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026. クラズ神殿 夜明けの交渉と、啓示の声

かつて神々を祀ったその場所は、いま、静かな再生の刻を迎えようとしていた。

馬車を連ねた移動団は、次なる逗留地として、旧神殿跡地への滞在を望む。

だが、その地を守るのは、神殿の掟と秩序。

朝霧のなか、ひとり神殿を訪れたユーリの交渉。

そして、新たな世代の若き神官が見た、素直な心の在りよう。

神と人との交わりの中に、静かに灯る新しい火を描きます。

夜明け前。まだ星が残る空を背に、ユーリ・ナカムラは静かに馬を走らせていた。


足音が露を弾き、草の間を割る。遠く、夜の闇に沈んでいた山影の向こうに、神殿の尖塔がわずかに姿を見せる。空は薄紫から青へと変わりつつあった。


彼の腰には、神殿への入域許可書。そして、古の祠──海を見下ろす石の祠──を数日間、使用させてほしいという請願書が収められていた。


馬がひと声いななく。道の先、重厚な石の門扉が見えた。


クラズ神殿──

かつて海と森を見守った聖域にして、今なお信仰と知識の拠点であり続けるこの場所には、朝から静かな祈りの声が響いていた。

長い石階段を登り、神殿の門前に立ったユーリは、軽く息を整えると、衛士に申し出る。


「外部交渉官、ユーリ・ナカムラ。急ぎ、神官長にお目通りを願いたい」


しばしの沈黙ののち、重い扉が静かに開いた。


神殿内は石造りの静寂に包まれていた。ろうそくの灯りが天井のモザイクを淡く照らし、整然とした列柱の奥、椅子に座るひとりの老人が、ユーリを見つめていた。


クラズ神殿の神官長──グレゴール。

長く白い髭をたたえたその男は、威厳とともに、どこか柔和さを持つ目をしていた。


「旅の者よ。何を求めに、我が聖域を訪れたのか」


その問いに、ユーリは一歩進み、深く頭を下げる。


「私たちは、療養のために移動中の団を率いております。多くは病人、老人、そして幼い子どもたち。

この地の海を見下ろす“石の祠”、旧神殿の跡地を、数日間お借りしたく、願い出ました」


神官長のまなざしが、静かに鋭さを増す。


「……難民、か。あるいは、国を捨てた逃亡者にも見える。

クラズ神殿は、秩序と信の拠り所。このような者たちを受け入れれば、波紋が立つ」


「確かに、誤解を招く動きかもしれません。

ですが、我らは許可を得て旅をしています。国を害する意図もなければ、神殿を穢すような行為も致しません。

どうか、彼らに、ひとときの憩いを──それだけでも」


沈黙が落ちる。


神官長は目を閉じたまま、微かに顔を左右に振る。

その唇が、「許可するわけには……」と呟こうとした──その瞬間だった。


世界が止まった。


蝋燭の火が揺れるのをやめ、神殿に差し込む朝の光が凍ったように感じられた。

ユーリの声も、護衛の動きも、空気すらも動かない。


ただひとり。神官長グレゴールだけが、その異変に気づいていた。


「……これは……?」


その胸の奥に、ふと、あたたかな光が灯る。


── “グレゴール。目を開きなさい”


声が、響いた。だがそれは耳ではなく、魂に届くものだった。

女の声。若く、静かで、そして抗えぬ力を持った響き。


── “この者たちを受け入れなさい”


── “この者たちのなかには、世界の行く末を照らす灯がある”


── “クラズ神殿は、彼らとの出会いにより、古より伝わる知と繋がり、もう一段、神の座へと昇るだろう”


光が、神官長の心を包み込んだ。

思考ではなく、理解だけがそこにある。


やがて、風が再び動き出し、蝋燭の火が揺れた。


「……わかった」


神官長の声は、以前よりも穏やかだった。

視線を戻し、彼はゆっくりとユーリに言った。


「古の祠を──いや、“石の祠”を、そなたたちに貸し与えよう。

ただし、あの地を穢さぬこと。祈りと静謐を乱さぬこと。

それが叶うなら、幾日でも滞在を許す」


ユーリは息をのんだ。


──あれほど渋っていた神官長が、なぜ……?


だが、深く詮索することはしなかった。ただ、頭を下げる。


「感謝いたします。神官長殿、そしてクラズの神に──」


彼の背には、神殿の高窓から差し込む朝陽。

すべてが、祝福のように感じられた。



荘厳な扉が閉じられたあとも、神官長グレゴールはその場を離れず、しばし静かに立ち尽くしていた。


背後、東の高窓から差し込む陽が、床の模様に黄金の光を落とす。

グレゴールは静かに歩み寄り、窓辺に立った。


眼下には、神殿を囲む石壁。その向こう、馬に乗り遠ざかるひとりの男──ユーリ・ナカムラの背。


背筋を伸ばし、揺るぎなく、遠くを見つめながら馬を駆るその姿に、グレゴールは小さく頷いた。


「……導かれし者、か」


その背後から、静かに足音が近づく。神殿付きの若き神官、ナセルである。


「神官長様、先ほどの……ご判断について、お伺いしてもよろしいでしょうか」


グレゴールは顔を向けずに言う。


「……あの地を貸すことに、異を唱えるのかね?」


「い、いえ……ですが、あの者たちは、明らかに、辺境から流れてきた一団。

なぜ、“海を見下ろす石の祠”を……神聖なあの場所を、お貸しになったのか。

私には……理解が……」


ナセルの言葉が続く前に、グレゴールはわずかに微笑み、静かに口を開いた。


「神より、啓示があった」


「……!」


ナセルが、目を見開く。


「“あの者たちを受け入れよ”と、確かに、我が心に届いた。

“彼らとの出会いは、クラズ神殿に、新たな知と繋がりをもたらす”とな」


言葉に重ねるように、風が静かに窓を吹き抜ける。

神官長の白い髭が、かすかに揺れた。


「驚いたかね?」


「……はい。まさか……神官長様が、直接、啓示を……」


グレゴールは背を向けたまま、わずかにナセルの方へと視線を流す。


「ならば、自ら見てくるといい。あの者たちのもとへ、行ってみなさい。

記録でも伝聞でもない、“目の前の真実”を、その目に」


「私が……?」


「ああ。若い者こそ、見るべきだ。

──汝の心に、何が届くか。それを神は、待っておられるのだよ」


ナセルは、はっと息を呑み、その場で膝をついた。


「……承知いたしました。神の御心と、神官長様の御導きに従い、

この身で、その光を確かめて参ります」


グレゴールは、初めて柔らかな笑みを見せる。


「良い旅になるだろう。

気をつけてな、ナセル。あの者たちは──ただの旅団ではない」



ナセルは朝の光に包まれながら、慎重に身支度を整えていた。

布製の外套に革の履き物、肩には神殿印を刻んだ巡回用の短杖。


「……旧神殿跡地へ行くなど、いつ以来だろうか」


呟いた声は、誰に向けたわけでもない。

幼い頃に神官見習いとして赴いた記憶が、遠く霞のように浮かぶ。


彼の歩む道は、かつて神官たちが修行に向かった巡礼路。

石畳はすでに苔むし、道を覆う草花が彼の足に柔らかく絡んだ。


山を越え、小さな谷を抜ける。やがて、視界が一気に開けた。


そこは、「海を見下ろす石の祠」──かつて神の言葉が降りたとされる場所。

今では崩れかけた石の土台だけが残り、その上には風が通り抜けるだけ。


「……たしかに、聖域の空気は残っている」


ナセルは祠の中央、かつて祭壇のあった石の平面に立ち、

そっと指先を添えた。石は冷たく、しかしどこか“目覚めて”いるように感じられた。


その時だった。


山側の峠の向こうから、かすかな振動が地面を通じて届いてきた。

ナセルは顔を上げる。


見えたのは、馬車だった。荷を積んだ、一般的な商人の一台──

そう思ったのも束の間。


その後ろから、もう一台。さらにもう一台。

そしてその脇には、ゆっくりと歩む人々の群れ。


──これは……


思わず息を呑むナセル。


“旅団”などという言葉では収まりきらない、静かで、しかし確かな力を感じさせる一行。


それぞれの馬車には工夫が施され、布で覆われた窓の向こうには、横たわる病人の姿がちらりと見える。

先導する馬車の一台には、青い帯を締めた女──神官長が言っていた、団長だろうか。


続いて、幼子ほどの背丈の人物が馬車の横を歩いている。

だがその眼差しと歩調には、齢不相応の風格がある。


ナセルの胸の奥に、何かが鳴った。

それは不安でも恐れでもなく──ただ、静かな“衝撃”だった。


「……神官長様の言葉は、真実だったのですね」


口の中でつぶやいたその言葉は、風にさらわれ、祠の残骸の間に吸い込まれていった。


一行は、確実にこの場所へ向かっている。

ナセルは深く息を吸い、外套の襟を正し、彼らを迎える準備を整えた。



風が止んだように感じられた。

祠のまわりを包む朝の空気は、清らかで、それでいて張りつめた静謐を保っていた。


神殿跡地に立つナセルの耳に、またひとつ蹄の音が届く。

緩やかな坂を下り、古き敷地の入り口へと馬にまたがった者たちが現れた。


やがて彼らは、神殿の門標を前にして、自然と馬から降りた。

その動きには、教えられた所作ではなく、刻み込まれた“敬意”が滲んでいた。


ひとり、またひとり──

馬の頭を軽く撫でたあと、彼らは足を揃え、頭を垂れた。

まるでこの場所に宿る「何か」へ、手向けるかのように。


ナセルは、その所作に言葉を失った。


まだ正式な歓迎の声もかけぬうちに、一団の中から数名が自然と前に出て、

崩れた敷地の縁を手際よく掃き清め始める。


古き神殿の礼法をなぞるように、焚火の位置、休憩のための布張りの場所、そして祭壇跡に向けた歩行の通路を、

順序正しく整えていく。


「……これは……」


ナセルの唇から漏れた声は、風に消えた。


馬車が、ひとつずつ後続して坂を下ってくるたびに、

誘導の者が立ち位置を指示し、驚くほど静かに配置されていく。


驚いたのは、子どもたちの振る舞いだった。

歩いて到着した者たちは、まるで訓練されたように手を洗い、衣服を整え、

簡単な礼をしてから列を作っていた。


その小さな背の並びに、何か“祈りの形”を見た気がした。


「この地をお借りする──その意味を……知っているのか、彼らは……?」


呆然と見守るナセルの胸に、静かに何かが満ちていく。


──新神殿で学び、文字を知り、式次第を記憶した若者たち。

だが、もしこの者たちが“教わらずとも心で理解している”とするならば……


「……見せたい」


心の奥から、ぽつりと湧いた声。


「新神殿の若者たちにこそ、見せたい……この姿を……」


それはナセルが初めて抱いた、学びへの願いだった。

神の教えを“ただ守る”のではなく、“生きた形で伝える”者たちが、ここにいた。


神官長が語った「得るもの」とは、知識ではなかったのかもしれない。

それ以上の“在り方”──それを、彼は目の当たりにしつつあった。



陽が、祠の影を長く引き始めていた。

朝の柔らかさがわずかに抜け、空気に清浄な緊張が帯びている。


ナセルは、かつて祈禱台が据えられていた石の区画に立っていた。

その場所は、神殿の教えにおいて「神より託宣を賜る場」とされており、

来訪者を迎え入れる際の正式な位置として、神官であれば当然のように定められている。


──たとえ祠の建物は失われようとも、

石の上に残る「神の気配」は、律の定めを失ってはいなかった。


風が通り抜け、崩れた柱の影がその足元に揺れる。

ナセルは姿勢を正し、杖を静かに地に立てた。


その時、背後から足音が聞こえた。

軽やかだが、躊躇いのない歩み。振り返らずとも、それがこの地の使者であると察する。


「神官殿、お連れしました」


穏やかな声。ナセルが静かに頷くと、その男は脇へと一歩退いた。


そして、その隣に並ぶひとりの女性が姿を現す。


風をまとった白衣の上に、淡い青の旅衣を羽織る女性──

肩までの黒髪は風にそよぎ、背筋は真っ直ぐ。

だがその表情の奥には、疲労と、ひとつの決意が混ざり合っていた。


「……私は、レイナ・アマミ。療養の移動団を預かる者です」


澄んだ声だった。張り上げるでもなく、低めるでもなく、

この地に“許し”を乞う者として、真摯な声だった。


ナセルは、その姿にしばし言葉を失う。


彼女の周囲には、力も、誇りも、過去の傷も感じられた。

けれど、最も強く感じられたのは、「誰かを背負っている者の気配」だった。


それが、神に仕える者として胸を打った。


「……私はクラズ神殿、第二階の神官──ナセル・ハユムと申します」


名乗りを返すと同時に、ナセルは祈禱台の前に片膝をつき、手を重ねた。


「この地に、祈りと治療の場を求めし者よ──

神殿の定めに従い、ここに心を預け、真の意を示されよ」


それは、神殿の迎え入れにおける正式な“問い”。


レイナがどう応じるかは、彼女次第だった。

だがナセルは、直感的に知っていた。

この者は、形式だけで動く人間ではない──“心”で動く人間なのだと。


そして、この出会いはまだ始まりに過ぎない。

クラズ神殿と旅団との交わりの火が、ここに灯るのをナセルは確かに感じていた。



「この地に、祈りと治療の場を求めし者よ──

神殿の定めに従い、ここに心を預け、真の意を示されよ」


ナセルの問いかけは、静寂を割ることなく空へと解き放たれた。


その言葉を受けたレイナは、一歩、祈禱台に近づき、膝を折る。


「我らの道は、争いを避け、癒しを求めるものです」

「この地に宿を乞うは、病と傷を抱えた者たちを、少しでも安らかに運ぶため」

「どうかこの場所を、静けさの許される場として、神の御目に叶うように──」


その声に、虚飾はなかった。

言葉を尽くすよりも先に、心が語っていた。

ナセルは、それを“感じた”。


神に仕える者として、誓いを立て、数々の祈りを聞いてきた。

その中でも、この声は…この女性は…まぎれもなく「素直な心」で在った。


「……神の御目は、きっと届いております」

ナセルは、立ち上がり、静かに言葉を返した。


「すでに、神官長より“逗留を許可する”旨の言葉を預かっております。

あなたがた一行がこの場所を正しく扱うと、神もまた認めておられる」


レイナは小さく目を伏せ、深く礼をした。


ナセルもまた、儀礼に則って軽く杖を前に差し出す。

そして、そのまま語りかけた。


「差し支えなければ──お話しいただけますか?

この旅の先に、何が待っているのかを」


レイナは一瞬、瞳を細めた。

だがすぐに、口元にほのかな笑みを浮かべる。


「……私たちの旅の終わりは、まだ先です」

「けれど、“中継地”となる場所が、今、対岸にあります」


ナセルが顔を上げる。


「対岸……と申されますと、あの島……?」


「はい。かつて、流刑地とされた島」

「ですが今、その対岸には、私たちの仲間が新たな港の建設を進めています。

療養地として、交易地として──私たちは、そこに暫し留まり、

いずれ“海の向こう”を目指すのです」


「海の……向こう」


ナセルの声に、わずかな揺れが混じった。


クラズ神殿においても語り継がれる「海の向こうにあるもう一つの大陸」。

それは古の神書にある“無限の地”。

だが現実では、語り草に過ぎず、多くの神官ですら半ば伝説と見なしていた。


「……あの地を、本気で目指しておられるのですね」


レイナは頷いた。


「ええ。私たちは、道半ばの者たちです。

けれど、生きたいという願いを、誰もが胸に抱いている」

「だからこそ、この場所で、馬車の改良を行いたいのです」


ナセルの視線が、レイナの背後の馬車列へ向いた。

いくつも連なる木製の車体。

その一台一台が、荷ではなく“命”を運んでいるのだと、今なら理解できた。


「我らの持つ馬車では、病の者を運ぶには不十分でした。

この祠で、必要な改良を施し、全員が安全に次の地へ進めるようにしたい。

そのための時間を、ここでいただきたく──」


「……よいでしょう」


ナセルは、穏やかに頷いた。


「あなた方の行いは、すでに“神殿の規律”に則ったものであり、

我が神官長は、その旅の価値を、神の啓示によって知っておられる」

「ならば、我らが拒む理由は、もはやありません」


そして静かに、微笑みを浮かべた。


「この祠での滞在が、あなたがたの旅路にとって

少しでも良き糧となりますように」


レイナもまた、静かに頭を下げた。


こうして、クラズ神殿と移動団との“交わり”が、確かに始まった。

それは、祠に眠る古き神々もまた、静かに見守る、未来への一歩であった──。

「この者たちを受け入れよ──」

神の声は、時を止めて、確かに神官長の胸に届いた。


クラズ神殿は、その声に従い、旧神殿跡地を移動団に開放することを決断。

逗留を願うレイナの言葉に、若き神官ナセルは“素直な心”を見出し、

その旅の意味に深く心を動かされる。


かつて神々を祀った石の祠。

今は静けさの中に、新しい意味を宿しつつある。

この小さな交流が、やがて訪れる大いなる変化の始まりとなる──

その瞬間を、読者の皆様と共に、見届けられたら嬉しく思います。


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