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032. 雨の崖道を越えて・繋がる手、支える心

昼過ぎ、山肌を打つ風と共に訪れた冷たい雨は、移動団に試練を突きつけた。

ぬかるみ、崩れる斜面、そして尾根道──危険と隣り合わせの行程を、誰もが手を取り合いながら進んでいく。

雨に濡れ、体が冷え、息が白くなる夜。それでも焚き火の炎と仲間の手は、確かな温もりをもたらしてくれた。

そして夜明け、応急修理を終えた馬車と共に、新たな一歩が踏み出される。


空が曇り始めたのは、昼を少し過ぎた頃だった。


 朝から淡く晴れていた空は、ゆっくりと灰色に濁っていき、風の音が山肌にぶつかって返ってくるようになる。

 遠くで鳥が鳴いたかと思えば、それきり、ぴたりと声が止む。

 レイナは列の中央に立ちながら、手のひらを空にかざした。


 「……来るわね」


 ぽつ、ぽつ――。

 しばらくすると、手の甲に冷たい水の粒が落ちてきた。


 「雨具、急いで!」

 イオスの指示に、護衛たちが馬車の幌を再展開し、子どもと年寄りの乗車を促す。

 医療班の女性たちが、さっと風よけ布を張り、濡れた地面を滑らぬようにと手を貸して回る。


 「レイナ様、お乗りを」

 ナセルが声をかけるが、レイナはかぶりを振った。


 「私は歩くわ。……雨も、風も、みんなと一緒に感じておきたいの」


 その瞳には覚悟があった。

 ナセルはそれ以上言わず、彼女の隣に立って歩調を合わせる。


 山道は、しっとりと濡れ始めた。

 かつて乾いていた土は次第にぬかるみ、小石が転がり、馬車の車輪が泥をはねる。


 「左足! ぬかるみに気をつけろ!」

 前方から、ユーリの声が響く。

 「岩が滑り始めてる。そこの斜面、傾いてきてるぞ!」


 その瞬間、先頭を歩いていた若者のひとりがバランスを崩した。


 「っ、わっ!」


 崖側へ傾いた身体を、すかさず背後の護衛が引き寄せる。


 「危ないっ!」


 肩にかけた道具袋が地面に落ち、ころころと転がり、斜面を滑っていった。

 それが地面にぶつかった拍子に――


 「……っ、崩れる!」


 足元の地盤がごそりと音を立てた。


 斜面の岩が割れ、粘土質の泥が大きく流れ出す。

 木の根を巻き込んで滑り出したその一帯は、数メートル先の道をまるごと巻き込んで、谷へと落ちていった。


 「後退! 後退! 一旦後退しろ!」


 イオスが叫び、護衛たちが後方の馬車と人々を退避させ始める。


 「動かすな! 揺れると地盤がさらに崩れる!」

 「待て、まずは足場を確認しろ!」


 泥に滑りながら、コーサが這うようにして前に出る。

 持っていた折りたたみの探査棒を地面に刺し、感触を確かめていた。


 「……ここはまだ踏める! だが、これ以上は無理だ! 引き返して、尾根道を使う!」


 冷たい雨が、容赦なく打ちつける。


 その中で、年少の子どもが一人、泣きそうな顔で立ち尽くしていた。

 足がすくみ、動けなくなっていたのだ。


 「だめ……こわい……」


 そのとき、ぬかるみに足を取られながらも、一人の少女が駆け寄った。

 同じく移動団の子。よく一緒に遊んでいた友だちだ。


 「手、出して! ほら、あたしもこわいよ。でも……いっしょに戻ろ?」


 子どもは、震える手を伸ばし――その手を掴んだ瞬間、ようやく一歩を踏み出すことができた。


 その様子を、幌の下から見ていたレイナが、そっと呟いた。


 「……ああやって、私たちは進んでいくのね。大人も、子どもも」


 やがて、隊列は崩れた道を避けるように、尾根道へと迂回を始めた。

 滑りやすい土にロープを張り、支え合いながら、一人ひとりが慎重に登っていく。


 風は強まり、霧が立ち込め始めていたが、誰も文句は言わなかった。


 ――なぜなら。


 全員が、互いの重みと手の温もりで「繋がっている」ことを知っていたから。



山の背をなぞるような尾根道は、まるで雲の中を歩いているかのようだった。


 霧が濃く、足元の岩肌も湿り気を帯びて滑りやすい。

 それでも、人々の足取りには恐れよりも集中があった。

 一歩一歩、確かめるように。誰かが踏みしめたその足跡に、次の者がそっと重ねていく。


 「ここに杭を打って、板を渡す。左足を乗せたらすぐ右。ゆっくりだ」

 コーサが指示を出しながら、仮設の足場づくりに没頭していた。

 持参していた組み立て用の軽量ボードを数枚並べ、滑り止めの布をかぶせている。


 若者たちは泥にまみれた手でその作業を支え、下から崖側を覗き込むことはせず、ただ無言で動いた。


 後方では、医療班が冷えた子どもたちや老人の体温を確認し、体調不良者を幌の中に集めていた。


 「この子、唇が青いわ。すぐに体を温めて」

 「熱はないけど、指先が冷たすぎる。湯を……急いで!」


 雨具に包まれたレイナが、その様子を自ら手伝っていた。

 布を乾かし、体を拭き、火の気を運ぶ。

 自分の着ていた外衣さえ、子どもにかぶせた。


 「あなたの方が濡れてしまいます」

 ナセルがそう言うと、レイナは小さく笑った。


 「いいのよ。私が震えてたら、誰も気づいてくれないんだから」


 小さな笑いが、束の間の緊張を和らげる。


 やがて、仮設の足場を越えた先に、小さく開けた尾根のくぼ地が現れた。

 崖風が直接吹き付けず、木々に囲まれている。


 「ここで、野営を」

 イオスが頷く。


 木を集め、岩陰に焚き火が点けられる。

 雨が止んだわけではないが、幌の張り方を工夫すれば、火はなんとか守られた。


 湿った空気の中、ほのかな煙と炭の匂いが、人々の肩をそっと包む。

 医療班が準備した薄いスープが配られ、その湯気に子どもたちは鼻を寄せた。


 「……おいしい」


 それはただの塩と野菜の出汁。

 けれどその一口が、どれほどの温もりをもたらしたか、誰もが知っていた。


 少女が、濡れた毛布に包まれながら小声で言った。


 「今日ね、あの子……わたしの手を握ってくれたの。……わたし、すごくこわかったのに、あの手、あったかくて……」


 「ちゃんと、届いたのね」

 医療班の女性が優しく答える。


 その会話を、少し離れた場所でレイナは聞いていた。

 火に照らされたその表情は、疲れも冷えも背負いながら、それでも静かに穏やかだった。


 「……イオス」

 「はい」


 「私、みんなを信じていいのよね」


 イオスは焚き火を見つめたまま、ひとつ頷いた。


 「この旅を、“負けない旅”にするためにも、俺たちが信じて導く。それが俺たちの役目です」


 レイナは、静かに目を閉じた。


 雨はまだ止まない。

 けれど、この夜には火がある。

 息をひそめて揺れる炎が、確かに人の心を繋いでいた。



空がほのかに青みを帯び始めたのは、焚き火の炎がようやく静まってきた頃だった。


 霧はまだ尾根の木々にまとわりつき、草の先に細かい露が玉のように並んでいる。

 それでも、空気には変化があった。冷たさの中に、わずかな温かさが混じりはじめていた。


 コーサは、朝露に濡れた馬車の下に潜り込んでいた。


 「……完全に壊れてはいないな。昨日の振動で、軸受けの緩みと後輪の片減りが出てる。走れるが、放っておくと次の段で致命傷になる」


 木箱の中から工具を取り出し、濡れた手袋のままボルトを締め直す。

 技術班の若者たちが、ランタンを片手に無言でその手元を照らした。


 「この雨で、下部の冷却部にも泥が入り込んだな。通気が詰まると、ブレーキに支障が出る。応急的に泥を洗い流して、フィルターを交換しておく」


 ひとつひとつの作業に、言葉は要らなかった。

 馬車は彼らにとって“装備”ではなく、“仲間”だったからだ。


 その少し離れた場所で、ユーリがイオスと地形図を広げていた。


 「この尾根道を抜ければ、あとはもう少し緩やかになるはずだ」

 「川沿いの段丘を経由すれば、再度の崖道は避けられる。だが、道幅が読めない……地図が古い」


 「つまり、また何か起きる前提で備えとくってことだな」

 「……そういうことだ」


 会話は短いが、必要な情報だけが正確に共有されていく。


 一方、まだ眠りの中にいる子どもたちのそばでは、医療班の女性がゆっくりと湯を注いでいた。

 「昨日の冷え込みで、軽い発熱が何人か。行程を急がず、様子を見ながら交代で歩かせましょう」


 ナセルが頷き、簡易記録用の板に何かを書き留めた。

 神殿にいた頃にはなかった“実務”の感覚が、少しずつ彼の所作に染みついている。


 やがて、朝の空に一筋の陽光が差し込んだ。


 それは、木々の隙間から落ちる一本の光。

 暗い地面を照らし、泥で濁った馬車の側面を、まるで祝福するかのように淡く包んだ。


 「……明けたな」


 イオスのつぶやきに、レイナがそっと振り向いた。


 彼女はその光を見上げながら、短く言葉をこぼす。


 「進みましょう。まだ“道”は続いているもの」


 技術班が最後の締め作業を終え、馬車の横に立ったコーサが親指を立てる。


 「調整完了。最低限の機能は確保した。あとは、道が壊れないよう祈るだけだな」


 「祈りは、もう始まってるわ」

 レイナの言葉に、ナセルがそっと頭を垂れた。


 再び列が整い始める。

 掛け声は控えめだが、互いの目には、確かな“朝”が映っていた。


 歩き出す一歩は、昨日のそれよりも少しだけ軽かった。

 なぜなら、誰もが思い知ったからだ――


 「自分ひとりでは、越えられなかったかもしれない」

 でも、隣に“誰か”がいたから、ここまで来られたのだと。

今回の行程は、ただの移動ではなく、人と人との絆が試される時間でした。

泥に足を取られ、崖道で立ち止まりそうになる者も、誰かの手で前へ進むことができる──その瞬間を描けたと思います。

雨は冷たく、風は厳しかったものの、夜明けに差し込んだ一筋の光が、この先の道を照らす希望となりました。

次回からは、さらに変化に富んだ道程と、新たな出会いが待ち受けます。


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