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031. 風と共に進む道・海と山の試練

クラズ神殿を出発した移動団は、祈りの祠を目指して南へと歩み始めた。

海と山が交差する自然の道。そこには、美しい風景と、予想もしない困難が待っていた。

自然の恵みに癒やされ、仲間と共に汗を流し、そして命を守るために力を合わせる──

これは、癒しと決意が交差する、ある十日間の始まりの記録。


夜はすっかり更け、星々のまたたきが、改良を終えた馬車の天井にかすかな影を落としていた。


 野営地の外れ。人々の寝静まったテントの合間を縫うように、ひとつの小さな焚き火が燃えている。


 その火を囲んでいたのは、移動団の中でも主だった数名――

 レイナ、イオス、ユーリ、医療班のリーダー、そして技術班の責任者・コーサの姿があった。


 「……なんとか、仕上がりましたよ」

 コーサが火にかざした手袋を外しながら、疲れと安堵の入り混じった声で言った。

 「昼過ぎには動作確認も終えて、補機類も良好。正直、野外での整備にここまで時間がかからず済んだのは奇跡みたいなもんです」


 「本当に、ありがとう……」

 レイナがそっと目を伏せる。

 小さく、しかし確かな声だった。

 「この数日で、みんなの顔つきが変わっていった。村の人も、神殿の方々も……あなたたちが、この“動く病院”を形にしてくれたおかげで、私たちもようやく“未来”を語れるようになったの」


 「……ああ。まさか自分たちが、医療と移動を両立させることになるとはな」

 イオスが火を見つめながら口を開く。

 「軍の中でも、後方支援の概念はあったが……これは、まったく新しい形だ。あの馬車は、俺たち全員の“命の延長線”そのものだよ」


 「つまり……“まだ終わらせるな”ってことだな」

 ユーリが、焚き火の反対側でうそぶいた。

 「俺たちには、まだ“やらなきゃいけないこと”があるってことだ」


 しばしの沈黙。


 夜風が木々の間を通り抜け、焚き火の炎がかすかに揺れた。


 その静寂の中で、レイナがゆっくりと口を開いた。


 「……私たちの旅は、まだ道半ばだけれど」

 「この土地で出会った人たち、流れた時間、感じた風……それを忘れずに、胸に抱いていきたい」

 「最終的な目的地は、この海の向こう……さらにその先の大地。きっと戻ってくることはできないけれど……」

 「ここで過ごした日々が、私たちの“始まりの記憶”になっていく。そう信じたいのです」


 医療班の女性がそっと目を伏せ、焚き火の光に濡れた頬をぬぐった。


 「……未来で語れるように、か」

 イオスがぽつりとつぶやく。

 「俺たちが立ち寄ったこの場所が、誰かにとっての“灯”になればいいな」


 「うん」

 レイナが、そっとうなずく。

 「この地に蒔かれた希望が、遠い未来に芽吹くと信じて……進んでいこう」


 そして――


 「……夜明け前が、いちばん寒いってな」

 イオスが立ち上がり、長いマントを翻す。

 「そろそろ休もう。明日もまた、進まなきゃならん」


 「焚き火、消しておくよ」

 ユーリが小さな石を火の中心に落とすと、ぱち、と音を立てて炎が弾けた。



霧の薄い朝だった。

高台の斜面には露を含んだ草が静かに揺れ、海からの風が肌に冷たく触れていく。

かすかに香る潮気は、すでに彼らが“山の内側”から“海の外側”へ出ようとしていることを告げていた。


その日、レイナたち移動団は、クラズ神殿を後にする。

旅の途中に許された短い逗留の日々は終わりを迎え、次なる目的地──神殿の南端にひっそりと残る祠へ向け、歩みを再開する時が来ていた。


神殿前の石段には、若き神官イリアスの姿があった。

その手には、旅の無事を祈る小さな草花の束。

すでに団に加わったナセルはレイナのすぐ後ろに立ち、祈りの言葉を胸の内で繰り返している。


「レイナ様、ナセル…どうかご無事で」

 イリアスの声はわずかに震えていた。

 レイナはその声にそっと微笑みを返す。


「ありがとう、イリアス。あなたも、ご自分の修行の旅を大切にね。いずれ再び、どこかで会いましょう」


「…はい!」


その返事が終わるころ、列の先頭から馬車の音が聞こえてきた。

ゆっくりと軋みをあげながら、新型の馬車が動き出す。

斜面をくだり、森と丘陵を縫うように続く道が、神殿跡地──古き祈りの地へと繋がっている。

イオスが隣を歩くレイナに向け、静かに言う。


「南へ十日。クラズ神殿の南端、かつて祈りの灯がともっていた石の祠が、次の目的地です」


レイナは頷いた。

「ええ。きっと、必要な“時間”になるはず。私たちにも、あの馬車にも」


振り返れば、イリアスがじっとこちらを見ていた。

その姿に小さく手を振ると、イリアスは深く頭を下げた。


こうして、移動団は静かに出発した。

列の中では、旅の再開にそっと心を高ぶらせる子どもたちの声。

護衛を担う者たちの引き締まった視線。

そして、新たに導かれし神官ナセルの瞳には、決意が宿っていた。


朝の光が、雲間から差し始める。

誰もが、まだ見ぬ明日を見つめながら、移動団の旅は、再び、前へと進み出した。



草の匂いが風に乗って漂い、遠くからは波の音が絶え間なく届いていた。

道は山裾に沿いながらも、ところどころで海へと開けている。

潮風が幌に当たり、馬車の布がふわりと揺れるたびに、子どもたちは顔を上げ、目を輝かせた。

「見て、あれ……本当に海!」

「砂浜だよ、ほら! 水、届くかな?」

若者たちの一部が警戒を続けながら、列の安全を確認しつつ歩く。

彼らの後ろで、医療班の者たちが患者を気遣い、歩ける者と乗せる者の配分を調整していた。

「少し風が冷たいですね。ですが、空気は……澄んでます」

ナセルがそうつぶやいたのを、レイナは静かに聞いていた。

彼の目は、海へと向いている。

どこか懐かしさと新しさが混ざったまなざしだった。

「……この風を、届けたかった人がいるのかしら?」

レイナの問いに、ナセルは肩をすくめた。

「癒しとは、不思議なものです。必要な人に、必要な場所で……それが訪れる」

やがて、隊列がゆるやかな岩場に差しかかる。

そこには、海へとせり出すようにして草が茂り、小さな野花が風に揺れていた。

数名が立ち止まり、自然の静けさに身をゆだねるように、海を見つめる。

「ここで昼食にしましょう」

イオスの指示により、道脇の広い岩棚にシートが敷かれ、携帯食と湧水を用いた簡易な食事が配られる。

子どもたちは海を背景に駆け、若者たちはそれを見守りながら、落ち葉で笛を作って鳴らしていた。

「まるで、旅じゃなくて……遠足みたい」

誰かがそうつぶやいたのを、レイナはただ微笑みながら見つめていた。



潮騒が近づき、地面の色が変わり始めた。

岩がちだった道が徐々に開け、足元には細かく乾いた砂が広がっている。

陽光を反射してきらめくその砂地は、一見穏やかで美しかった。

だが、最初の一台がそこへ入った瞬間――

「っ、止めろ! 馬が沈む!」

イオスの声が鋭く飛び、先頭の馬車がその場で停止した。

見れば、前輪がすでに膝下ほどの深さまで砂にめり込んでいた。

「地面が締まってない……これは、進めば進むほど抜け出せなくなるやつだ」

コーサが車輪の周囲を確認しながら、歯を噛みしめた。

砂は乾いているように見えて、下層ではわずかに湿気を帯びており、重たい車輪を沈めていく。

しかも、車体自体が医療機器や人員を載せた重量物であるため、わずかな油断が命取りだった。

「護衛班、周囲の警戒を! 若者班、ここで全員前へ出ろ!」

イオスの指示に応じて、若者たちが馬車の前後に配置される。

綱が出され、幌を一時的に巻き上げて荷重を分散させ、車体が揺れないよう木材と布で補強する。

「押すな、まだだ! タイミングを合わせろ!」

コーサの怒号が飛ぶなか、後方ではナセルが汗をぬぐいながら祈りを捧げ、医療班が馬車内の患者たちの安否を確認していた。

「よし、全員、息を合わせろ! いけッ!」

――ズッ――ゴリッ。

砂をかく音とともに、馬車の車体が少しずつ前へと動き始めた。

若者たちの背に、額に、汗がにじむ。

「もう少し……もう少しだ、止まるな!」

綱が軋み、馬がいななき、全員の足元に砂が巻き上がる。

それでも、確かに進んでいた。

ようやく、地面が少し固くなる場所に辿り着いたとき――

「……抜けたッ!」

ひときわ大きな歓声とともに、車輪が跳ねるようにして砂地を抜けた。

崩れるように座り込む若者たち。

その肩に、医療班の女性が静かにタオルをかけた。

「ありがとう。……あなたたちの力が、今の命を運んでくれているのね」

レイナは、そんな彼らの姿を少し離れた場所から見つめていた。

崩れかけた道を、それでも進む。

それが、この旅なのだ。



砂地を抜けた道は、やがて緩やかな上り坂へと変わっていった。

海岸の風音が遠ざかり、代わりに、木々の葉が風に鳴る音が耳に届きはじめる。

山裾に沿って続く細い道。片側は急な斜面、もう片側には小川が流れている。

太陽の光は葉の合間からこぼれ、時折、車輪の上に金の斑点を落としていた。

「……静かだね」

子どもたちのひとりがぽつりと漏らす。

「うるさくしちゃ、だめだよ」

すかさず別の子が囁き返した。

そう言われてみると、森の中は不思議なほど静かだった。

鳥の声さえも遠く、風の音がすべてを包んでいるような、やわらかな沈黙。

その沈黙の中、馬車が一度止められた。

「川沿いに野営できそうな平地があります」

護衛のひとりが報告し、ユーリが下馬して先を見に行った。

やがて、木々の切れ目に現れたのは、小さな開けた空間だった。

斜面と川の間に自然にできた緩やかな段差。

陽当たりがよく、焚き火の煙も逃げやすい。水場も近く、馬の水飲み場としても十分だった。

「……ここを今夜の宿営地にしましょう」

イオスの判断により、野営の準備が始まる。

木の枝を集めて薪とし、荷車から幌を広げ、簡易な調理場と医療用のスペースが整えられていく。

レイナは腰を下ろしながら、風が木立を抜けていく音に耳を澄ませていた。

ふと、ひとりの若者が声をあげた。

「団長、これ……!」

彼の手には、青黒い実のついた小枝が握られていた。

「山桑の実……このあたり、食べられるものも混ざってる」

コーサが念のため確認を行い、安全が取れると判断されると、周囲の木々にも同じような実が生っていることがわかり、収穫が始まった。

「甘い!」「すっぱいのもある!」

子どもたちが小さな手で一粒ずつ摘み取り、衣の端を袋がわりにして運んでくる。

医療班は、軽食と一緒に栄養補助として使えるか、調整に入った。

「旅の途中で、こんな自然の恵みに出会えるとは……」

レイナが実をひとつ手に取りながら、つぶやく。

「この道にも、見えない祝福があるのかもしれません」

ナセルがその隣で祈るように手を合わせる。

焚き火が燃えはじめ、実を潰して加えた簡易デザートが配られる頃、子どもたちは今日もよく歩いた疲れを忘れたかのように、草の上をころころと転がっていた。

誰かが小さく口ずさんだ。

「……旅って、こわいことばっかじゃないんだね」

森はそれに答えるように、そっと風を吹かせた。



朝の光が木立の影を濃くする中、移動団は再び出発していた。

森を抜けた道は、ゆるやかな登り坂からやがて岩肌へと変わり、地形は荒々しさを増していく。

左手には切り立った崖、右手には急斜面。草もまばらな岩の道は、人ひとりがようやくすれ違えるほどの幅しかなかった。

先頭を歩いていたユーリが、立ち止まって声をあげる。

「……ここだ。想定していた崖道が、これだな。地図の通りだ」

前方には、くの字に折れ曲がる岩の壁。

その足元をなぞるように、狭い細道が崖際に続いている。

下をのぞけば、遥か彼方に波打つ木々の影。踏み外せば、一巻の終わりだった。

「馬車は……ぎりぎり通れる。だが、人の誘導と補助が必要になる」

イオスが声を低くして言うと、護衛班の数名が前後に散り、荷を軽くするため幌の一部を一時的に取り外す。

「命綱を張れ。全ての馬車に。あと……通路下に転倒防止の補助用ロープも追加だ」

護衛と若者たちが連携し、岩肌に杭を打ち、綱を固定していく。

滑落を防ぐため、手綱を持つ者たちには腰に安全帯がつけられた。

列が静かに動き始める。

先導するユーリが、崖道の途中で馬を降り、手綱を引いて歩いた。

その背には、緊張で汗ばむ若者たちの視線が向けられている。

「大丈夫……馬が怖がらなきゃ、揺れは最小限で済む。声をかけ続けろ」

イオスの指示に従い、随伴者たちは馬に語りかけながら、慎重に進んでいく。

車輪がわずかに石に引っかかり、崖側へ傾いた瞬間――

「止まれっ!」

前後からロープが一斉に引かれ、馬車の傾きを支える。

若者のひとりが綱を握ったまま膝をつき、歯を食いしばって耐えた。

「くっ……まだ、いけます……!」

息を詰めて見守る中、馬車はゆっくりと、元のバランスを取り戻して進み出した。

そして――

ようやく全車両が崖道を通過したとき、隊列のあちこちから静かな拍手が起こった。

それは、誰にも強制されず、ただ本能的に湧き上がった感謝と安堵の証だった。

崖を越えた先に、わずかに開けた岩棚があり、そこが次の野営地となった。


レイナは、少し離れた岩の上に腰を下ろし、遠くの空を見つめていた。

「……よく、越えられたわね」

その言葉に、ナセルが隣から答える。

「いいえ、“越えさせていただいた”のです。……人と自然と、あらゆるものの力に導かれて」

風が、崖下から吹き上がる。

その冷たさに、彼女はそっと肩を抱いたが――その目は、もう次を見ていた。

馬車が通れぬ細道。沈み込む砂地。濡れた石。

この旅路に、穏やかな道はそう多くはない。

けれど、そのたびに人は立ち止まり、助け合い、祈り、再び進んでいく。

小さな歓声、息をのむ瞬間、そして胸に宿る静かな確信。

次の夜営地も、まだ見ぬ明日も、希望とともに──


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