003. 静かなる誕生、冷たいまなざし
忍が生まれたのは、屋敷の隅にひっそりと建つ離れの一室。
正妻や正当な子らが遊ぶ庭園の向こう、誰にも祝福されず、それでも静かに命が芽吹いた。
そこには母の優しい声と、老侍女の気遣いがあった。
そして、遠くから見下ろす“家族”たちの、冷たい視線も――。
今回は、忍という存在がこの世界にどう迎えられたのか。
微笑みの裏にある無関心や偏見が、少しずつ形を見せ始めます。
朝の光が、すき間の多い木枠の窓からこぼれ落ちていた。
その光は、ほこり舞う室内をやわらかく照らし、藁敷きの床と、古びた天井に筋を描いている。
この離れ家は、立派な邸宅の敷地の片隅、石塀の外縁近くにぽつんと建てられていた。
表向きには「下働きの住まい」とされているが、実際には“公には存在しない妾のための隠れ場所”だ。
建物自体は小さく粗末だが、内部は清潔に保たれており、暮らしの温もりが感じられる空間だった。
その一角、寝台の上に、やせた女性が背をもたれさせていた。
長い黒髪は布でまとめられ、蒼白な頬に疲労の色が浮かんでいる。彼女――レイナは、産後の身でまだ起き上がるのもままならない。
その腕の中には、赤子。小さく、そして不思議な静けさをまとった子が、眠るように横たわっていた。
「……あなたが、生まれてきてくれて、本当に……ありがとう」
レイナの声は、囁くように優しい。
赤子にかけられた薄布の上から、彼女の手がそっと撫でられる。触れるたびに、安堵とも、名残惜しさともつかぬ表情が浮かぶ。
赤子――忍は、眠っているように見えたが、意識は確かにそこにあった。
自分が「生まれた」こと。母の腕の中にいること。何より、その母の声と匂いが、自分の中に深くしみ込んでいく感覚があった。
(ここが……俺の、新しい世界か)
まだ言葉は話せない。動きもままならない。
けれど、前世の記憶が確かにある。ゲームの中で仲間たちと戦い、笑い合ったあの日々。そして、突然訪れた別れ。
あれは夢ではなかった。
(この小さな手で……また、何かを始めるんだな)
レイナは赤子の瞳が、まっすぐに自分を見つめていることに気づいた。
「ふふ……不思議ね。まだ何も話せないはずなのに、まるで何か、全部わかってるみたい」
その笑顔に、忍の胸の奥がふわりと揺れた。
こんな世界に、生まれ直して――
こんな優しい人に、抱かれて――
(……悪くない。ううん、きっと、ここから始まる)
窓から差し込む朝の光が、再び赤子と母を包み込む。
この一瞬が、忍にとって“新しい世界での最初の記憶”になった。
※※※
戸の向こうで、ギシ、と古い板を踏む音がした。
忍は反射的に目を閉じたまま、気配を感じ取る。まだ動けない小さな体に意識を集中させて。
カタカタ……と木箱のようなものが置かれる音。続いて、扉をノックする音が一度だけ、小さく響いた。
「……食事を置いておきますよ」
年配の女性の声が、戸越しにぼそりと聞こえた。
それだけ言うと、足音はすぐに離れていく。早足だ。余計な会話や、関わりを避けるような――そんな態度だった。
母・レイナが静かに起き上がろうとしたそのとき、部屋の隅に控えていた老女が手を添えた。
「私が取りますよ、レイナ様」
それは、この離れに仕える唯一の侍女、おたきだった。
かつては本邸の産婆役を務めていたという古株。いまは“妾の世話役”という扱いで、周囲からも距離を置かれている。
戸をそっと開けたおたきは、敷居の前に置かれていた木盆を拾い上げた。
盆の上には、薄い粥と湯気の立つ薬草湯、小さなパンのかけらが載っていた。塩も味噌も加えられていない、ほとんど味気のない朝食。
「……まったく、これが産後の母親に出すものかね」
おたきはため息をつきながら、盆を室内に運び入れる。
レイナは苦笑して首を振った。「贅沢言える立場じゃないわ、いまは」
「だからって、水代わりの粥なんて。身体が回復せんのは当然です」
おたきは手際よく膳を床に並べ、薬草湯の器をレイナに手渡した。
レイナがそれを両手で受け取ると、ほっとしたように湯気に顔を近づける。
その様子を、忍はじっと見つめていた。
小さな身体に、温もりと匂いと光景だけが記憶として積み重なっていく。声も音も、すべてが自分の中に染み込んでいくようだった。
おたきはふと赤子の目線に気づき、忍に向かって優しく語りかけた。
「おや……お目々が合ったね。あんた、ちゃんと聞いてるねえ。偉いよ、しのぶ坊」
忍は反応できない。けれど、その言葉がなぜか懐かしく、どこかくすぐったく感じられた。
(……俺、見られてるな。いや、見守られてるのか)
この離れには、声高な笑いも、温かな団欒もない。
だが、それでもここには“心”があった。
わずか三人だけの、けれど確かに繋がった“家族のような空間”が、そこに息づいていた。
※※※
朝の膳を下げたあと、離れ家には再び静けさが戻っていた。
忍は布団の上でまどろみながらも、ふとした物音や匂いに、小さな感覚を張りめぐらせていた。
おたきが薪を足す音。レイナの衣擦れの音。
風がすき間から通り抜け、草木のにおいが漂ってくる。どれも、忍にとっては新しい世界の一部だった。
そのとき、レイナがふと窓の方へ歩み寄った。
細い体に布を羽織り、片手に湯の入った茶碗を持ったまま、窓際の腰掛けにそっと腰を下ろす。
窓の外――そこには、広々とした庭園が広がっていた。
色とりどりの花が咲き乱れ、手入れの行き届いた芝生が敷き詰められている。
中庭の奥では、数人の子供たちが明るい声を上げて駆け回っていた。
その子らは、皆きらびやかな衣服をまとい、陽光を浴びてまるで劇の登場人物のようだった。
彼らの向こうには、屋敷の本棟が見える。
大理石の柱に囲まれたテラス。その一角、日除けの下に立つ一人の女性の姿があった。
本妻――この屋敷の正夫人だ。
豪奢な衣装をまとい、仮面のような微笑を浮かべながら、取り巻きの侍女たちと談笑している。
しかしその視線は、まっすぐ離れの方角へと向けられていた。
レイナはその視線に気づきながらも、なにも言わずに茶をすすった。
忍は布団の中から、わずかにその様子を見ていた。
母の背中は、どこか儚く、それでいて静かな気高さを感じさせた。
「……あの子たち、楽しそうね」
レイナがふと呟いた。
誰に向けた言葉でもなかったが、忍はそれを自分への問いかけのように受け止めた。
楽しそうに見える。けれど、その向こうにあるものは――冷たく、重たい何か。
レイナは忍の方に視線を戻すと、微笑みを浮かべた。
「私たちは、ここでいいのよ。静かで、穏やかで……あなたがいてくれるだけで、私は十分」
その言葉に、忍の小さな胸が、少しだけ痛くなった。
自分がここに来た意味。守らなければならないもの。
それが、静かに確かに、形になり始めていた。
※※※
昼も近づいた頃、離れ家の門の外から、蹄の音が響いてきた。
周囲の空気がわずかに張り詰める。鳥のさえずりすら、風に流されたように静まる。
おたきはすっと顔を上げると、物音を立てぬよう戸口へと向かった。
レイナは茶を注いでいた手を止め、薄く唇を結ぶ。忍は、何かを察したように母の腕の中でじっとしている。
──ギイィ……
戸が開く音とともに、重い足取りで一人の男が入ってきた。
男は、年の頃は四十を過ぎたあたりか。
よく鍛えた大柄な体躯に、毛皮のついた外套を羽織っている。銀糸の飾り紐が襟元で揺れ、その下の胸当てには、辺境伯家の家紋が刻まれていた。
この屋敷の主、そして忍の“父”――エルンスト・デュラン辺境伯。
「ふん、相変わらず薄汚い小屋だな……」
開口一番、吐き捨てるような声。
目は一瞬、忍を抱くレイナに向けられたが、その目に情はなかった。
「して……子は、生きているのか?」
レイナは静かにうなずいた。
「はい。丈夫な男の子です。しのぶ、と名付けました」
「勝手に名を付けたのか?」
「殿がご覧にならなかったので……」
レイナの言葉に、エルンストは鼻で笑った。
「ふん、どうせ長くは持たん。そなたのような体の弱い女が産んだ子が、まともに育つはずがあるまい」
その言葉に、レイナは表情を変えなかった。
むしろ、穏やかに忍の額を撫で、静かに笑んだ。
「それでも、この子は……泣かずに生まれてきました。きっと、強い子になります」
辺境伯は、つまらなそうに肩をすくめた。
「そうか。せいぜい、今のうちに抱いておけ。……いつどうなるかは、神のみぞ知る、だな」
その目が一瞬だけ、赤子――忍を見た。
だがそこには、父としての情も、関心もなかった。
ただ、“妾が産んだ面倒な子”という存在としてしか、映っていない。
エルンストは踵を返し、戸口へと向かう。
その背を見送るレイナの目には、怒りも憎しみもなかった。ただ、どこか遠くを見るような光が宿っていた。
「……しのぶ。あなたは、この人のようにはならないでね」
その囁きに、忍の小さな手が、母の指をぎゅっと握った。
ご覧いただきありがとうございました。
忍の誕生は、母と老侍女・おたきの思いやりに包まれていましたが、
一方で、“父”である辺境伯の冷ややかな態度が浮き彫りになりました。
「産まれたのに、望まれていない子」――それが今の忍です。
次回は、この家の正妻とその子たちが登場します。
本妻の目に映る妾の子とは。
そして、じわじわと動き出す“排除”の気配に、誰が気づくのか……
どうぞ、次回もよろしくお願いいたします。