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029. 病院馬車・癒しの手は動き出す

神殿の広場に現れた一台の病院馬車。

疑念と驚きに包まれていた人々の目の前で、その小さな病院は確かな「命の光」を示してみせた。

そして午後、移動病院は神殿を離れ、祈りの手が届かぬ場所──小さな集落へと向かう。

その中には、若き神官イリアスの姿。

神術ではない、己の手で癒す初めての挑戦が始まろうとしていた。

神官長の私室には、香炉の煙が静かに漂っていた。


白を基調とした部屋の奥、日差しの入らぬ壁際には古い書棚と、手入れの行き届いた長机。

その机の向かいに、小さな影が腰を下ろしている。


──忍。


整った椅子にちょこんと座る姿は、まるで神殿に迷い込んだ子どものようだ。

だがその瞳は、澄んでいた。揺らぎのない、確かなものを見る眼だった。


「……つまり、お前の話では」

神官長は両手を組み、しばし目を閉じてから、静かに言葉を続けた。


「この“動く病院”が、神殿の医療を、より広く、深く、届かせる鍵になると?」


「はい」

忍は、まっすぐに答えた。


「これまでの医療は、“来る者を待つ”形でした。でも、移動病院があれば、“こちらから行く”ことができる。動けない人にこそ、癒しが必要なんです」


神官長のまなざしが、わずかに柔らぐ。

静かな沈黙のあと、忍はゆっくりと言葉を継いだ。


「それに……神カグヤ様から聞きました。この世界の医療は、まだ“途中”なんだと。神術は素晴らしいけれど、治せるものと治せないものがある。だったら、別の形の“治す手”を、僕たちで届ければいい」


その語り口は、穏やかで、なおかつ確信に満ちていた。


「だから──僕たちは、もう一台、病院馬車を作っています。完成したら、それを神殿に寄贈したい」


神官長の眉が、微かに動いた。


「それほどのものを……神殿に?」


「はい。ただ、お願いがひとつ」


忍は、軽く息を吸い込み、姿勢を正した。


「その病院馬車を託す相手を、決めておきたいんです。イリアス…彼に。彼なら、きっと未来に繋げてくれる」


静かに目を閉じる神官長。

数拍の沈黙ののち、淡く声が返る。


「……だが、彼にはまだ知識も経験も足りぬ。託すには、あまりにも早い」


「わかっています」

忍は微笑を浮かべた。


「だからこそ、これから修行の旅に出てもらいます。旅団の中で、医療班と行動しながら、神技術による睡眠学習で知識を得て、現場で経験を積み重ねていってもらう。……その間は、神殿の往診に、馬車を使ってもらって構いません」


「……なるほど」


神官長は、目を細める。その深く刻まれた皺の奥に、静かな驚きと納得が滲んでいた。


「そしてイリアスが戻ってきたとき、彼がその病院馬車の“院長”になると……そういう約束か」


「はい。神殿の新しい“癒しの顔”として」


窓の外、雲が切れ、わずかに陽が差した。

机の上に置かれた香炉の煙が、その光に照らされて金色に揺れる。


「……面白い子だな、お前は」

神官長の口元が、かすかにほころぶ。


「大人びた小さな体に、随分と大きな未来を詰め込んで」


「器が小さい分、詰めるには工夫が要るんですよ」

忍は、いたずらっぽく微笑んでみせた。


神官長は、ふぅ、と長く息を吐いた。


「よかろう。……その子に、未来の神殿を託すに値するかどうか、見極めさせてもらおう」


「ありがとうございます。

彼はきっと、誰よりも真っ直ぐに、“癒す”という道を歩いてくれます」


その声に、嘘はなかった。



扉が静かに閉まる。

木と真鍮で作られた扉の軋む音が、香の香りの中に、ゆるやかに溶けていく。


神官長は、ひとり残された室内で、しばらく無言のまま座り続けていた。


机の上には、さきほど忍が置いていった一枚の図面──

馬車の内部構造と、魔道炉の簡易解説が描かれたものが広げられている。


老いた指が、その図面の角に触れた。


「……あれほどの技術。しかも、“あの年齢”で……か」


わずかに笑みを含んだ声。

だが、その瞳は真剣そのものだった。


「人は年齢で語るものではない、とは言うが……あれは、言葉も振る舞いも、まるで古の叡者のようだな」


香炉の煙がふわりと揺れる。


「それに──“未来を託す”という言葉を、あれほど自然に口にするとは……」


小さなため息をひとつ。

だがそれは、重苦しさのそれではなかった。


「……この神殿も、変わらねばならぬ時が来たか。癒しとは、ただ与えるだけではなく、歩み寄ることでもあるのだな。

あの少年が、それを教えてくれるとは──皮肉なものだ」


神官長はふと目を閉じ、椅子にもたれた。


その胸中に浮かぶのは、かつて自身が神殿の門をくぐったあの日のこと。

「癒しを与える者」であらねばならぬという、厳格な教えと、理想と、祈り。


それらが、ゆるやかに揺らぎ始めている。


「……さて、我が側仕えの若き者たちは、この波に乗れるだろうか」


その問いには、誰も答えなかった。


だが、空気の向こうで、微かな“光”が揺れた気がした。



「──イリアスを呼んでくれ」


神官長の静かな声が、扉の外に控えていた若い神官を動かした。

ほどなくして、軽い足音とともに入室してきたのは、

先ほどまで移動病院の周囲で興奮気味に話していた張本人──イリアスだった。


「失礼いたします。神官長、お呼びとのことで……」


どこかまだ息が弾んでおり、瞳には輝きが宿っている。


神官長は、それを一瞥し、ゆるやかに手を差し伸べて座るよう促した。


「イリアス。──お前に話しておくべきことがある。いや、これは“頼み”でもあり、“命”でもある」


一瞬、イリアスの背筋が伸びた。


「……はい」


神官長は、机の上に広げられた図面の端を指でとんと叩いた。


「お前が見惚れていた“動く病院”。あれがもう一台、作られようとしている。それが完成した暁には、この神殿へ寄贈されることになった」


「……!」


イリアスの息が止まる。


「だが、あの施設を任せるには、今のままのお前では足りぬ。よって、忍殿たちとともに旅をし、学び、身につけてこい。この神殿に帰るころには、“医療を統べる者”としての姿を見せてみせよ」


「……ぼくが、あの馬車の院長に……?」


呟くような声。だが、それは驚きよりも、決意に近かった。


「はい……やります。絶対に、やり遂げてみせます」


神官長のまなざしに、微かに笑みが宿った。


「うむ。お前は学びに貪欲だ。それを誇れ、イリアス。旅はすぐに始まる。準備をしておけ」


「はいっ!」


イリアスは、深く頭を下げ、勢いよく部屋を出ていった。


その後ろ姿に、神官長は目を細めていた。



静まり返った室内で、神官長はひとり呟いた。


「神に祈るばかりの癒しでは、届かぬ命がある。それを、老い先短い我が身が認めることになるとはな……」


神殿の治療術は、長きにわたり“神より授かる奇跡”であった。

傷を癒し、毒を祓い、魂の苦痛を和らげる“祈り”の力。

だが、それだけでは届かない領域がある。


「それを埋めるのが、“人の手”か……」


静かに机に座したまま、神官長は窓の向こうを見やった。

そこには、石畳の広場と、その中心に停められた“動く病院”の姿があった。


「やがて、この神殿にも“技術者”が立つ日が来るかもしれぬ。祈る者と、動く者。分かれていた者たちが、肩を並べる時代が」


小さく、口の端が上がる。


「悪くはない……な」



「さっきの怪我人、もう意識が戻ったって!」

「中でちゃんと骨を固定したらしいよ!」

「魔道の力で動いてるらしいぞ、あの馬車……」


神殿前の広場は、静かに──しかし確実に、ざわめきが広がりはじめていた。


最初は数人だった見物客が、気づけば倍に膨れ上がり、その輪の中には、包帯を巻いた手を見せながら「診てもらえるかな」と口にする者も出てくる。


「この肩、だいぶ前に脱臼してな……」

「うちの子が咳が止まらんのです。神殿の祈祷では……」


見習いたちは、戸惑いながらも人々を整列させ、病状を確認しながら案内を始めていた。


「では、こちらの馬車の前でお待ちください。順番に診察されます」

「はい、お名前と年齢、それと、症状をお聞かせください──」


神殿側の中堅神官たちも、事態を重く見て広場に出てきていた。

その中の一人が、担架を手伝っていた見習いにぽつりと語る。


「……神の祈りは、確かに多くを癒してきた。だが、こうして人の手で確かに治る姿を見せられると──

何かが変わっていくように思えるな」


「はい……今朝まで、馬車の中が病院だなんて、想像もしませんでした」


見習いが頷く。

その声には、驚きだけではなく、ある種の“誇らしさ”も混ざっていた。


「自分がこの目で見たものを、信じたいです。…あれは、“神の奇跡”ではないかもしれませんが、

人が、人を救おうとする力そのものなんだと思います」


神官は目を細め、その若者の肩を軽く叩いた。


「信じるに値すると思うなら、それを守れ。祈りだけが癒しではない……か」


馬車の内部では、次の患者が診察台に横たえられていた。

消毒、視診、触診、器具の調整……一連の流れは、まるで都の医療院で見るかのような手際だった。


そして、その様子を離れた場所から、じっと見つめているひとりの青年がいた。


イリアス。


その目は、もはやただの“興味”ではなかった。

むしろ、憧れと、それ以上の何かが宿っていた。


(……これが、医療。神の祈りでは届かない場所に、届く手)


遠く、馬車の後部の排気管から立ち上る魔道炉の蒸気。

整備をしている作業頭・コーサが、少し離れた地面に座って頬をぬぐっている。


(この力を、ぼくも手にしたい。ただ見て驚く側ではなく、誰かの命に触れられる者として)


胸の奥が熱を帯びていく。


(だから……行こう)


見上げた空は、まっすぐに高く。

その遥か上では、誰にも見えぬ祝福の女神が、微笑んでいた。



神殿の広場の一角、診療の順番を待つ人々の影が長く伸び始めた午後。


人々のざわめきの向こう、神殿の石柱の陰に、小さな背中がひとつあった。


──忍。


白衣の上に薄手の外套を羽織り、手には診療予定のリストが握られている。


その前に、静かに歩み寄ってきた者がいた。


「忍さん」


声をかけたのは、イリアス。

白い神官衣の裾をわずかに汚し、額にはほんのり汗を浮かべたまま。


「ん。来ると思ってたよ」


忍は、微笑みを浮かべて振り向いた。

それは、すでに全てを知っていた者の眼差しだった。


「……神官長から、お話は伺いました。ぼくを、修行の旅に出すと」


「うん。そして君自身も、もう心は決まってる。違う?」


イリアスは、わずかに唇を引き結び、深く頭を下げた。


「学びたいんです。癒しが祈りだけでなく、手で、技で、心で届くというのなら、そのすべてを、自分の目で、手で、確かめたい」


「……その言葉を聞けて、嬉しいよ」


忍の声は優しく、どこか“師”の響きを含んでいた。


「なら、さっそくだけど、午後からの訪問医療に同行して」


「えっ、今日ですか?」


「何か不都合でも?」


「……いえっ!」


イリアスは、やや慌てたが、すぐに笑みを浮かべて頭を下げる。


「ありがとうございます。すぐ準備します!」


「もう準備はいいでしょ。朝から馬車に入り浸ってたくらいなんだから」


からかうように目を細めた忍に、イリアスは苦笑を漏らした。


「……はい。何がどこにあるか、大体覚えました。ストレッチャーの固定金具の位置も」


「さすが、見込み通り」


忍はくるりと背を向け、病院馬車の方へと歩き出した。


「君が向かう場所は、神殿に来られなかった人たち。祈りに届かなかった声に、手を差し伸べる最初の一歩だよ」


「……行ってきます。忍さん」


「うん、気をつけて」


忍は、振り返らずに軽く手を振った。


午後の陽光が、石畳に長い影を落とす。

イリアスはその影を越え、病院馬車の扉を開いた。


そして、新たな“癒しの道”を、その足で踏み出した。



午後、日が傾きかけた頃。

移動病院は、神殿から南へ小一時間ほど離れた丘のふもとにある小集落へと到着した。


道は細く、舗装もされていない。

神殿に通うにはあまりにも遠く、歩いて行ける住民は限られていた。


「ここが最後の地区ね。往診に来たのは……ずいぶん久しぶりって言ってたわ」


アマリアが、軽く汗を拭いながらイリアスに声をかけた。


「ここで……僕にできること、ありますか?」


「あるわ。ちょうど、処置の練習にもなると思う。こっちへ来て」


イリアスは頷き、白衣の上に神官衣を羽織った姿のまま、馬車から降りた。


診察のために設けられた簡易テントの中、

最初にやってきたのは、小さな少女とその母親だった。


「この子、昨日からずっと熱があって……膝を擦りむいてから、悪化してる気がして……」


少女の膝は赤く腫れ、中心にはわずかな膿。

表情はぼんやりとし、額には汗。


「軽度の化膿ですね。消毒と、膿抜き、それと解熱処置を──」


言いかけたアマリアが、そっとイリアスを見た。


「……やってみる?」


イリアスは驚きながらも、静かに頷いた。


「はい。やります。教えてください」


「じゃあ、まずは滅菌手袋。消毒用アルコールとガーゼ。

膿を出すときは、子どもの痛みと恐怖に配慮して──」


手順を聞きながら、イリアスは一つひとつの動作を慎重に進めていく。

消毒のとき、少女がぴくりと震えると、彼は手を止め、そっと微笑んで声をかけた。


「大丈夫だよ。神様の手じゃないけど、すぐによくなる。

ぼくが約束するからね」


少女は不安そうに目を見開き、やがて、うなずいた。


小さな膿の袋を針で穿ち、ガーゼで吸い取る。

消毒を終え、軽く包帯を巻く。


処置が終わったころには、少女の額の汗も引き、母親が深く頭を下げた。


「まさか、こんな場所で、神殿の方に助けてもらえるなんて……」


「いえ、ぼくはまだ修行中です。でも……癒すために来ました。ここまで」


少女が、イリアスの指先をそっと握った。


「ありがとう、神様」


イリアスは、胸の奥が熱くなるのを感じながら、そっとその手を包んだ。


──祈りでなく、手で癒した。


その実感が、彼の中に確かに刻まれた瞬間だった。


テントの外、斜陽が地面を染めていた。

“動く病院”の赤い十字が、その陽にきらめいていた。

初めての処置。

初めての痛みに触れ、初めて“ありがとう”を直接受け取ったイリアス。

それは、神殿での修行では得られなかった実感だった。

癒しとは、祈りだけではない。

そう教えてくれたのは、小さな傷を負った少女と、その手を握ってくれた小さな命だった。

まだ始まったばかりの旅。

次回、訪問医療の続きで、イリアスがまた一歩、未来へ進む。

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