023. 焚き火の誓いと神の告げ
静まり返った夜の野営地。
ひとつ、またひとつと火のまわりに集まってくる影たち――それは、かつて誓いを交わした師団の面々だった。
忍とレイナ、火が灯るとき、神カグヤが姿を現し、未来を照らす“啓き”がもたらされる。
焚き火を囲んで交わされた、静かで、確かな再起の物語。
夜の帳が、静かに降りていた。
野営地にひときわ大きな焚き火が立ち上がり、赤々と燃える炎が、闇の中に揺れていた。
昼の喧騒が嘘のように静まり返った今、残されたのは、薪がはぜる音と、遠くで馬が草を踏む微かな気配だけ。
レイナはひとり、焚き火のそばに座っていた。
包帯の端を直しながら、ゆっくりと肩の力を抜いていく。
何日ぶりかのまともな食事。
何ヶ月ぶりかの、心からの笑い声。
そして、今夜――ようやく静かに、娘と過ごせる時間。
「……母様」
声に振り返ると、そこには忍が立っていた。
夜気にあてられて、頬がうっすら赤い。けれどその眼差しは澄んで、迷いはない。
「ここに、座ってもいいですか?」
「もちろんよ。おいで」
レイナが手を差し出すと、忍はすとんとその横に座った。
小さな身体を火に向けながら、口を開く。
「……今日の夕餉、随分とにぎやかでしたね。皆が笑って、食べて、働いて」
「ええ、本当に。あなたも、たくさん食べてたわね」
「……はい。でも、不思議ですね。にぎやかなのに、心の奥が、きゅうっとなるんです。……どうしてでしょう」
その言葉に、レイナはしばらく黙った。
小さな火の粉が、空へ向かって舞い上がっていく。
「それはたぶん……忍が、誰かのことを想ってるからよ。楽しさの中に、守りたいものが増えていくと、人の心って、そうなるのかもしれないわ」
忍は、焚き火を見つめたまま、こくりと頷いた。
「……そうだとしたら、僕はもう、たくさんのものを守りたいです。母様も、皆も、あの子たちも」
「……小さな身体に、いっぱい詰めこんでるのね」
レイナは、そっとその小さな頭を撫でた。
忍は目を閉じて、それを受け入れるように身を委ねた。
「母様……ぼくは、弱いままでいいんでしょうか。小さなままで、誰かを守るなんて、笑われますか?」
「そんなこと、誰も笑わないわ。……むしろ、あなたが傍にいることで、どれだけ救われてるか。あなたの言葉に、あなたのまなざしに、どれだけ励まされてるか。忍……母様は、あなたが、どんな姿であっても誇りよ」
忍の小さな手が、そっとレイナの袖をつかんだ。
「母様……」
「なあに?」
「いつか僕が、もっと大きくなったら……そのときは、今よりもっと、母様を支えてもいいですか?」
レイナは笑った。
その笑みは、どこか泣きたくなるほどに、あたたかかった。
「ええ。だけど、今でも充分に支えられてるわ。あなたは、もう“ひとり”の存在よ」
「……ありがとうございます、母様」
ふたりの間に、ことばのない静寂が戻った。
けれど、その沈黙は満ちていた。
愛情と、信頼と、絆の予感で。
忍はしばらく火を見つめていたが、やがて、ぽつりとつぶやいた。
「この火……消えませんように」
「きっと消えないわ。だって、それは“想い”の火だから。誰かがちゃんと、守り続けるから」
「それなら……僕も、守ります」
小さな声だった。
けれどその声音には、確かな決意が宿っていた。
そして今夜、ひとつの約束が、静かに結ばれた。
ふたりだけの、焚き火の灯の下で。
※
イオスとユーリの視点
「……あれが、母娘の姿か」
イオスは、火の輪の外、ほんの少しだけ暗がりに身を潜めるように腰を下ろしていた。
その横で、ユーリ・ナカムラが湯気の立つ木の椀を手に、黙って頷いた。
「ええ。……見違えましたね、あのふたりとも」
焚き火の向こう。
赤く揺れる炎のそばに、静かに寄り添う小さな背と、それを包む細身の影。
一見すれば、どこにでもいる親子のひととき。
けれど――そこに宿る絆は、誰よりも深い。
「……あの子は、歳不相応な眼をしている。まるで……俺たちのようだ」
イオスの声は低く、煙にまぎれて揺れた。
「そのとおりです。忍は……何もかも、わかってしまっている。身体はまだ小さな子どもなのに、戦場の風を肌で覚えた兵士のように、誰かの痛みを見抜いてしまう」
「……だからこそ、ああやって、レイナ殿の肩にすっと寄り添えるのか」
「彼女を“母様”と呼ぶその声音が、まっすぐでしたね。血よりも深く、心でつながっている……そう感じました」
イオスは、薪をひとつ、そっと火にくべた。
ぱち、と小さくはぜる音。
その音に混じるように、火の輪の向こうで、レイナが忍を抱き寄せる仕草が見えた。
「……あの炎は、希望の火だな」
「え?」
「俺たちは、幾度となく焚き火を囲んできた。戦地で、砦で、護送の野営地で。けれど……あんなふうに、ぬくもりだけを感じたことは、一度もなかった」
「……ええ、確かに」
ユーリもまた、そっと視線を落とした。
その目は、懐かしさと、痛みと、救いと、すべてがまじった光を湛えていた。
「イオスさん。……俺たちは、ようやく“帰る場所”を見つけたのかもしれませんね」
「ふむ……そうかもしれん」
「……護るべきものが、ようやく“形”になった。あの子が、その象徴だ。小さくても、彼女が灯してくれた火は、俺たちを導いてくれる」
「……ユーリよ。お前は昔から、よくしゃべる男だったが……今夜のお前の言葉は、すこしばかり沁みるな」
「はは、ありがとうございますよ、元・砦主殿」
イオスは、照れたように鼻を鳴らした。
そしてもう一度、焚き火のほうへ目をやる。
忍は、レイナの肩にもたれて、すうすうと寝息を立てていた。
その表情は、まるで、すべてを委ねた幼子のように穏やかだった。
「……この先、厳しい道になるだろう。病の者、老いた者、幼い者、すべてを連れての行軍は……正直、いつ何が起こるかわからん」
「わかっています」
「だからこそ、俺たちが支えねばならんのだ。あの火が、絶えぬように」
「ええ、まったく同感です」
ふたりの男が、焚き火の向こうの“希望”を見つめていた。
戦いの記憶を持つ者たちが、今はただ、未来を繋ぐために。
焚き火の光は、やさしく二人の顔を照らした。
その光は――かつて剣と盾を握っていた手にも、いまは毛布と薪を握らせていた。
そしてその手は、次なる朝へと続く道を、照らし始めていた。
※
夜が、深く、静かに、すべてを覆っていた。
月は雲に隠れ、星の瞬きもまばらな空。
野営地に満ちていた人の気配は、すでに布の下に眠っている。
子どもたちは疲れ切った小さな身体を寄せ合い、老人たちは毛布に包まれ、若い者たちは交代制の見張りに就いていた。
だが――そんな深夜の帳の中、中央の焚き火に、ひとつ、またひとつと影が集い始めた。
足音はなく、息づかいもひそやかに。
それでも、確かな意志を持った者たちの気配が、風に乗って火を囲む。
レイナは、眠れずにいた。
忍の小さな寝顔を見届けてから、そっとその場を抜け出し、足が自然と焚き火の方へ向かっていた。
気づけば、そこには見知った顔がいくつも並んでいた。
老いた者も、傷痕の残る者も、顔立ちの変わった者も。
だが、どの瞳にも、同じ光が宿っていた。
「……あなたたちも、目が覚めてしまったの?」
問いかけると、ひとりが小さく笑った。
「眠るには、今夜は静かすぎて」
「焚き火の音が……昔と同じで、胸が疼いてね」
「“あの時”を、思い出すのです。ここに来ると……つい」
誰かが、そっと薪を足した。
ぱち、と音がはじけ、火がひときわ高く燃え上がる。
その光に照らされたとき――
レイナは、そこに立っていた一人の幼子の姿に、息を呑んだ。
「……忍?」
そう、そこには、幼い身体に外套を羽織った忍が、背筋をまっすぐに伸ばして立っていた。
そのまなざしは、眠っていたとは思えないほど鋭く、澄んでいた。
「……母様も、来てくださったのですね」
「ええ……あなた、起きてたの?」
「火の気配に呼ばれました。――“皆が集まってくる”と、心が言ったのです」
その言葉に、レイナの胸が熱くなる。
そして――火を囲む者たちの視線が、ひとりの幼子に向かう。
誰が言い出すでもなく、静かに、自然に、動きはじめた。
ひとりが、胸に手を添える。
拳を軽く握り、心臓の上へ。
右手の拳を、そっとあてがう、かつての「敬礼」のかたち。
次の者も、それに倣う。
そして、また次も。
火の周囲を囲むすべての者が、無言のまま、右手を胸に。
かつての師団。
共に生き抜いた証を持つ者たち。
この世の理不尽に抗い、仲間を守り、命を燃やした者たち。
今、その記憶が、火のゆらめきと共に立ち上がる。
忍は、ひとつ息を吸って、皆に向き直る。
そして、彼女もまた――
その小さな胸に、右手をあてた。
「……ありがとう」
言葉はそれだけだった。
だがそのひとことに、誰もが頷いた。
レイナもまた、そっと手を添える。
あの頃、仲間と交わした、信頼の証。
師団の誇りは、決して過去ではない。
そう信じられた。
その時だった。
誰ともなく視線が揃った、焚き火の向こう。
まるで、風の中からすうっと現れたかのように――
ひとりの白き女性が、そこに立っていた。
漆黒の夜に浮かぶその姿は、衣のすそを風にたなびかせ、頭上には星明かりすら降りているかのようだった。
「……神……カグヤ」
誰かが、息を呑んだように名を口にした。
そう。それは、元・師団の精神的支柱だった存在。
人でありながら、人ではなく。
理と祈りの間に生きた少女。
――今は、神と呼ばれる存在。
カグヤは、焚き火の揺らめきの中、ただ黙って佇んでいた。
そのまなざしは、ひとりひとりに注がれ、やがて、忍へと向けられる。
忍は、まっすぐにそのまなざしを受け止めた。
年齢も、姿も、過去も、未来も超えて――そこに在る者として。
そして、ふたりの間に、ことばのない交信が流れる。
レイナには、それがわかった。
親としての本能か、それとも共に在った記憶か――
今ここに、かつての誓いが再び結び直されるのを、肌で感じた。
火は、静かに揺れていた。
焚き火のゆらめきに包まれて、皆が右手を胸に当てたまま、静かに立ち尽くしていた。
敬礼の静寂の中、白き衣の女が現れたその瞬間――
空気が変わった。
風が、止んだ。
炎が、ぴたりとその揺れを止めたかのように見えた。
そして、彼女──神カグヤは、誰にも近づかず、だがすべてを包むように、ゆっくりと歩みを進めた。
焚き火の円の外から、そのまま中心へと入ってくるのではなく、ただそこに“存在”として溶け込むように。
その姿を前に、元師団員たちは誰ひとりとして膝を折らなかった。
折れなかった、のではない。
折る必要がなかったのだ。
目の前に立つ者が、「恐れ」ではなく「誓い」と共にあった者だと、皆が知っていたから。
神カグヤの視線が、ゆっくりと輪をなす者たちをなぞっていく。
老いた者、若き者、身体に傷を負った者、癒しを与えてきた者。
そして、レイナ――忍。
彼女の視線が、そこに止まる。
忍は、迷いなく視線を返した。
火に照らされた小さな身体に、重ねられた記憶が宿る。
沈黙のまま交わされたそのまなざしに、神カグヤは、微かに頷いた。
そして、口を開いた。
その声は――
風のないはずの空気に、まるで大気そのものが語りかけるような、静かでありながら内に震える力を持っていた。
「……この焚き火の前に集った者たちよ。
あなたたちは、再び“道”の途中にある。
過去を抱きしめたまま、未来へと進まねばならぬ者たち。
……だから、私は、知らせに来ました」
皆が、息をのむ。
神カグヤは、視線を空へ向け、続けた。
「この大地の先。アデン湾の深き海の底にて、かつての仲間が“船”をつくっています。
空を覆う灼熱を避け、病を癒し、民を護るための、終の船。
それは、誰にも征されぬ“移民艦”──大いなる器です」
焚き火の火の粉が、はらはらと舞い上がった。
まるで、遠い海の泡のように、光を帯びて空に消える。
「また、ソコトラ島を望む地にて、交易と療養のための“港の町”が拓かれつつあります。
いまは更地……けれど、あなたたちが辿り着く頃には、屋根が立ち、人の声が満ちるでしょう。
すべては、あなたたちが生き延びるために。
そして、希望を繋ぐために」
神カグヤの目が、再びレイナへと戻る。
「……レイナ。あなたは、導く者です。
忍とは違う道を歩みます。時に迷いながらも、民と歩む灯となるでしょう。
けれど忘れないで。あなたは、独りではない」
レイナの胸が、きゅっと熱くなった。
そのとき――
神カグヤが、ゆっくりと右手をかざす。
焚き火の中に、ぽうっと淡い光が立ち上った。
それは、炎ではなかった。
まるで“光の布”のような、薄い層が焚き火の中心に浮かび、空中にスクリーンのような“面”が現れる。
その光の膜に、地形図のような模様と建造物の断片が浮かびあがる。
「これより、“神通信”の一部機能を、移譲させましょう」
「神通信……?」
周囲がざわめくなか、忍が一歩前へ出た。
神カグヤは頷いた。
「必要な時、ここにいる者たちは、この“焚き火の面”を通して、遠くの仲間と繋がることができます。
忍よ。あなたには、その“鍵”を託します」
忍の手のひらに、ほのかに光る小さな粒が落ちてきた。
それは光でできた種子のように、ふわりと彼の掌にとどまる。
「母様と、皆と……繋がる“道”を、灯します」
そう言うと、神カグヤはレイナに視線を向け――ほんの一瞬、微笑んだように見えた。
それは、神でありながら、かつての「仲間」の顔だった。
そして彼女は、静かに言葉を残した。
「――未来は、動き出しています。
この火を、絶やさないで。
あの日誓ったものは、まだ終わってなどいないのですから」
次の瞬間、彼女の身体が、焚き火から立ち上る煙と光に溶けるように、空へすうっと昇っていった。
けれど、今度は「消えた」と感じる者はいなかった。
なぜなら、火は消えていなかった。
スクリーンの光は、まだ仄かに残っていた。
そして、皆の胸には、新たな“道標”が刻まれていたから。
焚き火を囲む輪が、再び静かに息を吐く。
そして、誰ともなく――
もう一度、右手を胸に当てた。
それは、これからを生き抜くための、新たな敬礼だった。
今宵、かつての誓いが再び立ち上がり、遠い未来を見据える“火”が灯されました。
忍の手に託された神通信の鍵、そして神カグヤが明かした船の存在――。
この夜を境に、移動団の旅路は“孤独な避難行”から、“誰かと繋がる希望の行進”へと変わっていくのかもしれません。
次回、眠りから目覚める者たちは、どのような朝を迎えるのか。
それぞれの“想い”が歩き出す、あたらしい一日へと続いていきます。




