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034. 滝のほとり・癒しと試練の日々

山裾を越え、たどり着いたのは水音が絶え間なく響く滝のほとり。

長旅に疲れ切った人々を包み込むように、清らかな流れと澄んだ空気がそこにあった。

温かな食事、焚き火のぬくもり、互いの手の温度──。

癒しに満ちた日々の中にも、天からの試練は容赦なく訪れる。

それでも、人は支え合いながら立ち上がり、また次の一歩を踏み出していく。


※滝の第1日・到着と沈む身体


 森を抜けた瞬間、胸いっぱいにひんやりとした空気が流れ込んできた。

 視界の奥で、白い糸が幾重にも垂れ落ちている。轟きは低く、深く、腹の底にまで響く。

 それは滝の音だった。


 「……着いた」

 誰かがそう呟くと、それは列の最後まで伝わり、疲れ切った人々の足取りが自然と緩んだ。


 馬車は最後の力を振り絞るように、石と土の混ざった平坦地へと転がり込む。

 護衛たちが手綱を引き、車輪を止めた瞬間、馬たちは大きく鼻を鳴らした。


 水しぶきが微細な霧となって、頬に触れる。

 それは汗に火照った肌をやさしく冷やし、喉の渇きすら一瞬忘れさせた。


 レイナは、滝の前に立ったまま動けなかった。

 耳を塞ぎたくなるほどの轟音なのに、不思議と心は静まり返っていく。

 ここまで歩き続けた十数日の道のりが、すべて水音に溶けていくようだった。


 「……みんな、今は休みなさい」

 その声が届くや否や、誰もがその場に腰を下ろし、土の感触を背に横たわった。

 食事も、片付けも、後でいい。ただ眠ること。それだけが望みだった。


 医療班は最低限の毛布を配り、子どもから順に覆っていく。

 泣き声はない。疲労は泣く力すら奪っていた。

 それでも、滝の一定のリズムは、不思議と安心をくれた。


 やがて夜が降りてくる。

 雲の切れ間から月が顔を出し、滝の流れが白銀に染まる。

 その景色は、夢と現の境目をたゆたうような美しさだった。


 見張りの交代番を務める若い護衛が、岩陰からその光景を見上げていた。

 背後では、仲間たちの寝息が重なり合い、あたたかなひとつの音の塊になっている。


 「……生きて着けたな」

 誰に聞かせるでもなく、その言葉が水音に溶けて消えていった。


※滝の第2日・身体と心をほぐす日


 朝――。

 滝の轟きは、夜よりも柔らかく耳に届いた。

 昨日、ほとんど崩れるように眠り込んだ人々は、まだ毛布にくるまりながら、ゆっくりと意識を水面に浮かせるように目を開けていく。


 朝の空気は冷たいが、どこか清々しい。

 濡れた草の匂いと、ほんのり甘い花の香りが混じって、胸いっぱいに吸い込みたくなる。

 焚き火の跡からは、夜番が絶やさずに保った小さな火が、まだ赤くくすぶっていた。


 「おはようございます、レイナ様」

 ナセルが湯気の立つ木の椀を差し出す。

 中には温かいハーブ茶。香りはやさしく、ひと口飲むと冷えた喉と胸がゆっくりほどけていく。


 午前は医療班の動きが早かった。

 焚き火で沸かした湯を桶に分け、川の水で温度を調整しながら手足を浸す。

 最初は「くすぐったい」と笑っていた子どもたちも、すぐに目を細めてうっとりと座り込み、血色の戻る頬を見せる。


 老人たちは足湯を終えると、そのまま毛布にくるまれ、木陰でうたた寝をはじめた。

 その横顔は、旅の最中とは思えないほど穏やかだった。


 昼近くになると、若者たちが川へ下りていった。

 滝つぼから続く浅瀬で、小魚が群れている。

 手際よく網を広げ、数人が水をかき回し、驚いた魚が網へと飛び込むたびに歓声が上がる。


 「見て! こんな大きい!」

 少年が両手で持ち上げた魚は、まだ水滴を弾き、光の粒をまき散らしていた。


 料理班が受け取ると、すぐさま捌き、野菜と一緒に大鍋へ。

 ハーブの香りと煮立つ出汁の匂いが漂い始めると、自然と人々が集まってくる。

 食欲をそそる湯気に、空腹が一斉に思い出された。


 「いただきます!」

 誰かの声をきっかけに、笑いと共に木の匙が動き出す。

 汁は滋養たっぷりで、身体の芯まで温まる。食べ終えると、全員の頬がほんのり赤くなっていた。


 午後、レイナは滝の近くに腰を下ろしていた。

 ナセルが隣に座り、流れる水を見つめながら言う。

 「ここまで、よく持ちこたえてきましたね」


 「ええ。でも……まだ“途中”よ」

 レイナの声は柔らかく、それでいて芯があった。

 「みんなの顔を見てるとね、進んできた距離よりも、ここで得られる“息”の方が大事に思えてくるの」


 ナセルは頷き、手のひらに流れる水をすくい上げた。

 それはすぐ指の隙間から零れ落ちたが、その一瞬の冷たさが、確かに目を覚まさせた。


 夕暮れが近づくと、焚き火が再び大きく燃やされ、魚と野菜を炙る匂いが広がる。

 子どもたちは焚き火の周りで歌い、護衛たちはその輪を守るように腰を下ろす。


 夜――。

 月明かりが滝を銀色に染め、白い霧が足元を流れる。

 見張りの番は交代で続けられたが、空気はどこか柔らかかった。

 水音と火の音に包まれ、人々は静かにまぶたを閉じていった。


※滝の第3日・身体をほどく日


 この日も滝は変わらず流れ続けていたが、人々の心の様子は昨日とは違っていた。

 身体の強張りが取れ、表情に柔らかさが戻っている。


 午前、子どもたちは水辺で遊び始めた。

 小石を積み上げては崩し、水しぶきを上げながら互いに笑い声を上げる。護衛の若者も加わり、石跳ねを競っていた。


 レイナは木陰でその様子を眺めながら、ユーリと小さく言葉を交わす。

 「こうやって笑ってると、旅の中だって忘れちゃう」

 「忘れられる時間があるから、また進めるんだ」


 昼食のあとは、自然と輪ができた。

 年寄りが昔話を語り、若者が歌を口ずさむ。誰かが持ってきた楽器が鳴り、子どもたちがそれに合わせて踊った。

 ナセルは少し離れた岩に腰を下ろし、静かにその光景を見守っていた。


 夕刻、滝のそばに座ったレイナは、心の奥がふっと軽くなるのを感じていた。

 あの日々の緊張や焦りが、滝の水に溶けて流れていくようだった。

 「……みんなの心も、少しはほどけたかしら」


 ナセルが傍らに立ち、穏やかな声で答える。

 「この時間は、そういうためにあるんです」


 日が落ち、焚き火の周りでは笑い声が続いていた。

 それは昨日までとは違う、心の底からの笑い声だった。

 滝の音が、その輪をやさしく包み込んでいた。


 ――そのときだった。

 遠く、山の向こうで低くくぐもった雷鳴が響いた。

 笑い声が一瞬だけ途切れ、誰かが夜空を見上げる。


 雲はまだ遠い。けれど、風の匂いがわずかに変わっていた。

 湿り気を帯び、冷たく、どこか重い。


 見張り番の護衛が、滝の影から戻ってきて呟いた。

 「明日は……降るかもしれませんね」


 焚き火の灯りが揺れ、滝の水面が月明かりをぼんやりと返す。

 その光景は穏やかでありながら、明日の試練を静かに告げていた。


※第4日:天の試練


 夜半過ぎ、最初の雨粒が天幕を叩いた。

 ぽつ、ぽつ……と間を置いて落ちていた音は、やがて連なる簾のように強まり、滝の水音さえ呑み込んでしまう。


 明け方、まだ空は夜の黒と朝の灰の境目だった。

 見張り番の護衛が天幕の端から顔を出し、濡れた髪を振って低く呟く。

 「降り出しました……本格的です」


 レイナは肩を覆う外套を整え、周囲を見渡した。

 子どもたちはまだ眠っているが、冷えが強まればすぐに起こす必要がある。

 焚き火は覆いをかけて辛うじて息をしており、料理班は湯を沸かそうと必死に薪を組み直していた。


 午前中は、各班とも予定を切り替えて作業にあたった。

 医療班は冷え対策を最優先にし、濡れた衣を取り替える。

 技術班は馬車の幌や車輪の防水を点検し、ぬかるみへの備えを進める。

 護衛は周囲の巡回を増やし、増水や地盤の緩みに目を光らせた。


 昼近く、滝つぼの水量が目に見えて増え始めた。

 川沿いの石が次々と水に呑まれ、流れが白く泡立っていく。

 「まだ滝つぼまでは距離がある。けど、念のため……」と、イオスが護衛を集め、避難経路の確認を始めた。


 午後、雨脚はさらに強くなり、視界は白く煙る。

 水音が地面から湧き上がるようで、足元の感覚すら薄れてくる。

 レイナは天幕の中で、子どもたちの手を握りながら声をかけ続けた。

 「大丈夫よ。ここにはみんながいるから」


 夕刻には、雷鳴が近づき、空が一瞬だけ白く裂けた。

 その光に照らされて、滝つぼの水面がうねりを上げているのが見えた。

 イオスが即座に判断を下す。

 「これ以上は危険だ。夜の増水を考えると、明朝には避難だ」


 濡れた空気の中、護衛たちは無言で頷き、避難準備を整えていく。

 人々の顔には不安があったが、それ以上に「備えなければ」という固い決意があった。


 その夜、滝の轟音は眠る者たちの胸に重く響き続けた。

 水は、命を支える恵みでありながら、試練をもたらす存在でもある――そのことを、全員が肌で感じていた。


※第5日・増水と避難

 夜明け前、闇の底で耳を澄ませると、滝の音はもはや轟きではなく、地面そのものが唸るような振動になっていた。

 天幕の中で眠っていた者も、浅い眠りを断ち切られるように目を開ける。

 水の匂いが、空気を重くしていた。


 「起きろ、避難だ!」

 イオスの声が低く、しかし鋭く響く。


 焚き火の火種はすでに消えていた。

 護衛と若者たちが素早く天幕を畳み、荷を馬車へ運び込む。

 医療班は、体調の悪い者や子どもたちを先に幌の中へ誘導する。

 馬の鼻息が白く荒く、彼らもただならぬ空気を感じ取っている。


 滝つぼから続く川は、昨夜よりもさらに膨れ上がっていた。

 水面は茶色く濁り、流木や岩を巻き込んで怒涛のように渦を巻く。

 岸辺に立っていた石の一部が、見る間に流されていった。


 「時間がない。下流はすでに溢れている!」

 偵察から戻った護衛の声に、隊列はすぐさま動き出す。


 ロープを繋ぎ、馬車と徒歩組を一列にまとめる。

 滑りやすい斜面には板を渡し、先に進む者が後ろの者を引き上げる。

 雨はまだ止まず、衣服の重みが足を鈍らせた。


 「あと少し、尾根道に上がれば安全圏です!」

 コーサの声が背中を押す。


 尾根へと続く最後の坂道で、ひとりの少年が足を取られ、泥の中に膝をついた。

 即座にレイナが駆け寄り、彼の手を強く握る。

 「立って! 今は前だけ見て!」

 震える脚に力を込め、少年は必死に一歩を踏み出した。


 ようやく尾根にたどり着いた時、全員の靴は泥で重く、息は荒かった。

 振り返れば、さっきまでいた河原は濁流の底に沈み、白い飛沫が枝葉の高さまで上がっている。


 しばらくの間、誰も言葉を発しなかった。

 ただ、肩で息をしながら、その光景を見つめていた。


 「……全員、無事だな」

 イオスの確認に、護衛たちが順に頷く。


 尾根の小高い平地に、臨時の野営地を設けた。

 濡れた衣を絞り、焚き火を囲みながら、ようやく胸の奥から長い息が漏れる。

 湯気の立つ汁物が回され、冷えた身体にじわりと温もりが広がった。


 レイナは火の明かりに照らされる人々を見渡し、そっと呟く。

 「……この旅は、ほんとうに“生きる”旅ね」


 その言葉に、隣のナセルが静かに応える。

 「だからこそ、誰も欠けさせるわけにはいかない」


 外ではまだ、滝の音が遠くから響き続けていた。

 それはもはや恐怖の音ではなく、「越えた」という証のように、人々の胸に刻まれていった。


※第6日:出発準備の日


 夜明けの光が、尾根の上に薄く差し込み始めた。

 昨日の濁流が嘘のように、空は晴れ渡り、遠くの山々の稜線がくっきりと浮かび上がっている。

 空気はまだ冷たいが、胸の奥に染みていた緊張は少しずつ解けていった。


 「今日でここともお別れか……」

 護衛のひとりが、滝の方角を振り返って呟いた。

 水音はなおも力強く響いているが、その姿は木々の間に隠れて見えない。


 朝の食事は、昨夜の残りの汁物に根菜と干し肉を加えたものだった。

 湯気が立ち上る鍋を囲み、人々は言葉少なに箸を動かす。

 無事にここにいられることへの感謝と、次の道程への覚悟が、静かな空気の中にあった。


 食後、技術班が馬車の周囲に集まる。

 コーサが点検用の道具箱を開き、軸受けや車輪の泥を丁寧に落としていく。

 「昨日の坂で負担がかかったな。金具の締め直しと、後部の板の補強が必要だ」

 若者たちがすぐに動き、木材や布を持ち寄って作業を進める。


 一方、護衛班は周囲の安全確認へ。

 「この先の道は、崩落の心配は少ないが、獣道がいくつも交差している」

 偵察から戻った護衛の報告に、イオスは頷き、護衛配置を改めて指示する。


 その合間を縫って、子どもたちは数人の護衛と一緒に森の中へ。

 木の実や山菜を採り、食べられるキノコを籠に入れて帰ってくる。

 「見て! これ、甘い匂いがするの!」

 嬉しそうに差し出した実を、料理班が慎重に確認して笑顔で受け取った。


 昼過ぎには、馬車の整備がほぼ完了した。

 幌の縫い目も新しく補強され、泥を落とした車輪は光を反射している。

 「これなら、しばらくは問題ない」

 コーサの言葉に、周囲から安堵の吐息が漏れた。


 夕刻、出発前の最後の食事が始まる。

 焚き火のそばで煮込まれた魚と野菜のスープから、香ばしい匂いが漂う。

 「また来たいな、あの滝……」

 子どもたちの言葉に、大人たちも静かに頷いた。

 危険もあったが、この場所は確かに人々の記憶に刻まれたのだ。


 日が沈む頃、レイナは滝の方向へ一人立った。

 水音はもう遠いが、その響きは耳の奥に残っている。

 「……ありがとう」

 小さな呟きが風に乗り、山の向こうへ消えていった。


 こうして、移動団は再び旅路へ向けて準備を整えた。

 次の朝、彼らはまた一歩、南へと歩みを進めるだろう――。

滝で過ごした6日間は、移動団にとって忘れがたい時間となった。

穏やかな安息と、自然の脅威、そして乗り越えた後の確かな絆。

この場所で交わした言葉や視線は、旅の先々で彼らを支える力となるだろう。

そして、滝の水音は、もう聞こえなくなっても、心の奥で静かに響き続ける。


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