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004. 神の耳が聞いたもの

屋敷の奥で静かに育まれる母子の時間――

それを遠巻きに見下ろす者たちの視線は、次第に冷たさを帯びはじめます。


忍という存在が、この家にとって“余計なもの”と見なされる日が近づくなか、

ひとり、老侍女がその空気を察知し、守る準備を始めました。


そしてその動きを、遥か上空から見つめる存在がいます。

かつて“仲間”と呼ばれた彼女――異世界の神・カグヤが、ついに静かに動き出します。


朝の陽は高く、屋敷の中庭には爽やかな風が通り抜けていた。

 よく手入れされた芝生の上では、三人の子どもたちが木剣を振り回しながら追いかけっこをしている。

 無邪気な笑い声が庭に響き、白い制服に似た衣装が日差しを受けてまぶしく光っていた。

「……まあ、元気なこと」

テラスの日陰からその様子を眺めていたのは、この屋敷の正妻・ソリーヌだった。

年若くして辺境伯の正室となった彼女は、厳しい貴族教育を受けて育ち、いつも整った姿勢と笑顔を絶やさない女性である。

だが、その笑顔は内面を映すものではない。

「……あちらの方も、無事に産まれたとか」

隣に控えた侍女が、ふと気を遣うように話題を投げた。

ソリーヌは表情を崩さず、扇子を軽くあおいだ。

「ええ、聞きました。泣かなかったそうですわよ。まあ、“妾の子”ですもの。何かが足りないのでしょう」

その声は柔らかく、どこまでも上品だった。

だがその言葉の裏には、冷たい軽蔑が確かに滲んでいた。

中庭の子どもたち――ソリーヌの実子たちは、兄妹で剣の構えを真似しながらじゃれ合っている。

「坊ちゃま、またお袖が汚れてしまいますよ」

別の侍女が子どもに近寄るが、男の子は笑って逃げた。

「いいのさ。どうせすぐ着替えるんだ!」

――その笑顔は、どこか“何かを持っている者”の余裕に満ちていた。

ソリーヌは目を細めて、視線を屋敷の奥――石塀の向こう、日陰の一角に向けた。

見えはしないが、その先にある“離れ”の存在を、彼女は確かに感じ取っている。

「……あの方も、もうすぐ使い物にならなくなるわ」

ソリーヌは誰に言うでもなくつぶやくと、くるりと扇子を閉じた。

「次の人材は、私の方で選ばせていただきますわ。今度は、私たちにとって“都合の良い”妾を」

その言葉に、侍女たちが目を見合わせ、小さくうなずいた。

庭では、子どもたちの声が風に乗ってはしゃいでいる。

その無邪気さの向こうに、誰にも知られず息を潜める赤子の存在があることなど――

この母子たちは、知る由もなかった。


※※※


午後の陽光が傾き始めた頃、邸内の高台にある東の塔から、女がひとり庭を見下ろしていた。

本妻・ソリーヌ。

その姿は変わらず優雅で、身なりに一分の乱れもない。

だがその瞳には、すでに“戦の構え”とも言える鋭さが宿っていた。

彼女の視線の先――それは、石塀の外縁部。

屋敷の敷地内でありながら、人目から遠ざけられた離れ家。

表向きには“下働きの物置”とされているその建物には、妾とその赤子が暮らしている。

「……また、行ったのね。あの方」

ソリーヌのつぶやきに、後ろに控えていた侍女が静かにうなずいた。

「本日昼過ぎ、旦那様が馬で離れへ。滞在はわずか五分ほどでございました」

「ふふ、五分。ええ、十分ですわ。“生きているか”それだけを見に行ったのね」

ソリーヌは、唇の端だけで笑った。

その笑みには、愛情も嫉妬もなかった。ただ、冷静な計算があった。

「“その子”が成長すれば、いずれ何らかの扱いが必要になる。正式な認知は……させません。

それに、そろそろ私たちも、新しい“役割”の者を用意しないとね。ふさわしい妾を」

侍女はその意図を察し、うやうやしく頭を下げた。

「候補は、例の親戚筋から?」

「ええ。まだ十四ですが、育ちの良さと、従順さは折り紙つき。

あの方の好みにも合うでしょう。……なにより、“あちら”を消す理由になります」

陽光が、塔の窓から差し込んでくる。

ソリーヌは扇子をたたき、窓から一歩退いた。

「そろそろ、風向きを変えましょう。……あの子とその母が、“自然に消える”ように」

そう告げたソリーヌの背後では、何も言わず控えていた侍女たちが、影のように動き出していた。


※※※


日が傾き、離れの影が長く伸び始めたころ。

おたきは裏庭の小さな井戸のそばで、桶に溜めた水を静かにかき混ぜていた。

洗濯物を干すのは、もう少し陽がやわらいでからでいい。だが今日は、なぜか気が急いて仕方がない。

水面に映る自分の顔を覗き込む。深く刻まれた皺の奥、目だけはまだ冴えていた。

──なにか、おかしい。

おたきは、昼前に見た屋敷の動きが頭から離れなかった。

中庭を通る侍女の数が、いつもより少なかった。

そして、厨房から離れに運ばれた朝食は、急に質が落ちた。これはいつものことではない。

さらには、本棟の若い侍女の一人――あの、正妻の側でいつも余計なことは言わないことで有名な者が、

なぜか昼過ぎに離れ家の近くを通りかかったのを見ている。

(見張られている……それも、“離れごと”)

おたきは、ざらついた唇を噛んだ。

長く屋敷に仕えてきた勘が、警鐘を鳴らしていた。

(次に来るのは、“何かを運ぶ者”じゃなくて、“何かを奪う者”だ)

そのとき、離れ家の中からレイナの咳が聞こえた。

おたきはすぐに立ち上がり、桶を横に置いたまま家の中へと戻った。

「どうしたね、レイナ様。寒うなりましたか」

「……ええ、ちょっと胸が重たくて。でも、大丈夫。しのぶも、静かにしてくれてます」

レイナは布団に横になったまま、忍を腕に抱いていた。赤子はぐっすりと眠っている。

おたきは火のそばに膝をつき、薪を足しながら、そっと声をかけた。

「……レイナ様。もしもの話ですがね、もし今夜にでも屋敷の様子が騒がしくなったら、あたしの言うとおりにしてくださいますか」

レイナは一瞬、目を見開いた。

「……逃げるのですか?」

「いいえ。まだ“逃げる”と決まったわけじゃない。でも、準備はしておかにゃ、手遅れになる」

おたきはレイナの手に、麻布に包んだ小さな包みをそっと握らせた。

「これ、中には赤ん坊と一緒に運べる最低限のものが入ってます。服、薬草、それと……念のための証文も」

「おたき……あなた……」

「レイナ様。この家はもう、守ってはくれませんよ」

おたきの目が、炉の火の奥を見据えるように細められた。

それは、何十年と人の表情を見てきた者の、“確信”に満ちた目だった。


※※※


月のない夜だった。

静寂が大地を覆い、屋敷の壁や森の影が、不自然なほどに濃く伸びていた。

そして、誰にも気づかれずにその空を漂っていた“意識”があった。

それは風のように形を持たず、光のように速く、声なき囁きに耳を澄ませていた。

――カグヤ。

かつてはゲーム仲間の一人として、ときに攻略役、ときに司令塔役を担っていた女性。

その正体は、異世界において“神の力”を宿す存在だった。

彼女は今、異世界の広範な空間に自らの意識を流し込み、忍を見守っていた。

(また、動き始めた……)

カグヤは、ある言葉を聞き取っていた。

本妻が塔の中で発した言葉。

「次の妾を選ぶ」「自然に消えるように」

それは決して明確な殺意ではない。だが、そう仕向けるための準備と意志――それは、神の耳にははっきりと響いていた。

(まだよ。忍には、“約束”がある)

彼女はこの世界の運営者として、干渉しすぎないよう距離を置いていた。

だが、「この世界に忍たちを転生させた責任」は、自らの中で揺るぎないものだった。

カグヤの視界に、辺境伯家の屋敷が上空から浮かび上がる。

灯りの消えた離れ、そしてその先に広がる村の闇。

そのとき、彼女の意識がひとつの点に結ばれる。

(……いた。連絡を取れる“彼”が、この国にいたわね)

それは、忍と共に転生した師団仲間のひとり。

王室に仕える行政官として、この国の政治中枢に食い込んでいる――冷静で、分析に長けた人物だった。

カグヤは、風をまとったようにその場所へ意識を滑らせていく。

(忍が消されるような未来は、絶対に渡さない。この世界は、彼らが生きるために“用意された場所”なんだから)

神の声は、誰にも聞こえない。

だがその夜、風は確かに動いた。

ご覧いただき、ありがとうございました。

今回は“忍を取り巻く屋敷内の不穏な空気”と、“神の視点からの介入開始”が描かれました。


神・カグヤが感じ取った危機。

それは、ほんのささいな言葉の端々に含まれる悪意――

しかし、未来を決定づけかねない重大な兆しでした。


次回からは、カグヤが連絡を取る師団仲間たちが登場します。

忍の脱出、そして再集結へ向けた準備がいよいよ本格化します。


どうぞ、次回もよろしくお願いいたします。


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