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030. 訪問医療の日々

神殿から旅立った若き神官イリアスは、初めての訪問医療に向かう。

不安と緊張のなかで出会ったのは、助けを求める声と、見守る人々のまなざし。

小さな処置のひとつひとつが、彼を“ただの神官”から“祈りを届ける医師”へと変えていく。


朝早くから、忍やレイナ率いる移動団の拠点は活気に溢れていた。

訪問医療に使う移動病院はただの馬車ではなく、内部には診察や治療が可能な設備が整っている。

だが、その運用には医師だけでなく、看護師や検査技師、さらには魔道炉や馬車の技術者など多岐にわたるスタッフが必要だった。


「イリアスさん、こちらで患者さんの状態を記録してください」


看護師長のセリナが、新たに訪問医療に参加したイリアスに優しく指導を行う。

初めて触れる医療器具を手に、イリアスは戸惑いながらも真剣な表情で仕事を覚えようとしていた。


「魔道炉の出力が不安定だ。少し調整が必要だな」


技師長のアルドは魔道炉の状態を確認しながら、部下に指示を出している。

彼らが扱う魔道炉は移動病院の生命線であり、医療機器の動力源でもある。

その整備は欠かせない作業だった。


「レイナ様、次の訪問先で必要な物資の確認が完了しました。医薬品の在庫も問題ありません」


補給係のリナがレイナに報告をすると、レイナは微笑みながらうなずいた。


「ありがとうございます。今日は午後から、全体で緊急時の対応訓練をしましょう。実際の訪問医療の場面を想定して行います」


レイナの言葉に、その場にいたスタッフたちは真剣な顔で頷いた。

忍は少し離れたところから、その様子を満足そうに眺めている。


その時、神官長が忍に近づいてきた。


「忍殿、訪問医療の運用についてだが、基本は月に一度、各地を巡回することにしよう。定期診療のための訪問先は神殿側で順番を決めて、移動担当に伝える」


「判りました神官長。しかし、緊急の医療が必要な場合は即座に対応できるよう、訪問医療隊は常に出動できる準備を整えておきます」


「頼もしいことだ。地域の人々が安心できるよう、共に努めよう」


神官長と忍がしっかりと握手を交わすと、忍はスタッフたちに向かって声をかけた。


「お前たち、実践訓練を始めるぞ! 診察、治療、そして機器の扱いまで徹底的に覚えるんだ」


スタッフたちは一斉に動き始め、訪問医療の日々が本格的に始まった。

それぞれが互いに協力し合いながら、地域の人々を助けるための力を養っていくのだった。


その日の夕方、忍は訪問医療のスタッフ全員と、その指導を行った面々を神官長の部屋へと集めた。

そして神官長も見守る中、天へと声を掛けた。


「カグヤ見ているんだろ。こっちに来れないか」


「やっぱバレてたか」と言わんばかりの表情で、カグヤが顕現する。

忍が真剣な面持ちで次々とお願いをする姿を、スタッフや神官たちは驚きと尊敬が入り混じった表情で見つめていた。

神官長は微笑みながらも少し驚きを隠せず、スタッフたちの間には「忍殿は本当に神様とも気安く話せるのだな」という感嘆が広がっていた。


「訪問医療の面々と、その指導をした面々を、指導用の通信で繋げて欲しい」


カグヤは軽くため息をつきながらも、すでに必要だと感じていたことを認め、それぞれにリンクを繋いだ。


「これは緊急時に限って使うリンクだ。通常の疑問は自分たちで解決するように」


最後に、忍は神官長とカグヤ、そして自分自身をもリンクするようお願いした。

カグヤはうなずき、三人を特別な絆で結んだ。


そして追加道具としてブレスレット型の神具と言って、通信機を各自の左手首に装着させた。

その神具は、持っている者同士で声を届けることができる。


使い方はシンプルで、神具に反対の手で触れながらつなげたい相手の名前か顔を思い浮かべると、相手の神具が振動する。

相手がそれに気づいて神具に触れると会話が可能になる。

相手の声は神具から聞こえ、自分の声を伝える際には神具に向かって話すことで相手に伝わるのだった。



神殿前の広場には、朝日が差し込みはじめていた。冷たい空気に馬の鼻息が白く漂い、移動病院馬車の周囲では最後の確認作業が進められている。


イリアスは緊張した面持ちで立ち尽くしていた。白衣の上に神官の外套を重ね、神具のブレスレットを左手首に装着してはいるが、どこかぎこちない。


「深呼吸しなさい」


背後から声をかけたのは看護師長のセリナだった。肩に手を添えられ、イリアスは小さく息を吸って吐いた。


「今日、あんたは先生として出る。でも全部を一人でやろうとしなくていい。患者の目を見ること、そして、わからないことは必ず誰かに聞くこと」


「……はい」


イリアスは緊張の中にも、確かにうなずいた。


一方、魔道炉の点検を終えたアルドが馬車の側面を軽く叩き、頷いてスタッフに合図を送る。


「動力系、異常なし。燃料も満タンだ。気圧変動にも対応済み。いつでも出せるぞ」


「ありがと、アルド」


レイナが声をかけ、医薬品の箱に最終確認の印を入れる。


そこへ神官長が姿を現した。ゆったりとした神官服に身を包み、静かな眼差しをイリアスへと向ける。


「イリアス。医の行いは、祈りの一つ。恐れず、だが慎重に。人を癒す手は、神の意思と繋がっておる」


「……承知しました。必ず」


その瞬間、神官長の後ろから忍がひょいと顔を出した。


「お、やってるな。イリアス、困ったらブレスレットに話しかけな。俺かセリナが拾えるようにしてるから」


「えっ、そんな機能も…?」


「ん、今回だけな。緊急リンクってやつ」


忍は笑いながらウィンクしてみせると、背中に手を回しながら馬車の後部へ歩いていった。


イリアスは胸元をそっと押さえる。緊張は拭えない。だが、少しずつ、不安の隙間に“信頼”という名の温もりが入り込みはじめていた。


「行きましょうか、先生」


セリナがにこりと笑い、馬車のドアを開ける。その先には、まだ見ぬ村と人々の暮らしが待っていた。



馬車は神殿を出発して半日、緩やかな丘を越え、小さな村へとたどり着いた。道中は穏やかだったが、到着した先には、やや緊張感のある空気が漂っていた。


村の中央に設けられた集会所の前に、数人の村人たちが集まっている。馬車が停車すると、その中の年配の男が一歩前へ出た。村の長であるらしい。


「……神殿の方々か。まさか、本当に来てくださるとはな」


どこか疑念と戸惑いの混ざった声。それもそのはず、この村はこれまで医者の訪れなどなかった場所。伝え聞く“訪問医療”も、村人たちにとっては遠い話だった。


イリアスは馬車から降り、セリナの背中越しに、村人たちの視線を感じて固まる。


「ご安心ください。本日はこの馬車で診療に参りました。必要な方は順番にお声がけください」


セリナが柔らかな声で説明するも、村人たちはその場でざわついていた。そんな中、一人の老婆が人波をかき分けて前に出る。


「孫が……孫が咳き込んで、熱が下がらんのです。どうか、診てはもらえませんか……」


その言葉に空気が変わった。セリナがうなずき、イリアスの腕を軽く叩いた。


「先生、お願い」


「……はい」


イリアスは喉が渇くのを感じながらも、馬車に用意された鞄を持ち、老婆に案内されて村の小さな家へと向かった。


周囲の村人たちは、遠巻きにその背を見つめていた。神殿から来たという若き神官の背中に、彼らの期待と不安が静かに乗っていた。



村の家は質素だった。土壁と木の梁がむき出しのままの室内に、薪の匂いと湿った布のにおいが漂っている。その一角、毛布にくるまって咳き込む幼子の姿があった。顔は赤く火照り、呼吸も浅く、ひゅうひゅうと苦しげな音を立てていた。


イリアスは静かに跪き、手を伸ばす。


「こんにちは。……ちょっと診せてね」


子どもはぐったりと目を開けたまま、声も出せない。隣にいた母親が、不安そうにイリアスを見つめた。


「夜になると、もっと酷くなるんです。息を吸うのが……こんなに小さな体で、苦しそうで……」


イリアスは、かすかに震える手で聴診器を当てる。胸の音は、彼の教本で読んだ通りではなかった。


「……喘鳴。気管支が狭くなってる。熱も高い……」


彼の中で、これまでの講習と訓練が必死に組み上がっていく。頭の中に忍の言葉が浮かぶ──『わからないことは、聞け』。


だが、いまは聞けない。目の前のこの子に、時間はない。


「セリナさん、吸入装置と冷却用の湿布を……あと、魔道結晶を一つ」


背後で即座に動く音。セリナが補助に入り、薬草をすり潰し魔道加温器に注入、イリアスが吸入器を組み立て、子どもの口元へ運ぶ。


「これをゆっくり吸って……そう、そう……上手だね……」


母親が胸元で手を組み、震える声で祈りをつぶやく。


数分後、咳が次第に弱まり、子どもの目にうっすらと涙が浮かんだ。


「……息が……楽……」


そのか細い声に、イリアスの手が止まった。


母親が涙を流しながらイリアスに頭を下げる。


「ありがとうございます……ほんとうに……」


その瞬間、外に集まっていた村人たちが家の戸口から中を覗き込み、一人がぽつりと呟いた。


「……神殿の子が……あの子を助けた」


拍手ではなかった。ただ、胸を押さえ、目頭をぬぐい、誰かが誰かの手を握った。


イリアスは気づかぬまま、肩の力を抜き、子どもの額に手を当てた。


「もう大丈夫。……よく頑張ったね」


その声は震えていた。


それは、イリアス自身が、いちばん救われた瞬間だった。



その夜、村の空は月も雲に隠れ、ひんやりとした夜風が吹いていた。


イリアスは村の集会所の裏手にある焚き火のそばに座り、ぼんやりと炎を見つめていた。薪がはぜる音だけが、静かな空気を揺らしている。


昼間の疲れが、どっと押し寄せていた。だが、心の奥は妙に冴えている。あの子どもの目、母親の涙、村人たちの揺れるまなざしが、何度も脳裏に浮かんでは消えた。


ふと、左手首にあるブレスレット型の神具に視線を落とす。


(……忍さま)


思い浮かべるまま、反対の手でそっと神具に触れた。


「忍さま……聞こえますか?」


数拍の沈黙ののち、神具が小さく振動した。


『おう、聞こえてるぞ。……よくやったな』


イリアスは驚いたように笑い、小さくうなずいた。


「……間違ってなかったでしょうか。あの子に、あの母親に……神殿の者として、何かをちゃんと届けられたのでしょうか……」


忍の声が、少しだけ低くなった。


『間違ってたら、子どもは泣いてるよ。あの子、泣かなかっただろ? 息が楽になって、ありがとうって言った。……お前の手は、間違ってなかったってことさ』


言葉のひとつひとつが、胸の奥に静かに落ちていった。


焚き火の炎が、涙に濡れた瞳を照らす。


「……ありがとうございます、忍さま」


『おう。じゃあ、また明日。……いい夢見ろよ、先生』


通信が途切れたあと、イリアスはしばらく目を閉じたまま座っていた。夜風が頬をなでる。


この日、彼は初めて“医師”として誰かと向き合い、そして、“神官”として祈りの重みを知った。


焚き火の光が、静かに夜を照らし続けていた。



朝露に濡れた空気が、村を優しく包んでいた。


集会所の前には、すでに村の人々が集まっていた。誰もが柔らかな表情で、神殿の馬車の前に立つイリアスたちを見つめていた。昨日の疑念や遠巻きの視線は、もうそこにはなかった。


村の長が前に進み出て、深く頭を下げる。


「本当に、ありがとうございました。わしらのような小さな村にも、こうして来てくださった……。まるで、神が訪ねてきたようじゃった」


「いえ、私たちは……神の声を届けに来ただけです」


イリアスの言葉に、村長はゆっくりと頷いた。


「それでも、わしらには十分すぎる。……ぜひ、また来てくだされ」


セリナが横から声を添える。


「はい。次回の巡回候補地として、神殿に申請させていただきます」


その言葉に、周囲から安堵の吐息が漏れる。誰かが「また来るってさ」と小声でつぶやくと、あちこちから小さな拍手が起こった。


そのとき、一人の子ども──昨日診療した幼子の姉らしき少女が、そっとイリアスに近づいてきた。手には、色とりどりの布を編んだ小さなお守りが握られている。


「これ……お兄ちゃんに。昨日、弟を助けてくれて、ありがとう」


イリアスは受け取ったお守りを見つめた。指先で作られた不格好な小物だったが、それ以上に真っ直ぐな“想い”が込められていた。


「……ありがとう。大事にするよ。きっと、また来るから」


そう言って微笑んだイリアスに、少女もふわっと笑みを返した。


馬車がゆっくりと動き出すと、村の人々はその後ろ姿を、まるで見送る光のように静かに見つめ続けた。


イリアスは最後にもう一度振り返り、お守りを胸にしまいながら心の中でつぶやいた。


(神殿の医療が、誰かの希望になるなら──俺は、何度でもここへ来る)


朝の光が、静かに旅の再開を告げていた。

ひとつの命を救ったその日、彼の中で何かが確かに変わった。

手にした小さなお守りは、誰かを助けたいと願った心の証。

神具の通信が、人と人とを結ぶように──

祈りと知識、想いと技が、いま再び世界へ歩き出す。

次話では、レイナ率いる移動団が馬車の改修を終え、次の中継地へと進み始めます。

癒しと希望を乗せた隊列が、海風とともに新たな地を目指します。


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