目を細めた。

 隣では、リセアが娘リサを抱いて静かに眠っている。

 彼はそっと起き上がり、寝顔を見下ろした。

 昨日までと同じはずの朝が、まるで違う世界の始まりのように感じられる。

 名を得るとは、こんなにも世界の色が変わるものなのか。

 焚き火の跡から立ちのぼる煙が、風に細く流れていく。

 野営地のあちこちで、団員たちが荷をまとめ、馬の蹄の音が響いていた。

 旅の朝は、いつも忙しい。

 けれど今日だけは、そのざわめきすら穏やかに聞こえる。

 彼の耳には、昨夜のリサの声がまだ残っていた。


 「アスラン、おやすみ!」


 アスランは天幕をくぐり、リセアとリサを連れて歩き出した。

 朝霧がまだ残る港の丘を越えると、移動団の旗がゆっくりとはためいているのが見えた。

 旗の下では、レイナ団長が護衛たちと朝の確認をしている。

 白い外套が朝陽を受け、金糸の刺繍がきらりと光った。


 「おはようございます、団長。」


 アスランは姿勢を正し、深く頭を下げた。

 レイナが顔を上げ、にっこりと微笑む。


 「おはよう。……あなたは、昨日の“名無し”の整備係ね?」


 アスランは一瞬だけ息をのんだ。

 けれど、すぐに目をまっすぐに向けた。


 「はい。昨日まで名無しでしたが――今朝からは、“アスラン”と名乗らせていただきます。」


 リセアが隣で小さく頷き、リサが嬉しそうに「アスランだよ!」と口を添えた。

 レイナの瞳がやわらかく光を宿す。


 「そう。いい名前ね。」


 彼女はゆっくり歩み寄り、アスランの肩に手を置いた。


 「名を持つというのは、責任を持つということ。


 それは、自分と、隣にいる人を守る覚悟を持った証よ。」

 アスランは深くうなずいた。


 「はい。リセアとリサが、この名をくれました。だから、二人とこの団を。俺は守りたい。」


 レイナは穏やかに笑った。


 「あなたらしい言葉ね。では、今日から“移動団のアスラン”として名簿に記しておくわ。」


 背後の書記官が帳面を開き、羽根ペンを走らせる。

 乾いた紙の音が、彼にとってはまるで祝福の鐘のように響いた。

 リサが小さな手を振って、「お母さん、アスランの名前、紙に書かれたよ!」と跳ねるように言った。

 レイナがくすりと笑い、リセアも涙ぐみながらリサの頭を撫でた。

 アスランは胸の奥から熱くこみ上げてくるものを抑えきれなかった。

 この瞬間、自分は本当に「居場所を得た」のだ。


 「ありがとう、団長。……そして、これからも力を尽くします。」


 「ええ。あなたのような人がいること、それがこの団の力になるわ。」


 風が吹き、旗が大きくはためいた。

 その音が、どこかで鐘の音に似て聞こえた。

 アスランは深く一礼し、振り返る。

 リセアが微笑み、リサが彼の手を握る。

 朝の光が、三人の姿を柔らかく包み込んでいた。

 その名はまだ新しく、少しぎこちない。

 けれど、それは確かに、今日から始まる“家族と旅の名”だった。


 「行こう、リセア、リサ。」

 「ええ!」

 「うん!」


 その笑い声が、港町の朝の風に乗って高く響いた。


 「移動団のアスラン」


 その名が、初めて世界に放たれた瞬間だった。


※静かな朝


 朝の海は、鏡のように静かだった。

 港町コルキスの沖に停められた小舟が、潮のまにまにゆらめいている。

 その手前の丘に、移動団の野営地。

 テントの列の間を、潮風と馬の吐息が通り抜けていく。

 レイナは、団旗の立つ広場に立ち、集まった仲間たちを見渡した。

 朝の会議、移動団の一日の始まりである。


 「みんな、おはようございます。」


 澄んだ声に、十数の返事が重なる。

 焚き火の灰がぱちりと音を立て、煙がまっすぐ空へ昇った。


 「まず、王都からの報告です。」


 レイナは手にした羊皮紙を広げ、淡々と読み上げる。


 「神託として送った不正の報告が、王国評議へ正式に届いたとのこと。


 王国では、まず王都内の取り締まりが始まりました。

 現地派遣の部隊は、まだ王都を出ていません。」

 その言葉に、静かな安堵の息があちこちから漏れる。


 「つまり、私たちの出立までは、まだ少し余裕があります。

 この間に、情報収集を怠らないようにしましょう。」


 整備班の青年が手を挙げた。


 「団長、馬車の修繕は昼までには終わる予定です!」

 「ありがとう。詳細な報告は、イオスとユーリにお願いね。」


 レイナの視線に、二人が頷いた。

 話が、ひと段落すると、レイナは少し表情を和らげた。


 「それから、もうひとつ、みんなに知らせがあります。」


 海鳥の声が遠くで響く。団員たちは自然と耳を傾けた。


 「これまで名無しとして働いてくれていた青年が、名を得ました。


  整備班の“あの力持ちの青年”です。」


 その言葉に、列の後ろでどっと笑いが起きた。

 アスランが少し顔を赤くしながら一歩前へ出る。

 リセアとリサがそっと後ろに並び、彼の肩を見守るように寄り添っている。

 レイナがにっこりと笑った。


 「“アスラン”。これが彼の新しい名です。」


 その名を口にした瞬間、海風がふっと吹き抜けた。

 波音とともに拍手が広がる。


 「おお、ついに名前が!」「よく似合うじゃないか!」

 「これで呼びやすくなったな、アスラン兄!」

 「リサちゃんのお父さん、いい名前だね!」


 アスランは少し照れたように笑い、頭を下げた。


 「ありがとうございます。……この名は、家族がつけてくれました。」


 リサが隣で誇らしげに胸を張る。


 「わたしが考えたの!」


 団員たちがどっと笑い声を上げた。


 「ほう、名付け親か。えらいぞ!」

 「将来は団長だな!」


 レイナも思わず微笑んだ。


 「素敵な名前よ、リサ。……アスラン、これからもよろしくね。」

 「はい、団長。力を尽くします。」


 その声は、朝の光に溶けるように柔らかく響いた。

 会議の最後に、レイナがまとめる。


 「王国の動きがあるとはいえ、油断は禁物です。

  しばらくは情報収集を続け、準備を怠らないように。

  そして、今日も一日、無事に働きましょう。」


 「はい!」


 声が一斉に重なった。

 人々が散っていく。

 木箱を運ぶ音、鍋を洗う水音、馬の嘶き。

 いつもの朝が、再び動き出した。

 アスランは荷車の陰で、仲間たちの笑顔を見送る。

 イオスが通りざまに肩を叩いた。


 「いい名だ。おまえに似合ってる。」


 「ありがとうございます。」

 「これで正式に“団の人間”だな。今日も頼むぞ、アスラン。」


 アスランは微笑み、深くうなずいた。

 風の中に、レイナの声がまだかすかに残っている気がした。

 名は、繋がりの印。

 その言葉の意味が、少しずつ胸に沁みていく。

 海辺の光がまぶしく、アスランは手のひらをかざした。

 新しい名を胸に、また今日を生きていく。


※王宮の騒乱


 同じ朝、王都ルミナリエは、早くも騒ぎの渦中にあった。

 城下ではまだ露店が開かぬ時刻、王宮の回廊だけが異様な熱気に包まれている。

 鉄の靴音、怒号、書状を抱えて走る書記官の影。

 重厚な扉が次々と開かれ、衛兵たちが官吏の執務室へと雪崩れ込んでいく。


 「止めろっ、何の権限が――!」

 「神託命令による調査だ、逆らえば反逆と見なす!」


 紙束が宙を舞い、机が倒れ、封蝋の割れる音が次々と響いた。

 捕らえられた数名の官吏は蒼ざめ、言葉にならぬ呻きを漏らす。

 その足音が、奥の謁見の間へと遠ざかっていくたびに、重苦しい沈黙が王宮を包んだ。


※王座の間


 広間の中央には、白銀の装飾が施された玉座。

 その上で、王エルネスト三世が静かに手を組んでいた。

 いつもは穏やかな眼差しの王も、今朝ばかりは険しい表情をしている。


 「神殿経由の報告がここまで早く届くとはな。」


 低い声が玉座の間に響いた。

 侍従長のルドルフが、深く頭を下げる。


 「はい、陛下。神官長クラズの印をもって確認済み。

 港町コルキスの件に関わった王都商務局の官吏十七名、今朝、方すべて拘束されました。」


 「十七名か……思っていたより多いな。」

 王の隣で、宰相ヴァレントが眉をひそめた。

 「陛下、この件、神殿からの“神託による直命”とされております。

  もはや我らの政として処理できぬ形になりつつあります。」


 「神託を盾に民心を揺さぶるか……。

  クラズ神殿め、また王権を試す気だな。」

 王の声には疲労と怒りが混じっていた。


 そこへ、急ぎの足音。

 報告書を携えた伝令が膝をつく。

 「陛下、港町コルキス方面の神官より、新たな連絡が。

  “現地の不正者は、逃亡を図らず、静観の様子”とのこと。

  移動団と呼ばれる一行が、現地を抑えている模様です。」


 「移動団?」

 王の目が鋭く光る。

 宰相ヴァレントが小声で続ける。

 「クラズ神殿の管轄外にある独立行動隊。

  団長は“レイナ”という若き女性。

  陛下の名を騙らず、ただ神託の補佐として動いております。」


 王は短く息を吐いた。

 「……民の手による秩序の維持、か。

  それが神の導きであるなら、我らは見守るしかあるまい。」


 侍従長ルドルフが一歩前へ出る。

 「陛下、現地派遣隊の出発はいかがなさいますか?」

 「まだだ。王都内の膿を出し切るまで、外へ手を伸ばすな。」

 「はっ。」


 玉座の背後で、陽光が白く差し込み、王の影が長く伸びる。

 その光を見つめながら、王は低く呟いた。


 「神殿が動き、王都が揺らぐ。

  だが――どれほど混乱しようとも、

  王国は王国として立たねばならん。」


 宰相が静かに頭を下げる。

 「恐れながら、陛下。

  神意の御心を量るのは、王にしかできませぬ。」


 その言葉に、王の眉がわずかに緩んだ。

 「……そうだな。

  我らの務めは、民を守ること。

  神を恐れて政治を捨てることではない。」


 外から、再び捕り物の喧騒が聞こえる。

 怒声、鉄鎖の音、そして誰かの嗚咽。

 王は立ち上がり、静かに玉座を降りた。


 「ヴァレント、記録をすべて調べ上げろ。

  神殿の言葉を信じるに足る証を、我が目で確かめる。」

 「御意。」


 重厚な扉が閉まる。

 外では、次の執務室への突入の号令が上がった。

 王国は、神の裁きではなく“自らの手による清算”に踏み出していた。





移動団は港町コルキスの現状を王国へと伝えた。

そして王国は動き始めた。


コルキスの民へ――再び立ち上がる力を。

そして移動団にも――次の道を歩む覚悟を。


そのころ王都では、ひとつの決意が静かに下されようとしていた。

それが、彼らの背を押す“見えぬ後ろ盾”となるとも知らずに。

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