041. 港町ノヴォミ~高台スモトロ (2)
港町ノヴォミを出発した移動団は、街の象徴となった浮桟橋を背に、新たな旅路を歩み始めました。
険しい崖道という最初の難関を前に、人々は不安と決意を胸に歩みを進め、互いを支え合うことで一歩ずつ進んでいきます。
休養の夜には笑いと語らいが戻り、新たに加わった者たちも少しずつ居場所を見つけてゆきました。
そして夜の夢は、母と子の絆、そして未来の姿をそっと映し出します。
夜明けの谷は冷たく、岩肌にまとわりつく霧が、目の前の道の険しさを際立たせていた。
第一の難関――崖道を越えるために、一行は馬車を止め、準備に取りかかることになった。
イオスは地図を広げ、火に照らされた崖道の縮図を木の枝で描き出す。
「この道幅では馬車をそのまま通すのは危険だ。荷を一部降ろし、軽くしなければならない。補強材を組んで、車輪が落ちぬよう支える必要もある」
護衛や技術班が真剣な眼差しで頷く。
「木材はどこから持ってくる?」
「川辺で伐り出せる。縄もあるが、追加が要るな」
会議の輪の外で聞いていた団員たちは、息を呑みながらその光景を見守っていた。崖の向こうに待つ危険を思い、誰もが胸の奥を締め付けられていた。
レイナはその緊張を感じ取り、穏やかな声で口を添えた。
「危険は大きいけれど……皆で力を合わせれば、必ず道は開けます。どうか恐れずに」
その言葉が、凍りつきかけていた空気を少し和らげる。
新参の三人も、その場に居合わせていた。
青年は腕を組み、崖の図をじっと見つめていた。やがて無意識に口を開く。
「……この辺りは地盤が不均一だな。車輪の荷重が片寄れば崩れる」
思わず口からこぼれた言葉に、周囲が怪訝そうに視線を向ける。
イオスが眉をひそめた。
「……お前、妙に詳しいな。何者だ?」
「ただの口癖です。夢の中で、よく……」
青年は慌てて言葉を濁した。イオスはしばらく彼を見つめたが、それ以上追及せず、再び地図に目を落とした。
その横で、女性は焚き火の鍋を覗き込み、煮込みをかき混ぜていた。
「食事だけはしっかり取ってもらわないと……力が持ちませんから」
彼女の声は控えめだが、団員たちの顔には少し笑みが戻った。
少女は小さな両手で器を運び、年長の団員に差し出している。
「どうぞ」
「おお、ありがとうな」
団員の大きな手が少女の頭を撫で、少女ははにかんだ笑顔を浮かべた。
準備は夕暮れまで続いた。男たちは木を伐り、縄を編み、車輪を外して補強材を取り付ける。女たちは料理や荷物の仕分けを行い、荷車を軽くするために荷物を降ろし、仕分けをする大人たちのそばで、子どもたちは焚き火用の小枝を拾い集めて回った。
焚き火の炎が高く上がり、橙色の光に照らされた顔は皆、疲労に濡れながらも、確かな決意を宿していた。
その夜、レイナは焚き火の前で一同に向き合った。
「私たちが目指すのは、遠くコルキスの街。そのために、ひとつずつ困難を越えていきましょう。明日が最初の試練です。どうか力を貸してください」
沈黙のあと、護衛のひとりが力強く応えた。
「団長、任せてください。必ず通してみせます」
その声を皮切りに、次々と賛同の声が重なる。
崖の闇の向こうに待つ明日を前に、移動団はひとつにまとまりつつあった。
焚き火の火花が夜空に舞い上がり、星々と溶け合う。
新参の三人もその光を見つめながら、「この団と共に進む」という覚悟を、初めて心の底から抱いたのだった。
※
朝の空気は張り詰め、誰もが口数少なく準備を進めていた。
崖道は目の前にある。谷底へ吸い込まれそうな細道、削り取られた岩肌、風が吹き上がるたびに足をすくむような高さ。
昨日の会議で決まった通り、馬車の荷は半分近く降ろされ、補強材と縄が要所に仕掛けられていた。
イオスが先頭に立ち、短く声を張る。
「行くぞ。全員、持ち場につけ!」
護衛は馬の手綱を握り締め、技術班は木の梁を肩に構え、団員たちは互いの肩を叩いて士気を高めた。
最初の馬車が道に差しかかると、列の後方まで緊張が伝わる。
軋む音。車輪が石に乗り上げ、谷風が唸る。
「押せ! 支えろ!」
掛け声に合わせ、青年も列から飛び出した。
大人二人でも重い車輪に、彼は全身を預けるようにして肩を押しつける。足元の砂利が滑るたびに体が揺れたが、歯を食いしばって踏み込んだ。
そのときだった。馬が風に怯え、前脚を高く跳ね上げた。
「きゃっ!」
近くで見ていた少女が悲鳴をあげ、道端に身体を投げ出してしまう。
落ちる――誰もがそう思った刹那、青年が飛び込んだ。
強く腕を伸ばし、少女を抱きしめるように抱え込む。
岩肌に擦れた痛みも顧みず、彼は必死に体を丸めて守った。
風が収まり、少女の泣き声が響く。
「こわかった……」
青年の胸にしがみつき、小さな手が震えている。
駆け寄った女性が二人を抱き寄せ、涙声で言った。
「ありがとう……あなたがいなければ、この子は――」
青年は荒い息を整え、少女の髪を撫でた。
「大丈夫だ。絶対に離さない」
その瞬間、周囲の団員の目に映ったのは、ただの同行者ではなく――「家族」の姿だった。
やがて馬も落ち着きを取り戻し、残りの馬車も一つずつ崖道を渡っていった。
護衛が縄を張り、技術班が梁を支え、全員の力で進んでいく。誰もが冷や汗を流しながらも、一人も欠けることなく対岸へ辿り着いた。
岩場を抜けた先の平地で、列はすぐに野営に入った。
崖道を越えた安堵と、緊張の余韻が入り混じる中、焚き火の周りで人々が言葉を交わす。
「まるで家族だな、あの三人は」
「俺たちも負けてられないな」
笑い混じりの声が広がり、重苦しい空気がようやく解けていった。
夜空には星々が輝き、崖を渡りきった者だけが見られる静かな景色が広がっていた。
青年は焚き火の影で、少女と女性の隣に腰を下ろす。
――守るべきものができた。
その思いは、誰にも聞こえぬほど静かに、しかし確かに胸の奥で燃えていた。
※
朝、崖の向こうに広がる平地に、やわらかな光が差し込んだ。
昨日の崖道を越えた緊張の余韻が、まだ体の奥に残っている。だが今日だけは、進むことをやめて休む日と決められていた。
馬たちは放牧され、草を食みながらのんびりと尻尾を振っている。護衛たちは鎧を脱ぎ、石に腰を下ろして背伸びをしていた。
「はあ……生きてここで目を覚ませるとはな」
誰かが漏らした一言に、周りがどっと笑い声をあげる。その笑いは、昨夜まで張り詰めていた空気をやわらかく溶かした。
※焚き火の輪※
焚き火のまわりには、いくつもの小さな輪ができていた。
料理を手伝う女性たちの輪では、野菜を刻みながら声が弾む。
「この子、馬に好かれてるんでしょう? 本当に不思議ね」
新参の少女は照れくさそうに頬を赤らめる。
「昨日だって、暴れた馬がこの子を見た瞬間に落ち着いたんだよ」
噂めいた声に、少女は女性の影に隠れた。だがその仕草は、輪の中に新しい色を添えていた。
別の焚き火では、護衛たちが酒袋を回していた。
「おい、昨日のあいつを見たか? 飛び込んで子どもを抱えた瞬間よ」
「ああ、あれは肝が据わってる。こっちが肝を冷やしたけどな!」
豪快な笑いと共に、酒がどっと喉に流れ込む。新参の青年は少し離れた場所で黙って聞いていたが、背中をどんと叩かれた。
「お前のことだ、誇れ! 昨日は立派だったぞ!」
青年は顔を赤らめ、ただ「……ありがとうございます」と小さく答えるだけだった。
※子どもたちの遊び※
子どもたちは川辺で石を投げ、水切りに夢中になっていた。
新参の少女も誘われて輪に加わる。最初はぎこちなく石を投げては水に沈めていたが、周りの子らの声に励まされ、やがて石が跳ねた。
「できた!」
少女の笑顔に、他の子どもたちも歓声をあげる。
その様子を遠くから見ていた女性は、胸を撫で下ろした。――もう、この子は孤独ではない。
※技術班の輪※
離れた場所では技術班が、昨日の補強材について語り合っていた。
「木材の組み方は悪くなかったが、縄が足りないと危なかったな」
「次はもっと強い繊維を探そう」
青年はふらりとその輪に近づき、何気なく口を挟んだ。
「……荷重を分散させれば、もっと安定する」
技術班のひとりが目を細めた。
「お前、詳しいな」
「い、いや……ただ思っただけだ」
青年は慌てて誤魔化したが、その言葉は確かに実用的で、技術班の者たちに小さな衝撃を与えていた。
※レイナとイオス※
日が傾き始めたころ、レイナとイオスは野営地を歩きながら団員たちを見渡していた。
笑い声、子どもの歓声、料理の匂い――どれもが安堵に包まれている。
「昨日の緊張が嘘のようだな」
イオスの低い声に、レイナは頷いた。
「ええ……。でも、こういう日があるからこそ進めるのだと思います」
二人の視線の先には、新参の三人がいた。
少女は他の子と遊び、女性は料理の輪に入り、青年は技術班と会話をしていた。
「……もう、仲間ですね」
レイナの言葉に、イオスはわずかに笑みを見せた。
※夜のひととき※
夜になると、焚き火の火がいっそう大きくなり、団員たちは歌を口ずさんだ。
誰かが太鼓を叩き、子どもたちが手を叩いて笑う。
新参の少女は女性と青年の間に座り、寄り添いながら歌声を聞いていた。
その小さな笑顔を見て、青年は心に誓う。
――この旅で、この子を守り抜く。
やがて夜空に無数の星が広がり、団員たちの笑い声が谷に響いた。
昨日までの緊張は、もはや遠い記憶のように思える。
だが誰もが知っていた。この安らぎの後に、再び険しい道が待っていることを。
それでも今は、ただ心と体を休め、共に過ごす温かさを噛み締めるのだった。
※
その夜。
焚き火が静かに小さくなり、歌声と笑い声が遠ざかるころ、レイナは眠りについた。
意識が深い闇に沈むと、柔らかな光が差し込み、夢の中にあの懐かしい声が響いた。
「母様」
振り返ると、忍がそこに立っていた。まだ幼い姿なのに、その瞳はどこか大人びている。
「……忍。久しぶりね」
「大丈夫? 声が疲れてる」
レイナはふっと微笑み、夢の中でも胸がほどけるような思いになった。
「昨日は崖道を越えたのよ。誰も欠けずに……それが、どれほど嬉しいことか」
「ふふ、やっぱりやり遂げたんだね。母様ならできると思ってた」
忍の言葉は軽やかだったが、その奥に確かな信頼があることをレイナは感じ取った。
「でもね、忍。こうして日々を重ねるほどに、不思議な気持ちになるの。……私ひとりじゃないって。みんながいて、支えてくれる。イオスも、ユーリも、そして新しく入ったあの三人も」
「母様が団を引っ張っているからだよ。だから、みんな寄り添ってくるんだ」
忍はそう言いながら、小さな手を差し伸べた。その仕草に、レイナの胸がじんわりと熱くなる。
「……あなたにそう言ってもらえると、強くなれる気がするわ」
「強いのは、母様そのものだよ」
レイナは忍の顔を見つめながら、ふと口をついて出た。
「もしも、この旅が終わった時……私はどうしているのかしら。誰と共に立っているのかしら」
忍は少し首を傾げ、それからいたずらっぽく笑った。
「それは……母様の隣に立つ誰かが決めることだろうね。母様は気付いてるんじゃない?」
その言葉に、レイナの胸にイオスの姿が浮かんだ。広場で支えてくれる背中、静かな笑み、冷静な判断――。
思わず頬が熱くなり、夢の中で視線を逸らす。
「……忍は、子どもなのにずるいわね」
「ぼくは母様の子どもで、母様の仲間だから」
忍の言葉は真っ直ぐで、優しかった。
レイナは彼の手を握りしめ、目を閉じた。
「ありがとう、忍。明日からも……私は進むわ」
「うん。ぼくも別の道を進んでる。でも、心は繋がってるから」
光が薄れていく中で、忍の笑顔だけが残り、やがて夢は静かに途切れた。
レイナは眠りの中で小さく安堵の息をつき、そのまま深い眠りに沈んでいった。
心はようやく休まり、夜の静けさに抱かれながら、安らかな眠りが彼女を包んでいった。。
一方その頃、イオスもまた眠りについていた。
長い緊張の糸が切れたせいか、深い眠りではなく、浅い夢の中を揺らめいていた。
夢の中で彼は、崖の道を歩いていた。風が吹き荒び、足元の岩が崩れそうになる。振り返ると、そこにはレイナが立っていた。
彼女は不安げに道を見つめていたが、やがて顔を上げ、まっすぐこちらを見つめる。
――頼りにしている。
言葉はなかった。それでも、その眼差しが雄弁にそう告げていた。
イオスは夢の中でふと立ち止まり、胸の奥に熱いものが広がるのを感じた。
「……ああ、私はこの人のために進んでいるのかもしれない」
自分でも意外な言葉が心に浮かび、思わず苦笑する。
だが、夢の中で見た彼女の姿は、眠りの底に沈んでもなお消えなかった。
外の世界では、谷を渡る風が野営地を撫でていた。
同じ夜、離れた場所で眠る二人の心に、それぞれ相手の姿が浮かんでいた。
そのことを互いに知る由もなく――。
※レイナとイオスの夢 ― 家族のような街散策
……次に訪れた夢は、不思議なほど穏やかな街並みだった。
石畳の道の両脇に白壁の家々が並び、露店には果物や布が彩り豊かに並んでいる。
陽光は柔らかく、潮風が香る。
そこを歩いていたのは――レイナとイオス、そして少女の三人だった。
少女は両手いっぱいに菓子パンを抱え、はしゃぐように前を駆けていく。
「待ちなさい、転んじゃうわよ」
思わず声を掛けるレイナ。その響きはまるで母そのものだった。
イオスは一歩後ろから二人を見守りながら、苦笑する。
「仕方ないな……」
少女の背中を追って軽く歩調を早め、手を伸ばしてやる。少女は安心したように笑い、今度はイオスの手をしっかりと握った。
レイナが追いつき、三人は自然に並んで歩く。
街の人々が振り返り、「いい家族だ」と微笑む。
その視線に頬を染めながらも、レイナはふと胸に温かさを覚えた。
(……これが、私の望んでいる未来なのかもしれない)
一方で、イオスもまた胸の奥に不思議なざわめきを感じていた。
彼は普段、冷静で実務的な判断を下す男だ。しかし夢の中でレイナと少女が隣にいる光景は、理屈ではなく「守りたい」という想いを強く呼び覚ました。
三人が石畳を歩く足音が、街のざわめきに溶けていく。
夢だと気づかぬまま、二人はその温かな時間を深く刻んでいった。
※
そして夜明け。
レイナは深い眠りの底で安堵の息をつき、イオスもまた、いつもより柔らかな寝顔で夜を過ごしていた。
――互いに知ることはない。けれど同じ夜、二人の心に「家族としての未来」の幻が確かに描かれていた。
出発から最初の難関を越えるまでの数日間は、旅の基調を決定づける大切な時となりました。
団員たちの交流は日ごとに深まり、人々の言葉や笑いが旅路を彩っていきます。
一方で、夢の中に垣間見えた未来の情景は、これからの旅路がもたらす縁と絆を静かに暗示していました。
道のりはまだ長く続きます。次に待つのは川沿いの平常走行、その先に広がる新たな景色です。




