040. 港町ノヴォミ~高台スモトロ (1)
港町ノヴォミハイロフスキーを出発した移動団。
新しい浮桟橋を背に、多くの人々の見送りを受けて旅は始まりました。
新たに加わった三人の同行者は、まだ居場所を探しながらも、焚き火のぬくもりの中で少しずつ心を寄せ合っていきます。
やがて一行の前に現れるのは、黒海沿岸へ抜けるための険しい崖道。
第一の難関を前に、彼らの決意と絆が試される――そんな始まりの章となります。
冷たい朝の空気が、港町の広場を包んでいた。
石畳の上に並べられた馬車の列は、まだ薄暗い空の下で白い吐息を吐く馬たちと共に、出発の時を待っている。帆布を締め直す音、軸に油を差す音、護衛の剣を確認する音が重なり合い、静かな緊張感を漂わせていた。
広場の向こうには、新しく完成した浮桟橋が見える。朝日を受けて輝くその姿は、この町が未来に向けて築き上げた希望の象徴だった。町に馴染めず孤独を抱えていた新参の三人も、その光景に胸を揺さぶられていた。
青年は拳を握りしめる。
(俺も……この橋みたいに、新しい道を延ばしていけるだろうか)
馬車の側にいた若い護衛が、ぼそりと呟いた。
「俺たちも……道を延ばしていくんだな」
その声は大きくはなかった。だが、近くにいた者たちが顔を上げ、同じ思いを胸に刻む。長い旅の覚悟が、静かにひとつになった瞬間だった。
その空気を受け止めるように、副団長イオスが前へと進み出る。手にした地図を広げ、落ち着いた声で告げた。
「本日の目的地は、川を越えた丘陵の手前だ。まずは道を確かめつつ、無理のない行程で進む」
淡々とした口調だったが、そこに込められた配慮と責任が、団員たちの胸に安堵を与える。
そして、広場に立つ全員の視線が、移動団長レイナへと集まった。
彼女は馬車の先頭に立ち、深く息を吸い込む。見送りに集まった人々の顔をひとりひとり見渡し、声を張り上げた。
「これからの旅は、長くて険しいものになるでしょう。それでも、私たちは進まなければなりません。仲間と共に、道を切り拓いていきます!――出発します!」
その宣言に、張り詰めていた空気が一気に動いた。馬が鼻を鳴らし、護衛が姿勢を正し、団員たちが一斉に手綱を握り直す。
通りの両脇には、多くの人々が集まっていた。
「気をつけて!」「また戻ってきてね!」
声が飛び交い、子どもが小さな手を振り、老婆が色褪せた布を掲げ、職人が作業の手を止めて声援を送る。
その光景に、新参の女性は涙が滲むのをこらえきれなかった。
(私たちにも、見送ってくれる人がいる……。この旅で、きっと新しい居場所を見つけられる)
その隣で、少女は大きな瞳を見開いていた。初めて経験する旅立ちのざわめきに、不安と期待がないまぜになっている。
軋む音を立てながら、先頭の馬車がゆっくりと動き出す。蹄の音と車輪の回転が石畳に響き、やがて列全体がうねりをあげて進み始めた。
団員たちは振り返り、浮桟橋とその上に立つ人々の姿を目に焼き付ける。朝日に染まった景色は、いつか帰ってきたいという想いと、もう後戻りはできないという覚悟を同時に刻みつけた。
こうして、ソチへと続く長い旅路の最初の一歩が踏み出された。
馬たちの嘶きと人々の声援が重なり合い、道を進む列はひとつの大きな響きとなって街を後にした。
※
夕暮れ、列は小川のほとりに辿り着いた。草地が広がり、水場も近い。イオスが馬の足を確かめて頷く。
「ここなら良い。今夜はここで野営しよう」
団員たちは慣れた手つきで動き始めた。荷を解き、馬に水を飲ませ、護衛たちは周囲の見張り場所を決める。焚き火の準備が進むと、ぱちぱちと小さな火が弾けて、橙色の光が一日の終わりを告げた。
だが、その輪から少し離れたところに、新参の三人が所在なげに立ち尽くしていた。
青年は周囲の手際の良さに圧倒され、どう動けばいいか分からない。女性は荷を抱えたまま、何をすればよいのかと戸惑っている。少女は馬の背をじっと見つめ、恐る恐る近づこうとしては足を止めていた。
その様子に気づいたレイナが、穏やかな笑みを浮かべて歩み寄った。
「あなたたちも、今日から移動団の仲間です。けれど最初は、戸惑うのも当然ですね」
青年は気まずそうに頭をかき、声を低くした。
「街の外で夜を迎えるなんて初めてで……。でも、力仕事なら自信があります。荷物運びでも護衛でも、任せてもらえれば」
レイナは頷き、力強く答える。
「それなら心強いわ。道は険しい。馬車を押すにも、護衛にも、あなたの力が必要です」
女性が続いた。
「私は……料理や子どもの世話なら。大したことはできませんが、人の役に立ちたいんです」
「ええ、それもとても大切。食事も看病も、誰かが支えてくれるから旅は続けられるのです」
その時、少女がぽつりと声をもらした。
「……馬が、わたしの手をなめました」
緊張した面持ちのまま差し出した小さな手のひらには、馬の温もりが残っていた。
護衛のひとりが目を丸くし、思わず笑みをこぼす。
「こいつは驚いたな。馬に好かれる子は珍しい」
レイナは膝を折り、少女の目線に合わせてやさしく言った。
「それは立派なお役目です。馬たちは旅の仲間。あなたがそばにいてくれると心強いわ」
少女は小さく頷き、母のように寄り添う女性の手を握った。青年はその姿を見つめ、胸の奥に温かいものが広がるのを感じていた。
やがて焚き火の周りに輪ができ、煮込みの香りが漂い始める。湯気を浴びながら、団員たちの顔には疲労と共に安堵の色が差していた。
レイナは全体を見渡し、静かに声を掛ける。
「これが私たちの最初の夜です。無事に迎えられたことを、喜びましょう」
火の粉が夜空に舞い上がり、満天の星と交じる。
新参の三人は、自分たちがここに居ていいのだと、ようやく実感し始めていた。
こうして移動団の長い旅の、最初の夜が更けていった。
※
朝の光が丘陵を照らし、草に露が光っていた。
馬車の列はゆっくりと坂道を登り、車輪が石を軋ませながら前へ進んでいく。振り返れば、まだ港町の屋根や新しい浮桟橋が小さく見えていた。街を離れて一日目――旅立ちの実感が、誰の胸にも重くのしかかっている。
坂がきつくなると、馬たちの鼻息が荒くなり、車輪が泥に取られて進みが鈍った。
「押せ! もう少しだ!」
護衛が声を張り上げる。
青年は迷わず列から飛び出し、車輪に肩を押し当てた。力強く踏み込むたび、筋肉が唸りを上げる。やがて馬車が揺れながらも少しずつ坂を登っていった。
その姿を見ていた子どもが、目を丸くして声をあげる。
「すごい! 本当に動いた!」
無邪気な歓声に、青年の額に浮かんでいた汗が、誇らしさに変わっていく。
後ろから見守っていた女性は、ほっとしたように微笑んだ。
「やっぱり力があるわね……。この旅には、あなたが必要ね」
青年は照れくさそうに肩をすくめた。
「ただ押しただけさ。でも、俺にできることがあるなら、やってみるよ」
休憩に入った時、子どもがそっと青年の隣に腰を下ろした。
「ねえ、また馬車を押すとき、わたしも一緒にやっていい?」
「おいおい、お前にはまだ早いだろ」
そう言いながらも、青年は笑って子どもの頭をくしゃりと撫でる。
女性はその光景を見つめ、胸の奥に不思議な安らぎを覚えていた。
その頃、馬車列の先頭でイオスが地図を広げていた。
「丘陵を抜ければ川沿いに道が続く。今日の目標はあの丘の陰だ」
現実的な判断に護衛たちは頷き、また進み始める。
再び歩き出した列の中で、青年はふと口にした。
「この坂……地盤が柔らかいな。車輪が余計に沈む」
意味の分からない言葉に、周囲の団員が怪訝そうに眉をひそめる。
「何だ、それ?」
「いや……ただの口癖みたいなもんさ」
青年は慌てて笑ってごまかす。だが、その一瞬の響きは、確かに“この世界にはそぐわない言葉”だった。
夕暮れが近づくころ、丘陵を越えた一行は小さな川辺で再び野営の準備を始めた。
子どもは他の子どもたちと駆け回り、女性は煮込みの鍋を手伝い、青年は荷物の移動で汗を流す。
まだ完全には馴染んでいない。けれど、少しずつ――確かに三人は団の輪に溶け込み始めていた。
※
丘陵を越えてしばらく進んだ一行は、川辺で焚き火を囲んで夜を迎えた。
団員たちは慣れた手つきで薪を割り、煮込みを仕込んでいる。笑い声が響く輪の少し外れに、新参の三人は肩を寄せ合って座っていた。
少女は昼間の疲れからか、女性の膝に頭をのせて眠っている。青年は焚き火を遠巻きに眺めながら、所在なげに拳を握ったり開いたりしていた。
その様子に気づいたレイナとイオスが静かに近づいた。
「今夜の居心地はどう?」
レイナの穏やかな声に、女性は慌てて立ち上がりかけたが、レイナが手を伸べて制した。
「いいのよ、無理に立たなくて。ここは、もうあなたたちの場所だから」
女性の目に涙がにじむ。
「……ありがとうございます。まだ慣れなくて」
「慣れるのに時間はいらないわ。役割を見つけたら、すぐに仲間よ」
レイナの言葉は、張り詰めていた心を溶かすように柔らかかった。
その隣で、イオスが青年に視線を向ける。
「昼間は助かったな。あの坂で馬車を押してくれた」
「いえ……力しか取り柄がなくて」
「力は十分な武器だ。明日からも頼むぞ」
淡々とした言葉だが、そこには確かな信頼がにじんでいた。青年は不器用に頷くしかなかったが、胸の奥に温かいものが灯るのを感じた。
焚き火の火がぱちぱちと弾け、眠る少女の頬を照らした。
レイナはその顔を覗き込み、小さく微笑む。
「この子は馬に好かれていたわね。……きっと、この旅で一番の友だちを見つけられる」
女性は娘のように頭を撫で、静かに頷いた。
しばしの沈黙の後、レイナが立ち上がる。
「ゆっくり休んで。明日も長い一日になるわ」
イオスも軽く頷いて去っていく。
残された三人は、火のぬくもりを感じながら互いの顔を見合わせた。
――この旅で、本当にやり直せるのかもしれない。
そんな思いが、初めて胸に芽生え始めていた。
※
丘陵を越えてさらに進んだ一行は、やがて大きな岩壁の前に立ち止まった。
崖の裾を縫うように細い道が続いている。馬車の列が進むには、あまりにも心許ない道幅だ。
イオスは馬を降り、崖道をじっと見上げた。
「ここから先は無理に進めない。今日はここで休む。明日から偵察と準備に入る」
団員たちは頷き、慣れた手で野営の準備を始めた。焚き火が点り、馬たちが水を飲み、道具が整えられていく。だが、火の灯りに照らされた顔には、明日からの困難を思う影が差していた。
新参の三人も、火の輪の外に腰を下ろし、崖を見上げていた。
女性は思わず声を漏らす。
「……あんな道を、本当に進むんですか」
青年は黙って頷いた。その横顔は強張っていたが、目には諦めではなく、挑む決意が宿っている。
「ここまで来て戻るわけにはいかない。俺たちは、この団と一緒に行く」
その言葉に、女性は唇を噛み、少女の肩を抱き寄せた。少女はまだ状況を理解できていない。ただ、焚き火の光を見つめながら、不安そうに母代わりの手を握りしめていた。
夜が更けると、空には無数の星が瞬いた。
青年は皆が眠りに就いた後も、ひとり外に立ち、星を見上げた。
「……空に、戻れたらな」
誰に聞かせるでもない呟きが、夜風に溶けた。
彼自身もその意味を掴み切れずにいた。ただ、胸の奥に眠る感覚が、今も自分を呼んでいるのを確かに感じていた。
やがて焚き火の火が静かに小さくなり、谷を吹き抜ける風の音だけが残った。
移動団の一行は、明日の試練を前に、重い眠りについた。
※
朝、崖道の手前に立ったイオスは、険しい岩肌を見上げた。
人ひとりがようやく通れるほどの幅しかなく、ところどころで岩がせり出し、馬車を通すには危うい箇所がいくつもある。
谷底は深く、吹き上がる風が足元をすくうように冷たい。
「ここから先は偵察だ。馬車は動かすな」
イオスが指示を飛ばし、護衛と斥候が次々に縄を腰に巻き付けて崖道に踏み出していく。
上から小石が落ちるたび、列の後方に残った者たちが息を呑んだ。
レイナはそんな団員たちの間を歩き、落ち着いた声で言葉を掛けて回った。
「大丈夫。イオスと護衛たちは慣れている。私たちは休養に努めましょう」
その声は静かに緊張を和らげ、焚き火の火を守るように輪を落ち着かせた。
一方、新参の三人は火の輪の外で崖を見上げていた。
女性は少女を抱き寄せ、不安げに言った。
「……あんな細い道、どうやって馬車を通すのかしら」
青年は黙って岩肌を観察していた。やがて、思わず口からこぼれる。
「岩盤の層が不均一だな……。荷重をかけると崩れやすい場所がある」
女性は怪訝な顔を向けた。
「どうして分かるの?」
「……ただ、見れば分かるんだ。夢で何度も……いや、気にしないでくれ」
彼は慌てて言葉を切ったが、彼の声には確信があった。
その直後、谷から吹き上げる強い風に少女が怯えて女性の腕にしがみつく。
「怖い……落ちちゃいそう」
「大丈夫よ。お母さんがいるから」
女性は強く抱き締めた。その姿はもう、母そのものであった。
やがて偵察を終えた護衛たちが戻り、イオスが報告をまとめる。
「道幅の狭い箇所が三つ。荷を降ろして馬車を軽くし、補強材を組めば通れる。明日から準備に入る」
現実的な判断が告げられ、団員たちは重い息を吐きながらも頷いた。
夕暮れ、焚き火の光の下で少女はまだ女性に寄り添い続けていた。
その姿を見つめながら、青年は静かに拳を握る。
――守らなければならない。
その決意は、夜風に吹かれながら一層強く胸に刻まれていった。
こうして、港町を離れた移動団の最初の数日は「旅の実感」と「仲間との距離感」を描きました。
まだ新参の三人は不安と戸惑いを抱えていますが、レイナやイオスとのやりとりを通して少しずつ役割と居場所を見つけ始めます。
次回からはいよいよ崖道の偵察と準備、そして最初の難関突破へ。
旅は始まったばかりですが、この第一歩が後々大きな意味を持つことになるでしょう。




