025. 火をつなぐ手、遠くの声と図面の灯
静まった野営地に、再び火がともる。
忍の静かな声に応じて、眠っていた職人たちが目を覚まし、工具を手に集い始める。
その手に託されたのは、命を運ぶ“かたち”――。
そしてその願いは、遠くアデン湾の海底にも届いた。
神通信を通じて繋がった設計者たちの眼差しは、
現地の砂埃を想像しながら、迷いなく線を引く。
火の粉のように、意志が舞い、光となる夜。
この一話は、「遠く離れた場所で、同じ未来を見ている者たち」の記録。
焚き火の赤が背中に遠ざかっていく。
忍は、マントをきゅっと引き寄せて、夜の野営地を歩いていた。
足元には砂利と草のまじった道。ときおり馬の鼻息が聞こえ、幌の奥から誰かの寝返りの音が漏れる。
空には雲がかかり、星はわずか。
風は冷たく、けれど不思議と心は落ち着いていた。
──誰を起こそう。
──誰なら“作れる”か。
忍の記憶は確かだった。旅団の中には、装備を自前で直してきた少年兵がいる。
支援隊には隊商出身の木工職人、移動団には、かつて技術局にいた老人もいたはずだ。
「……失礼します」
そう言って、まず最初に足を止めたのは、荷車のそばに張られた簡易テント。
そこには、ユーリから聞いていた“支援隊の車輪整備士”が眠っている。
布を少しだけ持ち上げて、声をかける。
「コーサさん、起きていただけますか?」
もぞ、と音がして、荒い息とともに太い腕がのびる。
「……なんだ、もう朝か……?」
「いえ、まだ深夜です。でも……病人を運ぶ馬車を、あなたの手で直してほしいんです」
しばらく沈黙があり、やがて顔を出したのは、髭面の中年男。
眠そうな目で忍を見つめ、そして静かに頷いた。
「……任せろ。起きたからには、仕事する」
「ありがとうございます。焚き火の前に集まってください」
忍はそう告げてから、次のテントへ向かう。
その足取りは軽やかだった。
旅団側では、日々の矢筒や食器を直していた少年カリム。
移動団の荷台修理を請け負っていた老木工のヤスじい。
かつて砦で棚を作り続けた職人肌の寡黙な男、ギョーム。
さらには、鍛冶師見習いの少女リュカ。小柄ながら手先が器用で、旅団では包丁研ぎの名人だった。
ひとりずつ、名を呼び、そっと肩を叩く。
眠たげな瞳の奥に、最初は戸惑いがあった。
けれど忍の声に、目的を聞いた瞬間、誰もが一様に目を見開いた。
「……人を乗せるための馬車か」
「衝撃を減らせばいいんだろ? 揺れを受け流す布地と横木……」
「車軸は外せないけど、支えを追加すればいけるはずだ」
「おお、これはおもしろい仕事になるぞ」
それは、命を運ぶための、静かな召集だった。
声を荒げずとも、人は動いた。
寝巻のまま上着を羽織り、毛布を抱えたまま肩を叩き合いながら、焚き火へと向かう者たち。
そして、焚き火の前に並び立つその姿を見て、レイナが小さく呟いた。
「……集まったのね、あの子の呼びかけだけで」
イオスがにやりと笑う。
「隊長たるもの、言葉で人を動かすな。行動で、人の“覚悟”を引き出すんだ」
ユーリは頷きながら、スクリーンに表示された設計図を確認する。
「作業班、揃いました。改良開始、可能です」
忍が、最後尾から静かに焚き火の輪に加わる。
「母様。……これで、動かせます」
レイナはゆっくり頷いた。
「ええ……ありがとう、忍。みんなを連れていく手段が、ここに生まれたのね」
小さな火が、大きな炎へと変わるその夜。
馬車の荷台に、ただの物資ではなく、人の命が乗る未来が、静かに動き出していた。
※
焚き火の輪が広がっていた。
その中心に、馬車が一台――支援隊から運ばれてきた荷物用の中型馬車が、すでに枠組みだけの姿で鎮座している。
周囲には、毛布を肩にかけた職人たち。
それぞれが道具を持ち寄り、炎の明かりを頼りに、音を立てずに手を動かし始めていた。
夜の野営地の一角だけが、別世界のようだった。
眠る者たちの静寂を壊すことなく、それでいて、確かに“目覚めている空間”が、そこにあった。
忍は、焚き火の少し外側からその様子を見守っていた。
カリムが、細身のノコギリを器用に使って、馬車の内壁を一部削っていく。
「ここをちょっと落として……段差をなくせば、布がきれいに渡るはず」
ギョームは、無言のまま金槌で支柱を軽く叩き、音の反響で“締まり具合”を測っている。
小さく頷くと、手元のくさびを抜き取り、新たな角材を差し込んだ。
ヤスじいは、細く削った竹の骨材を数本束ね、即席のサスペンション構造を考案していた。
「ただ寝かせるだけじゃ、振動で腰が砕ける。下から揺れを逃がしてやらにゃな」
少女リュカは、古い帆布を短刀で丁寧に裁ち、布の端を縫い合わせている。
彼女の膝の上では、補強材となる皮の帯が編まれていた。
火の粉が空に上がるたび、誰かの影が馬車の木枠にかかる。
ユーリは手を貸しながら、作業手順の確認と物資管理を担当していた。
「替えの釘は三本まで。木のくさびで代用できるところは、なるべく切り出して。あとはロープの張力を均一に」
焚き火のそばには、設計図の転写板が置かれ、アデン湾から送られた“即席改良図”が何枚も展開されている。
ハルマたちの手書きと思われる図面には、寸法、荷重分散、布地の張り方まで、余白を埋めるようにびっしりと書かれていた。
「これ……ほんとに一晩で描いたの?」
レイナが、驚きを隠せないまま忍に尋ねる。
「はい。向こうでは徹夜の作業が続いてるそうです。こっちが動けば、あっちも“繋がってる”って、思えるって」
レイナはその言葉に、そっと笑みを浮かべた。
「すごいわね。離れていても、こんなにも心が届くのね」
「うん……“つながる”って、すごいことなんです」
そのとき、ふいにカリムが手を止めた。
「おい、ギョームじい。これ、力のかかり方、ちょっと変えた方がいいかも。支柱の角度、あと一度くらい起こせば……」
ギョームが短く「見せろ」と言い、ひょいと木槌を持ってそちらに移動する。
その背中が、若者に頼られる喜びを語っていた。
作業のあいだ、誰も無駄な声を出さない。
けれど、打ち合わせのささやき、木を削る音、釘を打ち込む乾いた音――それらすべてが“調和”していた。
まるで、夜の中に一つの“合奏”が生まれているようだった。
イオスは、そんな様子を見ながら、手に持っていた木杯の中身をすすった。
「ふむ……この音だ。これが、かつての砦でもよく聞こえていた。戦の準備ではなく、“生きるための手”が動いていた時の音だ」
「……同感です」
ユーリもそっと頷いた。
「無理に命令しなくても、目的があれば、人は動ける。
この場にいる者たちは、そういう心を持っているんでしょうね」
レイナは、思わず声を漏らす。
「……ありがとう。あの子が動き出したから、みんなが応えてくれてる。
わたし……何かを、手放すのが怖かったのかもしれない。自分の役目も、誇りも……“母”であることすら」
ユーリは、それには答えず、ただ肩越しにレイナを見つめた。
そしてぽつりと、呟く。
「いえ。レイナさん。あなたは、“護る形”を変えただけです」
夜風が、静かに帆布を揺らした。
その音の先に、着々と組み上がっていく一台の馬車。
それはもう、物を運ぶための道具ではない。
“命を連れていくための船”になりつつあった。
忍は、完成に近づいたその姿を見て、胸の奥で何かがふっと灯るのを感じた。
これで――皆を、運べる。
この馬車に乗せて、誰一人取りこぼすことなく、次の地へ。
その決意が、夜の焚き火と同じように、消えることなく燃えていた。
※
夜が、うっすらと白んできた。
空の東の端、黒海の水面が仄かに明るみ、焚き火の炎と空の色が交差する。
夜通し続いた改良作業は、ついに終わりを迎えようとしていた。
カリムが、最後の横木を金具で固定し終えると、ギョームが短く合図を送り、木槌を置く。
「……これで、五台目」
その声に、作業にあたった者たちの肩が、ふっと緩む。
帆布の内張り、吊り床の構造、身体を支える横木とロープの張力。
それは即席ながら、明らかに「人を運ぶため」の形へと姿を変えていた。
リュカが、最後の帆布の縫い目を指でなぞり、目を細める。
「……これで、揺れも少しは楽になるはず。眠れるといいな……あの人たちが」
静かな祈りのような言葉だった。
忍は、その後ろ姿を見つめながら、小さく頷いた。
「みんな、ありがとう。……これで、運べる」
焚き火に新しい薪がくべられた。
その光が、まだうす暗い空に向かって、ふわりと立ち昇る。
その炎は、夜明けの空にとけるようにして――
朝の光と交わっていった。
※
レイナが、湯気の立つ木の椀を手に、焚き火の前に座っていた。
肩には外套。目の下には疲れが見える。
それでも、そのまなざしはしっかりと前を見据えていた。
その横で、ユーリが木板に鉛筆を走らせている。
イオスは地図と人員リストを突き合わせながら、唸るように声を出した。
「……総数、およそ百五十名。うち、およそ四十が子ども。三十が高齢者。
病人は現在、軽症も含めて六十を数える。移動団だけで、だ」
「旅団の一部や支援隊の同行者を含めると、百七十強にはなりますね。
ただし、旅団側は徒歩前提の構成なので、全員乗せる必要はないとして……」
ユーリが木板を掲げた。
「病人と高齢者、歩けない幼児を“寝かせて運ぶ”対象とした場合、優先搭乗人数はおおよそ……」
「五十、ですね」
忍が、すっと口を挟んだ。
「寝かせられるように作った馬車は、最大で四人。無理をすれば五人、でも負担が出ます。
五十人を安全に運ぶには――最低でも十三台が必要です」
その数字に、一瞬静寂が落ちた。
レイナが、そっと膝の上で両手を握る。
「……今、完成しているのは五台」
「まだ八台、改良が必要です」
イオスが低く頷く。
「だが、できる。“設計図”がある。道具も、人手も、今ならある。
休息を挟みながら、あと二晩あれば、足りるはずだ」
「……ええ。でも、もう後には引けませんね。全員、乗せていくって決めたんですから」
レイナが、強く言った。
夜が明けていく。
朝の冷気が肌を撫でるが、そこには不思議と、背筋の伸びるような“熱”があった。
皆が黙って、馬車の並ぶ方向を見つめる。
その先にあるのは、まだ遠いソチ、そして海の向こう――アデン湾。
けれど、まずはこの丘を越え、一日を進める。
誰も取りこぼさずに。
忍が、小さく呟いた。
「“移動団”って、動かすんじゃなくて、“動いていく人たち”って意味なんですね」
レイナが、それに微笑む。
「ええ、そうね……私たち自身が、“旅をつくってる”のかもしれない」
空が、白から薄い青に変わる。
そして、新しい一日が、音もなく始まった。
※
眠りの国からは、遠く離れた場所だった。
アデン湾の南端、湾口近くに設けられた第三区技術ブロックでは、深夜にも関わらず照明が消えることはなかった。
人工照明の下、海底の透明な管を通って流れ込む潮のうねりが、まるで地上の風のように揺らめく。
工房の中央では、十人ほどの技術者たちが、工具と設計図に囲まれたまま作業を続けていた。
カン、カン、と鋼を叩く音。
クレヨンで走る線、開いた図面を指でなぞる声。
だがそのすべてが、妙に落ち着いていた。
ここは戦地ではない。
けれど――確かに、命を運ぶ「前線」とつながっている。
その空気を変えたのは、突然浮かび上がった神通信の光だった。
「……スクリーンだ。来たぞ、また夜中に!」
奥から声が上がり、数人が手を止めて一斉に振り返る。
現れたのは、焚き火の光に照らされた小柄な少年の姿だった。
《こちら、忍です。技術部の皆さん、夜分すみません。》
工房中央のスクリーンに、忍の映像が映し出された瞬間、
それまでだらけていた肩が一気に上がった。
「夜中? 馬鹿言うな、こっちはまだ“働き足りねえ”くらいだ」
そう言って笑ったのは、設計主任のハルマだった。
分厚い作業エプロンを身に着け、シャープペンを耳に挟んだ髭面の男。
「どうした、また何か足りないのか?」
《……馬車の改良です。人を寝かせて運ぶ構造に。今あるものじゃ、体がもたない。》
ハルマの顔が一瞬真顔になる。
「……そうか」
そのひとことだけで、工房内の空気が張り詰めた。
スクリーンに表示された現地の馬車の様子。
木の骨組み、直線的な荷台、布の内張りもない粗末な作り――
それは物資を運ぶには足りても、病人には過酷すぎる構造だった。
「横木を渡して吊り床にできそうだな。支柱の間隔、こっちで調整する」
「揺れを吸収するには……竹材を分割して重ねるか、布のテンションでしならせる構造」
「皮ベルトとロープはあるって言ってたな。じゃあ荷重分散もいける」
それぞれが図面にペンを走らせながら、口々に答えていく。
ハルマは、現場にある馬車の実寸をスクリーンで受け取ると、即座に複写紙に投影した。
その上に寸法を書き込む。指示線を引く。丸と矢印が交差し、空白が埋まっていく。
「……カグヤ様はよ、なんでこんなガキに神通信の鍵を預けたんだ?」
誰かがぼやいたようにつぶやく。
その声に、ハルマは苦笑した。
「ガキ、ねぇ……」
図面の隅に、小さく「寝かせる命を守るための構造」と書き添えてから、彼は言った。
「あの子の声には、こっちが“背筋伸ばしたくなる”何かがあるんだよ。年齢じゃない。“火”だ」
他の者たちが頷いた。
「まったく。あれで隊長か……惚れ惚れするな」
「昔のうちの長官にも見せてやりたかったぜ」
「無茶振りしてきてもいい。俺たちゃ作るだけだ。手を動かして、繋げるだけだよ」
そんなやりとりの中、あっという間に最初の共通改良図面が完成した。
ファイルがスキャンされ、神通信の面に送信される。
《忍、見えるか? 今出したやつ、まずはこれで五台ぶん改造できる。
素材が足りなきゃ、現地の竹か布を加工して応用してくれ。応用案も送っとく》
《……受け取りました。ありがとうございます、ハルマさん》
その言葉に、ハルマはくっと片眉を上げた。
「礼なんて要らねぇ。……そっちが“全員運んだ”って報告くれたときにだけ、聞いてやるよ」
画面越しに、誰かが笑った。
それはもう、単なる作業でも命令でもなかった。
技術者たちは知っていた。
今、自分たちが描いているのは――ただの図面ではなく、“命をつなぐ設計”なのだと。
そして、それが朝の空の下で誰かを支えるのなら、
この夜の作業に、何の躊躇もいらなかった。
「おい、次の馬車分の図面いくぞ! 早いとこ寝かせねぇと、こっちまで倒れる!」
「誰が先に倒れるか競争しようぜ!」
「おう、だったら俺が三番目だな!」
馬鹿な冗談が飛び交いながら、ペンが、墨が、釘が、音を刻んでいく。
夜はまだ続く。
でもその向こうには、きっと誰かの朝がある。
彼らはそれを信じて、手を止めることはなかった。
“この夜のうちに、命を運ぶかたちを整えろ”
静かに、それでいて力強く交わされた会話が、
ひとつの改良と、ひとつの設計図を完成させた。
それは、砂漠の縁と海底を結ぶ、見えない架け橋。
少年の声に応じた技術者たちは、笑いながら、誇りながら手を動かし続ける。
まだ道のりは長い。
次なる場面は、「海を見下ろす石の祠」と呼ばれる古き神殿の跡地。
かつて海の民が祈りを捧げたというその地に、
今ふたたび、旅の炎が運ばれようとしている――。




