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033. 森を抜け、滝の水音に抱かれて

森と川沿いの道を抜け、護衛や技術班の助けを借りながら進んだ移動団は、やがて轟く滝の音に導かれ、清らかな水と緑に囲まれた休息地へと辿り着く。

この場所は一時の拠点であり、身体と心を癒やすための贈り物のような土地だった。

険しい旅路の先に待つ、この安堵の時間──その始まりを描く。


 朝の光が、まだ眠たげな海面に反射していた。

 ゲレンジークの入り江は、青と銀のまだら模様を織り交ぜながら、静かに背後へと遠ざかっていく。


 潮の香りが、かすかに薄まってきたのに気づいたのは、レイナだった。

 つい先ほどまで、馬車の幌にも、衣の端にも染み込んでいた海風の匂いが、ふっと軽くなっている。

 代わりに、乾いた草の匂いと、遠くの森が放つ湿った土の香りが、風の中に混ざり始めていた。


 「……海が、小さくなってく」

 列の中央あたりで、ひとりの少年が立ち止まり、振り返った。

 背伸びをして、馬車の間から海をのぞくその目は、少し寂しげで、けれど誇らしさも混じっている。


 「本当だ……あんなに広かったのに」

 隣の少女も同じように振り返り、両手で目をかざした。

 「向こう側まで歩けたらいいのに」

 「そしたら、この旅いらないじゃないか」

 小さな笑い声が、隊列の中でぽつぽつと広がった。


 護衛のひとりが、その子どもたちを横目で見やり、何も言わずに口元だけを緩める。

 彼らの背後に広がる海は、すでに山裾の影に隠れ、陽光を受けて揺れる青の帯となっていた。

 それはまるで、遠くからでも自分たちを見送ってくれているようだった。


 レイナは歩きながら、そっと振り返った。

 幌の間から見える海は、確かに小さくなっていた。

 だが、それは消えていくのではなく、心の中に仕舞われていくような感覚だった。

 この数日の潮の香りや波の音、そして夜の水平線に浮かんだ星々が、静かに胸の奥に沈んでいく。


 「レイナ様」

 イオスが低く呼びかけた。

 「これから山裾です。道は細くなりますが、見晴らしはいいはずです」

 「ええ……皆、きっと新しい景色に出会えるわね」


 背後では、まだ子どもたちが海に手を振っていた。

 その様子を、年配の女性が柔らかく目を細めて見守っている。

 旅は続く。

 海の青が見えなくなる代わりに、森の緑と土の温もりが、確かに前方から近づいてきていた。



 山裾の道は、やがて細く、柔らかく曲がりながら川沿いへと下っていった。

 小川は、透き通る水を絶え間なく流し、石の間で細かな泡をつくっては消している。

 そのせせらぎは、海の波音とは違う、軽やかで澄んだ響きをもって隊列を迎えていた。


 「ここで一度、休憩しましょう」

 イオスの声に、護衛たちが頷き、列を止めた。

 馬たちは鼻を鳴らし、すぐさま川辺へと足を向ける。

 蹄が砂と小石を踏みしめる音が、ぱらぱらと乾いた響きを残した。


 レイナは幌から降り、小川に近づいた。

 手を浸すと、水は驚くほど冷たく、指先を通して腕の奥までひやりとした感覚が走る。

 その冷たさは、長い道中で火照った身体をすっと落ち着かせるようだった。


 医療班のひとりが、竹筒を手に水を汲み、光に透かして色を確認する。

 「濁りなし。匂いもない……飲用に適します」

 短く告げると、隊の中に安堵の空気が広がった。

 小さな子どもたちが、ひしゃくに受けた水を両手で支えながら口に運び、その冷たさに顔をほころばせる。


 川岸では、技術班の者が腰を下ろし、草むらをかき分けて何かを探していた。

 「セリだな、香りが強い。煮込みに入れられる」

 彼の隣では、医療班の若者が紫色の小花を持ち上げる。

 「これは鎮痛の煎じ薬になる。乾かして袋に詰めましょう」


 少し離れた場所では、馬の背を撫でながら給水を見守る若者の姿があった。

 馬が水面に口をつけるたび、波紋が幾重にも広がり、その上を木漏れ日がきらきらと跳ねる。

 空気は清々しく、森の匂いと水の冷たさが、旅の疲れをほんの少し溶かしていく。


 「……ここで野営したいくらいだ」

 誰かがそう呟くと、周囲から小さな笑いが漏れた。

 しかし休息は長くはとれない。

 再び川沿いの細道を進まねば、日暮れまでに次の野営地へ辿り着けないのだ。


 水を汲み終えた医療班が、川岸に視線を落としたまま小声で言った。

 「この辺りは、動物も人も水を求めて集まる場所……今夜は近くに野営しない方がいい」

 レイナは頷き、全員に出発の合図を送った。

 清らかな川の音を背に、隊は再び山裾の道へと歩を進める。



 川沿いの道を離れると、木々の影が急に深くなった。

 日が傾き始め、陽の光は細く長く、斜めから差し込んでいる。

 その光が枝葉の間で細かく砕け、地面には無数の斑模様が揺れていた。


 森の入口は、ただ木が密集しているだけではない。

 入り口を覆うように傾いた大木が、まるで巨大な門柱のようにそびえ、枝葉が天蓋のように頭上を覆っている。

 その奥は淡い緑と濃い影が入り混じり、先が見通せない。

 風が吹くと、落ち葉のざわめきの中に、どこか湿った匂いが混じって漂ってきた。


 「護衛班、前方確認」

 イオスの低い声に、先頭の護衛二人が頷き、剣の柄に手を添えながら足を進める。

 ひとりは地面に視線を落とし、土の表面を丁寧になぞるように歩いた。

 「……鹿の足跡が新しいな。ここ二、三日以内か」

 もうひとりは顔を上げ、倒木や折れた枝を確認する。

 「この先、道を塞ぐ倒木あり。迂回は可能だが、車輪が通れるかは微妙だ」


 その報告を聞き、レイナは幌馬車の列を止めた。

 周囲の空気が少し張り詰め、誰もが耳を澄ませる。

 鳥の声は途切れ途切れで、奥からは小さな水音と、何かが枝を踏みしめるかすかな音が届く。


 「この時間から森に入るのは避けたいな……」

 護衛班長がぼそりと呟く。

 日が落ちれば、この鬱蒼とした森は完全な闇に包まれるだろう。

 闇の中での移動は、護衛にとっても荷馬車にとっても危険が増す。


 「野営候補地を探そう」

 イオスの提案に、護衛と技術班が周囲を散開し、足早に調べ始めた。

 道から少し外れた場所には、小川から分岐した細い水脈があり、そのそばに比較的平坦な開けた土地が見つかった。

 背後を大木が囲み、風よけにもなる。見晴らしは悪いが、焚き火の煙を隠すには都合がよい。


 「ここなら馬車を半円に並べられる」

 技術班がうなずき、早速地面の石をどけ、火を起こすための枝を集め始めた。

 子どもたちは森の匂いに少し怯えながらも、年長者に付き添われて焚き火の周りへと集まる。


 森の入口は、すぐそこに口を開けている。

 しかし今夜は、その奥へ踏み込むことはない。

 夕暮れの光が消えるまでのわずかな時間、移動団はこの森の前で、慎重に夜を迎える準備を進めていた。



 森の入口から少し離れた尾根の下に、木立に囲まれた平地が広がっていた。

 夕暮れの光はすでに薄く、木々の間に差し込む橙色の筋が、地面に長い影を落としている。

 ここなら風も弱く、頭上の枝葉が夜露や小雨をある程度は防いでくれるだろう。


 「ここを今夜の野営地にする」

 イオスの声が響くと、すぐに動きが始まった。

 技術班は馬車を半円形に配置し、外側には幌を延長して簡易の雨避けを作る。

 地面の湿り気を避けるために、乾いた枝葉を敷き詰める者もいる。

 護衛班は周囲に松明を配置し、夜間の見張り交代表を短く読み上げた。


 レイナは、中央に設けられた焚き火の場所で、薪を組み上げる手伝いをしていた。

 着火の瞬間、ぱちぱちと音を立てながら炎が立ち上り、冷えた空気を押し返すように温もりが広がっていく。

 炎に照らされた仲間たちの顔は、昼間の緊張が少しほどけ、やわらかい表情を取り戻していた。


 その脇で、子どもたちが昼間の川沿いで拾った木の実を袋から取り出していた。

 「これ、食べられるの?」と小さな手に握られた実を見せると、医療班の年配の女性が頷く。

 「煮れば甘くなるよ。焚き火の端で温めてみな」

 子どもたちは嬉しそうに火のそばへ駆け寄り、竹串に刺した木の実をゆっくりと回し始めた。

 やがて、香ばしい匂いが焚き火の煙と混ざって漂い出す。


 「おいしそうな匂いだな」

 護衛の若者が笑いながら覗き込み、子どもたちから一粒分けてもらう。

 「熱っ……でも甘い!」と驚く声に、周囲から笑い声が上がった。

 その輪の外では、見張りにつく者が槍を手に立ち、暗くなる森の奥をじっと見据えている。

 交代の時間になると、静かに肩を叩き合い、声を潜めて持ち場を引き継いでいった。


 夜が深まるにつれて、焚き火の炎は赤々と燃え続け、時折火の粉が夜空に舞い上がった。

 木立の向こうには月がのぼり、葉の隙間から銀色の光が差し込む。

 その光は、遠い海を背にした彼らの新しい一歩を、静かに見守っているかのようだった。



 朝の森は、湿った土と青葉の匂いで満ちていた。

 前夜の野営地を出発してしばらく、隊列は木々の間を縫うように進んでいたが、ふいに先頭を行く護衛が足を止めた。

 「……聞こえるか?」

 耳を澄ませた瞬間、遠くから低く、途切れることのない響きが届いてきた。

 ざぁ……ざぁ……と、大地の奥から鳴っているような重みのある音。


 「水の音だ!」

 子どもたちが、まるで競争するかのように周囲を見回し、森の奥へと耳を向ける。

 その顔には、これまでの険しい道で見せていた緊張がほどけ、期待がにじんでいた。

 「あっちの方から大きい音がする!」

 「きっと滝だよ!」

 そのやり取りに、大人たちの口元も自然と緩む。


 進むにつれて、水音は次第に大きく、そして鮮やかになっていった。

 音に混ざって、肌にかすかな湿気が触れる。

 空気はひんやりとし、どこか甘い草の香りを帯びている。

 鳥の鳴き声が遠のき、代わりに滝の響きが森全体を満たしていく。


 やがて、道は緩やかに登り、木々の間に光が差し込む場所へと変わった。

 護衛が枝を払いのけ、一歩前に出る。

 「……見えたぞ」


 その瞬間、目の前の視界がぱっと開けた。

 切り立った岩肌から、白銀の水が幾筋にも分かれて落ち、太陽の光を受けて虹色に輝いている。

 落ちた水は透明な清流となり、平らな岩を滑りながら森の奥へと流れ去っていた。

 飛沫が風に乗って頬を打ち、涼しさと同時に胸の奥まで広がるような爽快感をもたらす。


 「わぁ……!」

 子どもたちの歓声が一斉に上がり、何人かは我慢できずに小走りで水辺へ駆けていく。

 大人たちも足を止め、その景色をしばし黙って見つめた。

 険しい道を越えた先に待っていたのは、まるでご褒美のような光景だった。


 レイナは、滝を見上げながら深く息を吸い込んだ。

 冷たい水の匂いと、森の緑が混ざった清らかな空気が胸いっぱいに満ちる。

 その瞬間、旅の疲れも、これから先への不安も、少しだけ遠くへ押しやられたように感じた。


 「ここで、しばらく休もう」

 イオスの声に、皆が安堵の息をつく。

 滝の轟きは、まるで「よく来た」と彼らを歓迎しているかのように、さらに音を増して響き渡っていた。



 滝の下流、川が緩やかに広がる一角に、平坦で日当たりのよい河原があった。

 足元は小石と砂で覆われ、柔らかく踏みしめられる感触がある。

 ここなら馬車も寄せられるし、夜露を避けつつ作業もできる。


 「医療班は中央に、幌の広い馬車を」

 イオスの指示に、仲間たちが頷きながら動き出す。

 最初に医療用テントが川辺近くに張られ、その周囲を囲むように患者用の休息スペースが整えられていく。

 木陰を作るため、帆布を木の幹から幹へと渡し、涼しい風を通す工夫が施された。


 下流側には調理場が設けられた。

 川の水を桶で汲み、火を使う場所と離して配置することで、煙や灰が水に混じらないようにしている。

 さらに少し離れた場所には、滝から直接引いた水路を利用した簡易の水浴び場が作られた。

 岩場を囲うように木板が立てられ、布で目隠しが張られると、そこはもう立派な野外の浴場だった。

 冷たい飛沫を浴びながらの水浴びは、長旅の疲れを一気に吹き飛ばしてくれる。


 医療班は、患者を日陰へと慎重に運び込む。

 幌馬車の中で長く横になっていた人々が、初めて外の新鮮な空気を吸い込み、柔らかな表情を浮かべた。

 「では、足をこちらに」

 桶に滝の水を汲み、焚き火で温めたぬるま湯に足を浸すと、患者たちの頬に赤みが差していく。

 手浴も同様に行われ、冷え固まっていた指先が少しずつ解けるように温まっていく。


 川のせせらぎと、滝の轟きが絶えず響く中で、笑い声や感嘆の息が混じり始めた。

 子どもたちは洗濯係を手伝い、濡れた布を石の上で叩いては、きらきらと水しぶきを飛ばしている。

 干し場には、色とりどりの布や衣服が風に揺れ、まるで小さな市のような賑わいを見せていた。


 レイナは川辺でその様子を見守りながら、胸の奥に温かいものが広がっていくのを感じた。

 ここは一時の休息地に過ぎない。

 けれど、この水と緑の恵みは、きっと彼らの身体と心を確かに癒やしてくれる。

ここまでで、ひとつの区間移動が終了しました。

馬車の重量で沈む砂地や、崖上の細道、森の入口での警戒など、自然の険しさと、それを乗り越える仲間たちの連携が随所に描かれました。

そしてたどり着いた滝は、まるで旅の労を労うかのように水と涼を与えてくれます。

次回からは、この滝のそばで過ごす療養の日々と、そこから見えてくる新たな兆しをお届けします。


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