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035. 湧き水の恵み、再び歩む道

滝の地を後にした移動団は、緩やかな山道を抜け、林の中で一夜を明かしながら南へ進む。

目指すは、古くから旅人を癒やしてきた湧き水の地。

木陰に佇む白い像と、絶え間なく湧き出る水──その恵みは、疲れた足と心を静かに包み込む。


 夜明け前の空気は、澄み切って冷たい。

 薄闇の向こうで、滝壺から立ち上る白い霧がゆるやかに揺れ、差し込み始めた朝日に虹を描いていた。

 水しぶきは光を抱き込み、宝石の粒のようにきらめく。


 レイナはその光景をしばし見つめ、深く息を吸い込んだ。冷たい水の匂いが胸いっぱいに広がる。

 後方では、団員たちが水筒や樽に滝の水を汲んでいる。流れ落ちる水は手をかざすだけで指先が痺れるほど冷たく、その透明さは底の小石まで鮮やかに見せていた。


 全体指揮官のイオスは、すでに馬列の先頭で手綱を握り、馬の鼻面を軽く撫でている。

 荷台のそばでは、技術者長のコーサが車輪の締め具を木槌で叩き、その音の響きで状態を確かめていた。

 ほかの従者や護衛たちは、防水布や縄の具合を調えながら、それぞれに出立の準備を進めている。


 やがて、滝壺に差し込む光が増し、森の奥の影が薄らいでいく。

 イオスが短く手を上げ、低い声で合図を送った。馬たちの鼻息が白く上がり、車輪が湿った土を踏みしめる。


 滝の轟きが背後へ遠ざかるにつれ、代わりに森のざわめきが鮮明になってきた。枝を渡る鳥の声、葉のこすれる音、遠くで水流が岩に当たる響き。

 やがて小道は緩やかに傾斜を下り、木々の合間から陽光が差し込む。


 最後の枝葉を抜けた瞬間、視界がぱっと開けた。

 眼下には、朝日を受けて黄金色に輝く山裾の道が伸び、その向こうにかすかに黒海の青がのぞいている。

 誰ひとり声を上げず、ただその光景と、新たな一歩の感触を胸に刻みながら──移動団は南への旅路を踏み出した。



 朝日が山裾を照らし始めるころ、道はゆるやかに登っては下り、また登りへと続いていった。

 木立の合間から差し込む光が、馬車の幌や荷に揺れる影を描く。


 車輪が川原の石を弾くたび、乾いた音が山肌に反響する。御者台の老人は、耳を澄ましながら手綱を少し緩め、馬の歩幅を調整した。

 その後ろで、まだ年若い少年従者が水袋を抱え、揺れる馬車の揺れに合わせて身体を動かしている。時折、馬の背を撫で、短く労わる声をかけていた。


 道が崖沿いに差しかかると、風がひときわ強くなる。

 下をのぞけば、遠くの黒海が青く光り、陽を受けてきらきらと波を返していた。

 荷台に乗っていた女従者のひとりが、思わず口元を押さえ、小さな声で「海……」とつぶやく。彼女にとって、それは初めて目にする果ての景色だった。


 道端には、淡い黄色の小花や、葉先の細い薬草が群れていた。

 薬草に詳しい中年の男が馬車を止め、手際よく数株を摘み取る。その横で、年端もいかない少女が見よう見まねで花を摘み、腰の袋に大事そうに収めた。

「乾かせば咳に効くんだ」

 男が教えると、少女は目を丸くしてうなずき、袋をぎゅっと握りしめた。


 午後に差し掛かるころ、道の脇に崩れかけた石垣が現れた。

 苔に覆われ、半ば土に埋もれた井戸跡。屋根の抜けた廃屋。

 年寄りの従者が足を止め、遠い記憶を探るようにじっとそれらを見つめた。

「昔は人が住んでいたんだろうな……」

 彼の呟きは、風に紛れてすぐに消えたが、その場にいた者たちの胸に、ひそやかな重みを残した。


 再び車輪が動き出す。登り坂のたびに息を吐き、下り坂では慎重に手綱を引く。

 日が西に傾き始めても、山道の先はまだ続いていた。



 夕暮れとともに、林の奥へ馬車を進めた。

 木立が風を遮り、柔らかな落ち葉が足元を覆っている。ここなら焚き火の煙も目立たず、夜風も和らぐだろう。


 団員たちは手際よく動き始めた。

 若い男が腕ほどの太さの枝を集め、乾いた音を立てて束ねる。

 年配の女従者は焚き付けに使う細い枯れ枝を拾い、腰の袋に詰め込んだ。

 やがて火打ち石が火花を散らし、薄暗がりの中に橙色の揺らめきが生まれる。


 簡易テントの骨組みを立てる者、馬をつなぐ柵を組む者。

 年少の従者は餌袋を抱えて馬の鼻先へ差し出し、鼻を鳴らした馬の額をそっと撫でた。

「今日はよく頑張ったな」

 その声は、焚き火のはぜる音に紛れて消えたが、馬は嬉しそうに耳を動かした。


 食事は質素だった。干し肉を薄く切り、硬く乾いたパンを野草茶で流し込む。

 茶は昼間摘んだ葉を煮出したものだ。ほのかに香る苦みが、旅の疲れを落ち着かせる。

 若い娘が湯を分けながら「もう少し煮た方がよかったかな」と笑うと、向かいの老人が「これくらいがちょうどいい」と肩を揺らした。


 焚き火の光は顔を半分だけ照らし、もう半分を闇に沈める。

 そこに浮かぶのは、黙々と糸を紡ぐ女の姿や、膝を抱えて火を見つめる少年の影。

 遠くから夜の虫の声が絶え間なく響き、時折フクロウが低く鳴いた。


 やがて夜警の交代が始まる。

 槍を手にした男が火の外側をゆっくりと巡回し、林の奥に目を凝らす。

 火の近くでは、数人が肩を寄せ合い、声を潜めて話していた。

「明日は、もっと険しい道かもしれないな」

「それでも、水があるって聞いた」

 会話はすぐに切れ、火の爆ぜる音と馬の鼻息が、それに取って代わった。


 林の奥では、星のない夜が静かに広がっていた。

 火に照らされた小さな輪の中だけが、確かな温もりを保ち続けていた。



 林の小道を抜けた瞬間、視界にひらけた白が差し込んだ。

 木陰の向こう、石の台座に立つ女性像が柔らかな陽を受けて輝いている。その足元からは澄んだ水がこんこんと湧き出し、小さな流れを作っていた。

 せせらぎの音が、旅の足音を吸い込み、心地よく耳に届く。


 全体指揮官のイオスが手を上げ、短く合図を送る。

「休息だ。まずは馬と人、水を優先しろ」

 その声に従い、団員たちは次々と湧き水へと歩み寄った。


 若い従者がしゃがみこみ、両手を水に沈める。瞬間、息をのむほどの冷たさに指先が震えた。

 それでも手をすくい上げ、喉に流し込むと、まるで身体の奥まで清められるような感覚が走る。

 年配の女従者は額に水を当て、ふうと長く息をついた。


 馬たちは柵の向こうで一斉に首を伸ばし、水面に口をつける。水をすする音と、鼻から抜ける息が重なり、場の空気をさらに満たしていく。

 地面はしっとりと湿り、足裏から冷気が伝わった。土の匂いに混じって、清水特有の澄んだ香りが鼻を抜ける。


 そこへ、荷を背負った地元の老人が二人、ゆっくりと近づいてきた。

 レイナが迎え、短く礼を述べる。傍らのナセルが、穏やかな声でこの土地の無事を祈る祝詞を口にした。

 老人たちは湧き水の由来や、この道を通る旅人の話を語り、時おり笑いを含ませながら、近くの村の様子を教えてくれた。


 やがて別の道から、数人の商人が駄獣を連れて現れた。

 ユーリが足早に近づき、声を掛けて立ち話を始める。

 荷を開けば、干し果実、布地、香草、陶器──見慣れぬ品々が並ぶ。

 近くにいた子供たちや女団員は、その鮮やかな色や香りに目を輝かせ、商人の説明に耳を傾けた。

「これは港町から運ばれたんだ」「触ってもいいの?」

 小さなやりとりに、場の空気が賑やかに温まっていく。


 湧き水のせせらぎと人々の声が重なり、この小さな広場は一瞬だけ、市場のような活気を帯びた。

 だが、その奥底には、旅人同士のわずかな共感と、道を繋ぐ水の恵みへの感謝が、静かに息づいていた。



 湧き水のそばで過ごす最初の朝は、まるで身体の芯からほどけていくようだった。

 若い従者は靴を脱ぎ、足を水に浸す。ひやりとした感触に肩をすくめたが、すぐに頬が緩む。

 年配の護衛は腕まくりをして水を汲み、額や首筋に流した。疲れが水に吸い取られるようで、思わず深く息を吐く。


 馬たちは柵の中で草をはみ、耳を揺らしている。

 御者の一人は馬具を外して革のひび割れを点検し、別の者は車輪の金具を外して油を差す。コーサはその様子を見回り、必要な工具や木材を手際よく指示して渡していた。


 昼には、衛生的な水を惜しみなく使った料理が並んだ。

 鉄鍋で煮込んだ麦粥は湯気とともに香ばしい匂いを放ち、野草と干し肉のスープは腹の底から温めてくれる。

 「こんなに透き通った湯で作るなんて、贅沢だな」

 スプーンを口に運んだ年寄りの団員が、目を細めて呟いた。


 午後になると、近くに住む老人が一人、湧き水の伝説を語りにやって来た。

 昔、この地を通った若き娘が、戦で負った男の傷をこの水で癒やした──そんな話を、木陰に集まった団員たちは静かに聞き入った。

 話の合間、レイナは礼を述べ、ナセルが祝詞を唱えて水への感謝を示した。


 滞在二日目には、小さな交易も始まった。

 地元の漁師が持ってきた干し魚を、こちらの塩や布切れと交換する。蜂蜜を運んできた商人には、革の小袋や針金を差し出す。

 その場にいた女団員は蜂蜜の甘い香りに目を輝かせ、そっと指先で味見をした。そばにいた子供たちも笑顔を隠せない。


 湧き水の恩恵は生活を一変させた。

 団員たちは順番に衣服を洗い、石の上に広げて乾かす。髪や体を洗う者もいて、笑い声が水音に混じる。

 夕方、焚き火のそばでは干し草の香りと湯気が漂い、日中の作業で火照った顔が柔らかく照らされていた。


 夜になると、空一面の星が広がった。

 遠くで虫の声が絶え間なく響き、すぐそばでは水が石を撫でる音が静かに続いている。

 火を囲んだ者たちは、言葉を交わすでもなく、ただその音と光に包まれたまま、穏やかな夜を味わった。

 この二泊は、移動団にとって束の間の休息であり、次の道への力を蓄える時間となった。



 朝の光が湧き水を白銀色に輝かせていた。

 団員たちは手早く動き、樽や水筒を満たしていく。水面に映る空の色は深く澄み、指先を沈めれば、あの冷たさが即座に掌を締め付ける。

 若い従者は、水袋を肩に掛けながら深く息を吸い込み、その冷気を胸に刻み込んだ。


 像の前では、何人かが軽く頭を垂れていた。

 両手を胸に当て、黙って祈る者。腰の袋から木片を取り出し、ナイフで素早く像の輪郭を刻む者。

 写し取るための紙や絵具はないが、小さな木彫りは、彼らにとって旅の記憶の一片となるだろう。


 馬たちはすでに十分に休養を取り、毛並みはつややかに光っていた。

 鼻を鳴らし、首を振る音があちこちで響く。若い女団員が手綱を握り、馬の額を撫でると、馬は短く嘶いて応えた。


 全体指揮官のイオスが馬列の先頭に立ち、軽く手を挙げる。

「行くぞ」

 その一言で、静かだった場がゆっくりと動き始めた。


 進行方向には、これまでとは違う景色が広がっている。

 やや傾斜のある道が陽を受け、遠くの山並みへと続いていた。青く霞む稜線が、次の行く先をぼんやりと指し示すように見える。


 後方を歩いていた老従者は、一度だけ振り返った。

 木陰に隠れる白い像と、そこから流れ出す細い水の筋が、朝日に照らされて静かに輝いている。

 疲れきってここへたどり着いた二日前の自分を思い出し、その違いに口の端がわずかに上がった。


 荷台の横を歩く青年も、胸の奥で何かが軽くなるのを感じていた。

 足取りは確かに重いはずなのに、不思議と前へ出る力が湧いてくる。

 それは、湧き水の冷たさと、この場所で交わした小さな言葉たちが、背中を押してくれているような感覚だった。


 やがて林を抜け、道は緩やかな下りに変わる。

 車輪のきしみと蹄の音が新しい朝に溶け込み、移動団は再び南へと歩みを進めた。

険しい山道の先にあったのは、想像以上に清らかな水と、人々の温かな交流でした。

湧き水は、ただの飲み水ではなく、旅人たちにとって「立ち止まり、息を整える」ための拠点でもあります。

この地で得た力と出会いが、これからの道にどんな影響を与えるのか──。

次の一歩は、さらに遠く、そして新しい景色へと続きます。

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