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044. 港町ノヴォミ~高台スモトロ (5)

硫黄の匂いに導かれて、温泉の存在を確かめた移動団。

そこには癒やしと危険、二つの顔を持つ自然の姿がありました。

渓谷を調査し、療養地としての可能性を探る一方で、人々は湯の温もりに心をほぐし、

子どもたちの笑顔や、仲間たちの穏やかな表情が戻っていきます。

しかしその夜、夢の中に現れた女神カグヤが放った一言は、団の空気を一変させるのでした。


 翌朝、まだ空気の冷たい頃。

 イオスは護衛と技術班を率いて谷の奥へと進んでいった。

 硫黄の匂いは昨日よりも濃く、白い湯けむりが岩肌の隙間から立ちのぼっている。


 「……本当に温泉だ」

 先頭の護衛が声をあげた。

 岩の割れ目から湯が湧き出し、小さな流れを作っている。陽光に照らされ、立ちのぼる蒸気は神秘的で、まるで天へ昇る雲のようだった。



 偵察に同行した数人の団員は、思わず顔をほころばせた。

 「これなら、皆を癒せるぞ」

 「湯に浸かれば疲れも取れる」

 緊張に固まっていた心が、湯けむりの中でほぐれていくようだった。

 岩場の間からは温かい水音が絶えず響き、まるで「休んでいけ」と誘っているかのようだった。



 しかし、イオスの表情は崩れなかった。

 「ここを見ろ」

 指さす先には、岩陰で小鳥が動かなくなっていた。羽は濡れておらず、傷も見当たらない。

 「……温泉の蒸気に混じって、毒の気がある。長く吸えば倒れる」

 その言葉に団員たちは息を呑み、先ほどの安堵が一転して緊張へと変わった。


 「なるほど……これが“難所”の正体か」

 技術班のひとりが低く呟き、急いで布で口を覆った。

 イオスは頷き、足元の石を拾い、蒸気の立つ穴へ投げ込んだ。

 石が沈むと同時に、ぶわりと白煙が吹き上がり、周囲の空気が熱を帯びる。

 「……この周辺は避ける。風の向きを確かめ、安全な場所を探す」



 帰路、団員たちは無言で歩きながらも、時折視線を交わした。

 「温泉に入れるかもしれない」――その喜びと、

 「命を奪う蒸気が潜んでいる」――その恐怖が、胸の中でせめぎ合っていた。


 野営地に戻ると、子どもたちが駆け寄り、期待に満ちた顔で尋ねた。

 「どうだった? 温泉、あった?」

 護衛は一瞬言葉を詰まらせ、やがて笑って頷いた。

 「ええ、ありましたよ。でも……みんなが安心して入れる場所かどうか、もう少し確かめなきゃな」

 子どもたちは歓声をあげ、大人たちは苦笑いを交わした。



 報告を聞いたレイナは、湯けむりに癒される人々の顔を思い浮かべながらも、鳥の姿が胸に刺さっていた。

 「人を癒すものが、同時に人を脅かす……」

 その言葉にイオスは頷き、静かに言った。

 「それが自然だ。我々は見極めねばならない。どこで休むか、どこで避けるかを」


 その夜、野営地には期待と不安が入り混じったざわめきが漂った。

 湯けむりの匂いは確かに人をほっとさせる。

 だがその奥には、目に見えぬ危うさが潜んでいた。



 翌日も、偵察隊は谷の奥へと足を進めた。

 昨日の調査で温泉が存在することは分かったが、それを「療養地」として利用できるかどうか、確かめる必要があった。


 湯けむりはあちこちから立ちのぼっており、岩場の裂け目ごとに小さな湯溜まりが生まれている。

 だが場所によっては蒸気が濃すぎ、長く立っていられない所もある。



 護衛のひとりが岩をどけ、湯に手を浸した。

 「温度は……少し熱いが、人が入れる。これなら疲れも取れるな」

 「ただし狭い。せいぜい数人が同時に浸かれる程度だ」

 別の者が声をあげると、イオスが頷き、地図に印をつけた。


 さらに奥へ進むと、岩肌に沿って大きめの湯溜まりが見つかった。

 「ここなら十人は入れるな」

 歓声があがるが、イオスは表情を変えない。

 「だが、必要なのは“癒やす場所”だ。……我々の規模を考えてみろ」



 その場に集まった団員たちは、イオスの言葉に耳を傾けた。

 「現在の移動団は――馬車が二十四台。人員は百二十名あまり。男六十、女四十、子ども二十」

 彼は数字を淡々と告げる。

 「この人数が順に入るには、ひとつの湯溜まりでは到底足りない。最低でも三か所、同時に使える源泉が必要だ」


 護衛のひとりが目を丸くした。

 「数えてみると……本当に大所帯なんだな」

 別の者が苦笑する。

 「子どもが多い分、皆で守らねばならん。癒やす場所も、遊ばせる場も必要だ」


 数字に置き換えて語られることで、移動団の規模は一層現実味を帯びた。



 奥に進むと、岩陰から白い蒸気が吹き上がり、硫黄の匂いが鼻を刺した。

 「ここは駄目だな。立ち止まれば一刻と持たん」

 技術班が鼻と口を布で覆い、後退する。


 イオスはその様子を見つめ、静かに言った。

 「癒やす源泉と、避けるべき源泉。両方を見極めねばならない。……それが団を守る責務だ」

 その声には、責任を一身に背負う重みが滲んでいた。



 野営地に戻る頃、団員たちの間には期待と不安が入り混じった空気が漂っていた。

 「三か所は使える……なら、皆で交代すれば」

 「いや、混み合えば危険もある」

 ざわめきが広がる中、イオスは手を挙げて静めた。

 「詳細は会議で伝える。だが確かに、休める場所はある。――希望は見えた」


 その言葉に、人々の顔が少し明るさを取り戻した。


 こうして温泉地の調査は終わった。

 安らぎをもたらす湯と、命を奪う蒸気。

 その狭間で、移動団は新たな試練に挑む準備を進めようとしていた。



 翌朝、野営地中央に全員が集められた。

 イオスは岩肌に広げた簡易地図を示しながら、調査の結果を告げた。


 「三か所、安全に使える源泉がある。湯の温度も適しており、風向きも安定している。だが一度に全員は入れない。交代で使う。老人と子どもを優先、次に女性、最後に男衆だ」


 団員たちからは安堵の吐息と歓声が入り混じった。

 「やっと休める……」

 「夢みたいだ」

 「子どもを湯に浸けてやれるな」

 あちこちでささやきが広がり、これまでの重苦しい空気が和らいでいった。



 最初に子どもたちが先導され、母親たちと共に温泉へ向かった。

 岩間から立ちのぼる白い湯けむりが見えると、子どもたちは目を輝かせて駆け出した。

 「わあ……あったかい!」

 湯に足を浸した瞬間、歓声が響き、笑顔が一斉に広がる。


 母親たちは湯の縁に腰を下ろし、子どもを抱きながら自らも浸かった。

 「身体の芯まで温まる……」

 「これで少しは肩の荷が下りそうね」

 安堵の言葉と笑いが湯けむりに混ざり、谷にやさしい響きを残した。



 新しく加わった家族も、順番に湯へ向かった。

 少女は湯の縁に立つと、不安げに母代わりの女性を見上げた。

 「入ってもいいの?」

 女性は微笑み、少女の髪を撫でた。

 「ええ、一緒に入りましょう」

 温かい湯に抱き入れられると、少女の表情はぱっと明るくなり、湯の表面に浮かぶ星のような泡を見つめていた。


 少し離れた場所で、青年は湯に肩まで浸かり、大きく息を吐いた。

 「……生きてる実感がする」

 彼の呟きに、隣にいた護衛が笑った。

 「港町ではこんな顔を見せなかったな」

 青年は苦笑し、視線を女性と少女に向けた。

 「守りたいものがあると、人は変わるんだ」



 後から入った男たちは、大きな体を沈めると一斉に「ふう」と声を漏らした。

 「これほどの湯に浸かれるとは思わなかった」

 「疲れが抜けるな。まるで体から重りが取れたようだ」

 笑い声が響き、険しい顔が次々とほぐれていく。


 イオスも湯に浸かりながら、周囲を見渡した。

 「……この光景を見るだけで、調査の苦労が報われる」

 彼の低い声に、湯の表面が小さく揺れた。



 最後に湯へ向かったレイナは、温泉の湯気に包まれながら目を閉じた。

 「皆が笑ってる……」

 心の奥に染み入る温もりが、胸の緊張を解きほぐす。

 谷に響く子どもたちの笑い声は、明らかに昨日までとは違っていた。



 こうして移動団は、久方ぶりに「癒やしの時」を手に入れた。

 温泉の湯けむりが立ちのぼる谷間で、人々の身体も心も、確かに軽くなっていった。



 翌日も、谷間には柔らかな湯けむりが立ちのぼっていた。

 昨日よりも落ち着いた空気が漂い、団員たちは順番を守りながら温泉へと向かっていった。


 最初に湯へ浸かった子どもたちは、頬を赤らめ、目を細めて声をあげた。

 「きもちいいー!」

 「昨日よりあったかい気がする!」

 その顔には、恐怖に怯えていた影はなく、ただ無邪気な笑いがあった。

 母親に抱かれた幼子は、湯の中で眠り込んでしまい、母の顔にも安堵の笑みが広がった。


 岩場の縁で肩まで浸かる女性たちの頬は、ほんのり桜色に染まっていた。

 「疲れが抜けるわね……」

 「肌もすべすべする気がする」

 自然に笑顔がこぼれ、互いに視線を交わしては小さく頷き合う。

 ある者は目を閉じて深く息をつき、またある者は隣の子を抱き寄せ、頬をすり寄せた。

 その柔らかな表情は、昨日までの険しさをすっかり消し去っていた。


 少女は湯に肩まで浸かり、頬を真っ赤にして母代わりの女性を見上げた。

 「おかあさん、ここ好き……」

 女性の目に光が宿り、唇にやさしい笑みが浮かぶ。

 「ええ、私もよ」

 そのやり取りを見守っていた青年は、湯の向こうから小さく笑みを洩らした。

 「……この顔を守れるなら、どんな苦労も悪くない」

 彼の瞳には、昨日までの曇りはなかった。


 男たちは肩を並べ、のぼせるほどに湯へ浸かっていた。

 「まるで別世界だな」

 「橋を渡った時の顔とは大違いだぞ」

 笑い声と共に、険しい表情が和らぎ、頬に皺を寄せた笑顔が広がる。

 筋肉質の護衛も、日焼けした農夫も、同じように頬を紅潮させ、まるで少年のような表情を浮かべていた。


 少し離れた源泉では、レイナが湯に身を沈めていた。

 目を閉じた彼女の口元には、安堵と感謝の笑みが混じっていた。

 「皆の顔が……やっと穏やかになった」

 イオスも肩まで浸かり、短く答える。

 「そのために、調べたのだからな」

 彼の横顔はいつもより柔らかく、口の端にはわずかな笑みが宿っていた。

 レイナはその表情を見て、胸の奥に温かい火が灯るのを感じた。


 夜、湯上がりの団員たちは、焚き火の周りで頬を紅潮させて笑っていた。

 「身体が軽い!」

 「もう一日くらい浸かりたいな」

 歌声が自然と響き、笑顔が焚き火の明かりに照らされた。

 その表情はどれも柔らかく、旅の疲れを忘れさせるものだった。


 こうして二日目の温泉療養は、団員たちの心と身体をさらに解きほぐしていった。

 険しい道のりの只中にあっても、人々の顔には確かに笑顔が宿り、明日へと進む力となっていった。



 温泉療養も三日目。

 団員たちは交代で湯に浸かり、疲れを癒していた。

 子どもたちは湯から上がると頬を赤らめ、眠そうに母親の腕の中に収まる。

 大人たちもすっかり顔色がよくなり、焚き火の周りには笑みが絶えなかった。


 その夜、首脳陣の天幕に灯りが集まった。

 イオスとユーリは、静かにレイナを見つめている。

 「レイナ殿。忍と連絡を取る時が来たと思う」

 イオスの言葉に、レイナは息をのんだ。

 「……やはり、そうなのね」

 彼女は横になり、目を閉じて意識を集中させた。


 次の瞬間、夢の中で柔らかな光が広がり、忍の姿が現れた。

 「母様!」

 幼い姿の少年が駆け寄る。レイナの頬に自然と笑みが浮かぶ。

 「忍……元気そうね」

 イオスとユーリも夢の中に並び立ち、四人の会話が始まった。


 「移動団は順調だが、次の難関を前に――」

 「こちらも旅団をまとめつつある。補給の連携を……」

 忍とイオスが固い表情で情報を交わす。

 ユーリは腕を組み、時折鋭い指摘を差し挟んだ。

 会話は真剣そのもの。まるで作戦会議のようだった。


 レイナはうなずきながらも、忍の小さな手が自分の手を握る感触に、母としての温もりを感じていた。

 「……母様の手、やっぱり落ち着く」

 その一言に、会議の空気が少し和らいだ。


 その時、ふわりと光が揺れ、夢の中に新たな声が割り込んだ。

 「はいはい、作戦会議は大事ね。でもねえ――」

 現れたのは、にこやかな顔のカグヤだった。

 「一つ大切なことを言い忘れているわよ」


 四人が一斉に振り返る。

 「……カグヤ?」

 「この人ね」

 彼女は唐突に、青年の顔を頭上に幻として浮かべた。

 「実は師団の前世記憶を持ってるの」


 沈黙。


 「……は?」

 レイナの口が半開きになり、ユーリは眉をひそめ、イオスは目を細めた。

 忍だけが目を輝かせて言った。

 「やっぱり! だからあの人、変に詳しいんだ!」


 カグヤは両手をぱんと叩き、にっこり。

 「はい、爆弾投下終わり。じゃ、あとはよろしく~♪」

 そのまま光と共に消えていった。


 呆然とする三人。

 「……いきなり言って消えるとは」

 イオスの低い声に、ユーリが頭を押さえる。

 「本当に女神なのか、あの人は……」

 レイナは小さくため息をつき、忍の頭を撫でた。

 「忍、あなたは知っていたの?」

 「うん、なんとなく。でも、あそこまで言うとは思わなかった」

 少年の無邪気な答えに、レイナは肩を落とした。


 真面目な会議はすっかり台無し。

 だが、不思議と胸の重みは軽くなっていた。


 こうして温泉三日目の夜は、予想もしない「爆弾発言」で締めくくられた。

 誰もが頭を抱えつつも、心の奥に小さな笑みが残っていたのだった。

温泉に癒され、笑顔を取り戻した人々。

重い荷を下ろしたひとときは、確かに次の歩みの力となりました。

けれど、夢の中で告げられた「前世の記憶」という言葉は、

安らぎの夜に新たな波紋を広げます。

人々の心はまだ整理がつかぬまま――物語は次の段階へと進んでいきます。


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