039. 街をつなぐ手と手
医療馬車が街の広場に展開され、人々の不安は癒しと祈りに変わっていく。
浜辺では技術者たちが壊れた馬車を修繕し、街の職人も加わって汗を流した。
やがて街の長が神殿に頭を下げ、人々は一つとなって教会を修復し、さらに未来への桟橋を築き上げる。
それは「神殿を中心に街が生まれ変わる」瞬間だった。
朝の陽光がノヴォミの街を明るく照らしていた。
広場の一角には二台の医療馬車が並び立ち、その姿は人々の視線を集めていた。
一台は、昨日届いたばかりの真新しい移動団の医療馬車。
もう一台は、クラズ神殿から同行してきた医療馬車である。
それはまるで二つの白い翼のように広場に並び、街に集う人々を迎えていた。
「こちらへ! 順番にどうぞ!」
イリアスが声を張り、列を整える。
レイナの団に所属する医師と、クラズ神殿の若き神官たちが補助に走り、見習いの神官たちが水や薬を手にして準備を進めている。
やがて一人の母親が幼い娘を抱えて列から進み出た。
少女の顔は赤く火照り、額には冷や汗がにじんでいる。
「この子が熱を……三日も下がらなくて……」
母親の声は震えていた。
ナセルが優しく受け取り、少女を診察台に寝かせる。
「安心してください。ここで診ましょう」
額に手を当てたナセルの顔が真剣になる。
「少し強い熱ですが、命に関わるものではありません。清潔な水と薬草で体を冷やせば回復します」
すぐに神官見習いが冷やした布を持ってきて、母親に手渡した。
「これを額に当て、日に何度か取り替えてください」
母親は涙をにじませ、深々と頭を下げる。
「神よ……ありがとうございます……」
次に現れたのは、片足を引きずる漁師だった。
網に足を絡めて海に落ち、岩で傷を負ったという。
「歩けるが、このままでは膿んでしまう」と訴える漁師に、イリアスが素早く膝をつく。
「消毒と縫合を行います。ここに横になってください」
医療馬車の内部から清潔な器具が差し出され、処置が始まった。
消毒液の匂いに群衆が息を呑むが、漁師は「ありがてえ、ありがてえ」と繰り返した。
老人もやって来た。
「膝がもう曲がらんでのう……」
彼の関節を確かめた移動団の医師は、湿布を調合して患部に貼った。
「これで痛みは和らぎます。ただし無理はせず、休みを取ってください」
老人は涙ぐみながら手を合わせ、震える声で言った。
「わしがまだ歩けるうちに……孫の顔を見に行けそうじゃ……」
広場には人々の祈りと感謝の声があふれていった。
子どもたちの笑い声、母親の安堵の涙、老人の震える手。
馬車はただの道具ではなく、「神の恵みを分かち合う場」となっていた。
アンドレイ神官長はその光景を見つめ、胸の奥に熱いものを感じた。
──神殿が街を導くとは、このことなのだ。
祈りの言葉が自然と口から漏れる。
「これこそ……神の望まれた奉仕である」
その言葉は、広場に集うすべての人の胸に響き、温かな光となって広がっていった。
※
広場の一角で医療馬車が診療を続けているその頃──。
浜辺では、別の光景が広がっていた。
長旅で酷使された移動団の馬車たち。
木製の車輪は削れ、車軸は歪み、幌は雨に打たれて継ぎ目が緩んでいた。
それを目にした技術者たちは、無言で腰を上げた。
艦から来た旧師団の技術班員たちと、移動団の職人コーサ、カリム、ギョーム、ヤスじい、縫物職人リュカまでもが並び立つ。
目の前の修理対象を前にすれば、彼らに言葉はいらなかった。
「ここは……もう限界だな」
コーサが軸を叩きながら呟く。
その言葉に旧師団員の一人が頷き、無言で工具を取り出す。
彼らの動きは規律正しく、次々に車輪を外し、部材を並べ始めた。
移動団の職人たちは驚きながらも、すぐに手を貸した。
「おお、なるほどな。そこを外すのか!」
「こっちの材木を使えば持つぞ!」
普段は賑やかな彼らも、いつしか旧師団員の無言のリズムに引き込まれていく。
砂浜に木槌の音、鋸の音、鉄を打つ音が響いた。
壊れかけた馬車が、少しずつ新たな形を取り戻していく。
補強された車軸は頑丈に輝き、修繕された幌は雨を拒む力を取り戻した。
作業を眺めていた街の人々は、次第にざわめきを漏らし始めた。
「……馬車が生まれ変わっていく……」
「神の船から来た者たちの技か……」
浜辺に集まった子供たちが目を輝かせ、作業の手元に釘付けになった。
ヤスじいが笑みを浮かべ、子供たちに声を掛ける。
「ほら見とけ。こうやって車輪は動きを取り戻すんだ」
その言葉に、子供たちは歓声を上げた。
やがて、一台の荷馬車が修理を終え、試しに押されると──。
ぎし、と音を立てていたはずの車輪が、驚くほど滑らかに回った。
「おお……!」
その場にいた全員から感嘆の声が上がる。
コーサは額の汗を拭い、にやりと笑った。
「これで、まだまだ走れる」
無言の旧師団員も、小さく頷いて手を止める。
街の人々にとって、それはまさに「神の船が壊れた馬車を呑み込み、再び命を与えた」ように映った。
信仰と畏敬が、さらに深く根を下ろしていく。
※
医療馬車の前では診療の声と祈りが続き、浜辺では技術者たちの槌音が響き続けていた。
──その熱気を目にしながら、街の長がゆっくりと歩み出てきた。
白い髭を蓄えた老齢の男で、長年このノヴォミの街をまとめてきた人物である。
彼の背後には数人の助役や職人頭も控えていたが、老いた長は自らの足で神官長アンドレイのもとへ進んだ。
広場のざわめきが、自然と静まる。
長はその場に膝をつき、深々と頭を垂れた。
「アンドレイ神官長殿……どうか、この街に教会を修繕する機会をお与えください」
その声は震えていた。だが決意の響きは揺るがなかった。
「神がこれほどの恵みを与えられたのに、わしらが黙って眺めているだけでは、民に顔向けできませぬ。
あの資材を使い、我らの手で、この神殿を新たに甦らせたいのです」
居合わせた人々の胸に、熱いものが広がった。
「街の長が……頭を下げたぞ……!」
「我らの手で教会を……!」
職人や漁師たちが口々に声を上げ、拳を握りしめる。
アンドレイ神官長は老いた長を立たせ、その手を強く握った。
「……あなたの言葉は、神に届いております。
ならば共に、この教会を立て直しましょう。神の恵みを、我らの誇りで受け止めるのです」
その言葉に、街の人々から歓声が湧き上がった。
涙ぐむ者、手を取り合う者、空へ祈りを捧げる者。
神殿と街が一つになった瞬間であった。
その光景を見守っていたレイナは、忍に囁いた。
「……すごいわね。街全体が……息を合わせている」
忍はにやりと笑い、母を見上げる。
「母様、これからは“神殿が街を動かす”時代になるんだよ」
※
街の長の言葉に応じ、ノヴォミ神殿の修理はその日のうちに始まった。
倉庫に積まれた資材が次々と運び出される。
木材を担ぐ者、石材を運ぶ者、縄を引く若者たち。
漁師が手を貸し、職人が工具を持ち寄り、子どもたちまでが水桶を運んだ。
「こっちは屋根板を外せ!」
「鐘楼の足場を組み直せ!」
職人頭が声を張り上げ、街の有志たちが一斉に動く。
古びた屋根板が外され、新しい木材が打ち付けられるたび、乾いた音が空へ響いた。
神官や見習いたちも祈りを捧げながら働き手を励ました。
「神はあなた方と共にあります!」
「その手が、神の家を甦らせるのです!」
励ましの声に、人々の背筋はさらに伸び、汗を流す額に笑みが広がる。
鐘楼では若者たちが並んで縄を引き、新しい梁を引き上げた。
「せーの!」
掛け声と共に梁がゆっくりと持ち上がり、組まれた足場の上に据えられる。
その瞬間、広場から歓声が上がった。
老いた長がそれを見上げ、深く頷く。
「……これで、我らの街は再び神に守られる」
レイナはその横でそっと囁いた。
「街が……生まれ変わっていくわ」
イリアスが静かに答える。
「ええ。医療も、技術も、そして信仰も。すべてが結び合っている」
忍は少し離れた場所で、修理に汗を流す人々を見つめていた。
子供の姿の彼の瞳に、前世で築いた師団の営みと重なるものがあった。
──仲間と共に力を合わせ、ひとつの未来を築く。
それは時を超えて、再びこの地で芽吹いていた。
※
夕刻。ノヴォミの街は、昼間とは違う静けさに包まれていた。
しかしそれは疲れの沈黙ではなく、満ち足りた安堵の静けさだった。
広場では診療を終えた医療馬車が並び、最後の患者を見送っていた。
処置を受けた人々は薬や包帯を手に、安堵の笑みを浮かべて帰っていく。
「これで子供を安心して眠らせられる」
「漁に出られる日が戻るぞ」
感謝の声が小さな灯火のようにあちこちで揺れていた。
浜辺に並ぶ修繕を終えた馬車たちも、誇らしげに佇んでいた。
歪んでいた車軸は真っ直ぐに、軋んでいた車輪は軽やかに回る。
「まるで新しい命を与えられたようだ……」
馬車を見上げる団員の言葉に、コーサは汗を拭いながら笑った。
「まだまだ走れるさ。俺たちの手でな」
そして教会。
新しい木材で組み直された屋根が夕陽を浴びて赤く輝いていた。
作業を終えた職人や若者たちが鐘楼を見上げ、胸を張る。
「俺たちの手で、神の家を守ったんだ」
その言葉に、老いた長は深く頷き、感極まったように祈りを捧げた。
レイナは広場の片隅で、その光景を見渡していた。
「……一日で、こんなにも街が変わるなんて」
彼女の声には驚きと感動が混じっていた。
忍が隣に立ち、にやりと笑う。
「母様。人は力を合わせれば、すぐに変われるんだ。
俺たちがそのきっかけを作っただけ」
レイナは目を細め、静かに頷いた。
イリアスとナセルは、夕暮れの鐘を聞きながら言葉を交わす。
「これが神殿ネットワークの始まりですね」
「はい。街も神殿も、共にあるべき姿を取り戻した」
──その日のノヴォミには、人々の心を結ぶ新しい風が吹いていた。
恐れに揺れた朝から一転、街は信頼と誇りに満ちた夕暮れを迎えていた。
それは、これから広がっていく神殿ネットワークの未来を予感させる光景でもあった。
※
神殿修理に汗を流した人々が、ようやく一息ついた夕刻。
沖に鎮座する巨大艦を見上げながら、忍がぽつりと呟いた。
「この街には……もう一つ必要なものがある」
振り返るレイナやアンドレイ神官長の目に、忍の小さな指が突き出す光景が映る。
それは──海へと突き出した、教会のある半島の先端。
「船から荷を運ぶのに、小舟だけじゃ効率が悪い。
だから……ここに桟橋を作ろう。大きな船が直接着けられるように」
人々は一瞬、耳を疑った。
桟橋──。
街の誰もが必要性を感じながらも、長年「不可能」と諦めてきた夢。
それを、子供の姿をした忍が、何のためらいもなく口にしたのだ。
静まり返る広場に、やがて旧師団の技術班員が無言で頷き、艦へ向けて合図を送った。
次の瞬間、沖の巨艦から小型艇が滑り出し、資材を満載して浜辺に近づいてきた。
巨大な丸太、鉄の枠材、浮力を確保するための樽や木箱──
見慣れぬ資材の山に、街の職人たちは息を呑んだ。
「……これを、桟橋に?」
「神が与えられた資材だ……!」
コーサが腕を組み、深く頷いた。
「さあ、やるぞ! 街の男衆はこっちへ! 道具を持ってこい!」
旧師団技術班が手際よく指示を出し、街の大工や漁師たちが動き出す。
浮力材となる樽を組み合わせ、上から木材を渡して固定。
縄で結び、鉄の金具で補強し、馬車三台が並んで通れる幅を確保する。
組み上がった桟橋は、まるで生き物のように波に揺れながらも、少しずつ沖へと延びていった。
「もっと縄を引け! ……よし、固定だ!」
「梁を渡せ! 子どもは下がってろ!」
街の人々の掛け声と笑い声が、夕暮れの浜辺に響く。
やがて日が暮れ、夜の灯火の中でも作業は続けられた。
松明が並び、煌めく火の帯が波打ち際を照らし出す。
「神のために! 街のために!」
老いた長も自ら縄を引き、若者たちは汗に濡れながら笑みを浮かべた。
そして翌朝──。
朝日に照らされた半島の先に、堂々と浮かぶ一本の桟橋が姿を現した。
木材の上を歩くと、しっかりとした感触が返ってくる。
馬車が三台並んで進めるほどの幅を持ち、先端は石組みで固められ、沖の大型船が横付けできる造りとなっていた。
「……できた……」
最初に言葉を漏らしたのは、汗だくの大工だった。
続いて歓声が浜辺を包む。
「神の桟橋だ!」「これで街は変わるぞ!」
アンドレイ神官長は目を潤ませながら、桜通信にそっと触れた。
耳の奥で、忍の小さな声が届く。
『これで、街も神殿も、もっと大きな船と繋がれるよ』
神官長は深く頷き、民に向けて両手を掲げた。
「この桟橋は、神が我らに授け給うた“未来への道”である!
ここから我らの街は、海と世界を結ぶ拠点となるのだ!」
歓声と祈りが渦巻くなか、ノヴォミの港町は新しい朝を迎えた。
──それは単なる木と鉄の橋ではなく、人々の心を繋ぐ「信仰と希望の橋」でもあった。
恐れに揺れた港町ノヴォミは、この日を境に姿を変えた。
人々は協力し合い、神殿を支え、街の未来を自らの手で築こうと動き始めた。
医療の奉仕、馬車の修理、教会の再建、そして新しい桟橋──
それらはすべて「神の加護」と「人々の努力」が結びついて生まれた成果である。
港町ノヴォミの心に芽生えた新しい絆は、これから広がっていく神殿ネットワークの確かな礎となっていくのだろう。




