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021. 記憶の道を越えて

風に草が揺れ、ひまわりが太陽を追い、古い石の壁が静かに夜を迎える――

レイナたちの旅は、ひとつひとつの風景を心に刻みながら、遥かなる古道を踏み越えてきました。


それは、かつて騎馬民族が駆け抜け、時には戦が、時には祈りが交わされた「記憶の通り道」。

その痕跡の中で彼らが見つけたのは、ただの道ではなく、“人が生きた証”でした。


いま、黒海の風がその旅路の先をそっと示します。

まもなく、街が見える丘へとたどり着く。

“外の世界”へと続く門が、少しずつ開き始めています――


砦の門が見えなくなってから、ようやく誰の口からともなく安堵の吐息がもれた。

見送りの兵たちの姿も遠く、もう戻れぬことがはっきりと身体に沁みたとき、移動団はひとつの丘を越えた。


そこから先に広がっていたのは、どこまでも続く、草原の緩やかなうねり。

地図にも名のない古道――

それでも、誰かがかつて通った気配を草が覚えているような、不思議な静けさと温かさがあった。


レイナは、先頭近くの馬車の脇を歩いていた。

風が強くなってきたため、彼女の白いケープがふわりと舞う。

振り返らぬように努めていたが、何かが気になり、思わず足を止めた。


「……あれは……」


誰かの低い声に、周囲の者たちも視線を南の空へと向けた。

雲が流れるその向こうに、まるで大気の縁から生えたように、白く霞んだ山並みが見えていた。

それは、ただの遠景ではない。

それだけで、この地がどこに位置しているのか、どこへ向かっているのかを、はっきりと理解させる光景だった。


「カフカス山脈か……」

イオスが呟いた。

彼の声は静かで、けれど強い風のなかでもよく通った。

「ここから見えるのは、まだほんの一部。あの山の向こうに、いくつもの国があり、文化があり、人が生きている」


「遠いな……」

副団長のそばにいた青年が、思わずつぶやいた。

「でも、山はずっとそこにあるんですね。昔から」


レイナは、そっと馬車の子どもたちを振り返る。

幌の隙間から顔を出しているその小さな目たちは、遠くの山を見ていた。

不安と好奇心が混じったその表情は、彼女の心にそっと触れた。


「この道は、きっと山に向かってつながってるのね」

レイナの言葉に、イオスは頷いた。

「そうです。この古道は、かつて王国軍の遠征にも使われたと聞きます。交易にも、放浪にも、逃亡にも……。

定まった“道”ではなく、“選ばれ続けた方向”――それがこの丘の意味です」


「見て! あそこに塚がある!」

子どもたちの声が響いた。

確かに、小高く盛られた土が、草に覆われて点在している。

古の時代に築かれた、名もなき墓。

誰のためのものかは分からない。けれどこの道を通った誰かが、確かにこの地で眠っている。


レイナは、その塚に向かって黙礼した。

自分たちの旅が、誰かの記憶と重なっているような、そんな感覚が胸に満ちていた。


「レイナ様」

イオスが声をかける。

「これより先、丘を越えるたびに見えるものが変わっていきます。ご無理なさらず、どうか馬車に」


レイナは小さく笑い、頷いた。

「ありがとう。でも、もう少しだけ、歩いてみたいの。

この風の匂いも、草の音も、今しか味わえない気がして……」


風が吹いた。

草が波のように揺れ、旅団の列がその中をゆっくりと進んでいく。

小さな希望と、深い覚悟を抱えながら――

移動団は、まさにこの瞬間に「出発した」のであった。



昼をすこし過ぎた頃だった。

一行は丘を三つ、四つ越えた先の大平原へと足を踏み入れた。

そこには、まるで海のような草原が広がっていた。

風に押されて生え揃った草たちは、どれも同じ方向を向いていて、見渡す限り、風が描いた“道筋”のようだった。


それを見て、誰からともなく口をついた言葉があった。


「……これはもう、道ではないね。土地そのものが、旅を覚えてるみたいだ」


レイナも、静かに頷いた。

誰かが作った道ではなく、誰かが通り続けた結果としてできた“通り道”。

それが、今まさに彼女たちの足元にあった。


馬車の列が進むたび、草がしなり、土がわずかに沈む。

獣道のようなものではない。

けれど、人の手が作った道とは明らかに違う、もっと深く、もっと古いもの――

そんな感触が、足元からじんわりと伝わってきた。


「この辺りには、昔、騎馬の民が住んでいたと聞いたことがある」

イオスが、前方を見据えながら言った。

「戦を避け、季節に従って移動し、草と水を求めて北から南、南から北へ。何千という馬が、何十年、何百年もこの地を駆けたという」


「馬……」

馬車の中から、ひとりの少年がつぶやいた。

「じゃあ、この道は、人だけじゃなくて、馬の思い出もあるんだね」


その言葉に、老人が笑った。

「おうとも。昔の戦士は馬と寝て、馬と死んだ。

この草の根っこには、馬の嘶きが染み込んでるんじゃよ」


その時、左手の方角に、小さな塚がいくつか見えた。

どれも人の背丈ほど。

風化し、草に覆われ、遠目にはただの丸い丘にしか見えない。

だが、それを見た老人たちは、すぐに気づいたようだった。


「あれは墓塚じゃ。スキタイのものか、サルマタイのものか……わしには見分けがつかんが」

「スキタイ……サルマタイ……」

子どもたちが繰り返し口にする。

「それ、昔の国の名前?」


「国というより、“民”じゃな」

イオスが説明するように答えた。

「風に生き、家を持たず、馬とともに移動した人々。

その生き方は、やがて滅び、地図から名を消した。だが彼らの通った道だけが、こうして残っている」


レイナは、ふと足元に目を落とした。

土の色が、どこか赤く滲んで見える場所がある。

それは鉄か、血か、あるいは年月の堆積か。

だが確かに、この地には「通過すること」を運命づけられた人々の痕跡が、今も呼吸していた。


「私たちもまた、“通っている”だけなのかもしれませんね」

彼女の呟きに、誰かが静かに頷いた。

「……ですが、私たちは立ち止まる場所を探している。

それが、かつての民との違いでしょうな。きっと、だからこの道を借りて進めるのです」


風が、草を強く揺らした。

それはまるで、過去からの返事のようにも聞こえた。


馬車はゆっくりと進んでいく。

日が傾き、長くなった影が、草の上に人馬のかたちを描き出す。

その姿は、まるで古の騎馬民族の残像と重なるようだった。


誰もが黙り、ただ歩き続けた。

足音と車輪の軋み。風と草のざわめき。

それらが、今この地で唯一の音楽となっていた。


この“遊牧の道”は、言葉では語られない。

しかし確かに、語り継がれている。

風に、土に、そして、今を生きる旅人の足跡に。



風に任せて揺れる草の海を抜けたとき、不意に足音の感触が変わった。

草を踏みしめていたはずの足裏が、ざらり、と乾いた硬さに変わる。

レイナはそれに気づき、そっと目を落とした。


「……石?」


それは、土に沈みかけた平らな石の列。

誰かが並べたように敷かれ、ところどころ割れ、ところどころ外れ、草の間に埋もれている。

陽の光に照らされて、その表面に苔の緑がかすかに浮いていた。


「石畳ですな。かなり古い。人の手で造られた道です」

イオスが馬から降り、片膝をついて指先で石の縁をなぞった。

「昔の街道でしょうか? それとも砦をつなぐ軍道?」


「どちらも、かもしれません」

そう答えたのは、同行していた書記官だった。

「戦のため、あるいは交易のため。いずれにせよ“意志を持って築かれた道”であることに違いはありません」


馬車の車輪が石に乗り上げるたび、軋みが一段と強くなる。

幌の中の子どもが少し驚いた顔を見せたが、老人がなだめるように話しかける。


「これはな、わしらよりもっと昔の人々が、自分の足で進むために並べた石なんじゃ。

きっと“向こうへ行こう”と願った者たちが、この道を整えたんじゃろうて」


その言葉に、少年が不思議そうな顔をする。


「でも、どうして壊れたままなんだろう?」


「壊れたんじゃない。時が通り過ぎただけじゃよ」

そう答えた老人の声は、少しだけ寂しげで、そしてどこか誇らしげでもあった。


道は、まるで褪せた記憶のようだった。

ところどころに、まっすぐな石の列が残っているかと思えば、すぐに草に飲み込まれ、

その向こうにはわずかに段差を残しただけの土の盛り上がりが見える。


イオスがその土の列を見やって呟いた。

「これは……舗装の剥がれた軍道か。荷馬車用に広く造られたものですね。

石畳の上に土を盛り、軍の補給路として使われたのでしょう。

戦が去り、人も去り、残ったのは“形の名残り”だけ」


レイナは思わず空を仰いだ。

それでも、太陽はあたたかく、風は変わらず草の香りを運んできた。

人が築いたものが崩れても、大地は変わらずここにあり続ける――それが、少し不思議で、そして少し安心でもあった。


「道って、不思議ですね」

彼女はそう呟いた。

「歩くために造られたものなのに、歩く人がいなくなると、あっという間に消えてしまう。

でも、草の下にはまだ残ってる。誰も見ていなくても」


イオスは微笑んだ。

「だからこそ、こうして再び歩く者がいるのは、道にとって幸せなことなのかもしれませんね。

私たちの馬車が、あの石たちに“忘れられていない”と伝えているのだとしたら」


馬車は、静かにその上を進んでゆく。

一部の石は割れ、一部は浮き、一部は深く沈んでいる。

まっすぐではない。けれど、確かに“通ることを想定された道”が、そこにあった。


その道を、今、彼らが踏みしめている。

それは、古の誰かが願い、汗を流し、夢を抱いて築いた道だったかもしれない。

そして今、同じように、行く先に祈りを込める人々がその上を歩いている。


誰かがかつて残した道を、誰かが今日、再び通る。

それは、過去と現在が一瞬だけ交差する、奇跡のような時間だった。


その日、移動団はただ進むだけでなく、“引き継ぐ”ことをしていた。

道を。思いを。そして、希望を。



午後の陽が傾き始めたころだった。

石畳の名残を抜け、再び草原のうねりへと戻った移動団の足並みは、少しずつ重くなってきていた。

日照りこそ穏やかだったが、長い道のりと荷車の揺れ、子どもたちの疲労は確実に溜まっている。


そんなときだった。

前方を見張っていた斥候のひとりが、馬上から高く手を挙げた。


「丘陵帯が見えます! 東側、山の端に湯気のようなものが……!」


イオスが鞍を軽く蹴ると、馬が足早に斥候の元へ進んでいく。

やや遅れて、レイナも車列の中から顔を上げた。


視線の先。

遠く、淡く連なる丘のひとつが、まるで春霞をまとうように白く揺れていた。

よく見ると、地面のあちこちから蒸気のようなものが立ち昇っている。

空気の中に、微かに湿り気を含んだ独特の香り――石と土と、熱された水が混じるような匂いが流れてきた。


「……あれが、“ミネラルの湧く山”か」

誰かがぽつりとつぶやく。


地元の民の間では、あの丘陵をそう呼んでいた。

地下深くから湧き出す鉱泉の水は、古くから「命を癒す水」として知られ、

戦で傷ついた兵がその湯に浸かり、旅人が水筒を満たし、老婆が祈りとともに飲んだと伝えられる。


「温泉?」

子どもたちの声が弾んだ。

「ほんとに、湯が湧いてるの? お風呂? 入っていいの?」


「入れるかどうかは分からぬが、近づくことはできよう」

イオスがやさしい声で返す。

「水が湧いているなら、補給もできる。休息にはうってつけだ」


レイナは思った。

たったそれだけのことで、こんなにも人の心は明るくなるのかと。

進み続けているときは、ただ“前へ”と足を出すことに必死で、

視界の端にさえ希望の色があれば、それだけで十分に救われるのだ。


「……あそこに、泉があるのですか?」

レイナの問いに、学士が頷く。

「はい。山肌の隙間から常に湯気が上がっているとの記録が、民の口伝にあります。

水に含まれる鉱物の名は、我々には難解ですが――

“地の底から巡ってきた水”と呼ばれ、古の王家では聖水として扱われたとか」


「聖水……」

レイナは、馬車の中の子どもたちや、足の悪い老女の姿を思い出した。

疲れきった人々の目に、あの白い丘は、まるで神から差し出された掌のように映っているのかもしれない。


「夕刻には、あのふもとで野営を」

イオスが指示を出す。

「水場の確保を最優先。泉が熱ければ、冷めた水を探し、沸き立つ場所には近づきすぎぬよう警戒を」


「はい!」


命を保つために、ただ歩くだけだった旅に、ようやく“温もり”が加わった。

草と石と風しかなかった地に、湧き水がある。

それだけで、この道が「人のための道」であったのだと、誰もが信じられた。


丘を見上げながら、レイナはそっと胸に手を当てる。

この旅が、ただの逃避ではなく、

誰かの記憶に残る「巡礼」や「始まり」になれたら――そう、願わずにはいられなかった。


道はまだ遠い。

けれど、この丘が湧き出すのは、水だけではない。

それは、彼女たちの心に、ほんの少しの希望と再生の気配を与えてくれていた。



冷泉が湧く丘のふもと。

地中からしみ出した水は、石の間を縫って細い流れとなり、やがて小さな溜まりを作っていた。

湯気がたちのぼり、硫黄とも鉄ともつかぬ香りが漂う。

水を汲む者たちの顔には、安堵と疲労が入り混じった静かな笑みがあった。


「これだけあれば、しばらくは助かるな」

イオスが泉をのぞき込み、泥を避けながら慎重に一杯すくう。


「飲めるわ。温いけど、身体が内側から温まる……」

レイナは掌にすくった水をそっと唇にあて、目を細めた。


そのときだった。

見張りに立っていた若者が、丘の背後を指差して声を上げた。


「後方から馬車が一台――いえ、二台、接近してきます! 見知った旗印です!」


イオスがすぐさま馬にまたがり、草を踏み分けて迎えに向かう。

やがて、やや小ぶりの荷馬車がふたつ、土煙を立てて現れた。

そのうち一台の荷台には、慎重に縄でくくられた空樽が複数積まれているのが見えた。


「……忍の旅団からの伝令です」

若者が馬を寄せて小声で報告する。

「どうやら、“後方から水を運ばせてほしい”という申し出のようで……」


レイナは思わず目を瞬いた。

息子――忍の名が胸によぎる。

彼はまだ幼く、旅団の中では末端に近い位置にいるはず。だが、この判断はきっと彼自身の願いが混じっている。そう思えた。


やがて、旅団の副官と思しき人物が馬車を降り、丁寧に一礼を送った。


「水を届けたいとの申し出が、坊ちゃま――忍さまよりありました。

後方でこの丘の噂を聞き、すぐに樽を空け、台車を軽くして追いついた次第です。

ご迷惑でなければ、こちらの空樽に泉の水をいただき、次の野営地へ運ばせていただければと……」


レイナの胸に、何かが静かに満ちていくのを感じた。

まだ小さな手。けれど、その手が、母の旅を気遣ってくれている。

それが、どれほどの思いによるものか。言葉ではなく、行動で届いた贈り物だった。


「……ええ、喜んで」

彼女は柔らかく頷いた。

「この水は、団のみんなにとっても救いになります。

忍が、こうして水を届けてくれたこと……それだけで、心が温まります」


周囲の者たちも、微笑んだ。

小さな少年が、自分たちの旅を支えてくれている。

それは不思議な励ましとなり、どこか誇らしくさえ思えた。


イオスが水を汲みながら、ぽつりと呟く。

「小さな手でも、誰かの疲れを癒やせる。旅のなかで、それを知ることは何よりの力になる」


その言葉に、レイナはそっと目を伏せた。

風が吹き、丘の湯気が静かに揺れる。

空樽はすぐに水で満たされ、荷馬車はまた静かに背を向け、先へと進んでいった。


見えない距離の向こうに、息子がいる。

会うことは叶わずとも、心が通い、想いが届く――

その確信だけで、レイナはまた歩き出せる気がしていた。



午前の陽が頂を越えたころ、移動団はなだらかな丘陵地帯を越えて、見晴らしのよい斜面へと出た。

それまで風に揺れていた草原が、ふいに途切れたかと思うと、前方の景色が一変する。


「……あれは……?」


最初に声を上げたのは、荷馬車の幌から顔を出した子どもだった。

つられるように、幌のすき間から次々に顔がのぞき、やがて、列を進めていた先頭の者たちも足を止めた。


視線の先にあったのは――

まるで太陽そのものが大地に降りたような、金色の海。

一面に広がるヒマワリの畑だった。


どこまでも続く黄色い花。

すべてが空を見上げ、陽の光をまっすぐに抱いている。

背の高いものは大人の胸ほどもあり、その間を蝶が舞い、蜜蜂の羽音が遠くに響いていた。


「こんな場所が……残っていたのか」

イオスが驚きの声をもらし、手綱を引いて馬を止めた。


「誰かが……植えたのですか?」

レイナが思わずつぶやいた。

だがすぐに、いや、と首を振る。

この規模、この広がり――人の手が加わったにしても、それはもう何世代も前の話だろう。

それでも、花は咲いていた。

人が去った後も、誰の目にも触れなくなっても、太陽の下にまっすぐ立ち続けていたのだ。


「綺麗……」

子どもたちが口々に声を上げ、馬車から飛び降りて花の近くまで駆けていく。

小さな手が触れるのは、力強くもやわらかな花びら。

その明るさが、まるで旅の疲れすら洗い流してくれるようだった。


「――ヒマワリだね」

老人のひとりが、懐かしそうに呟いた。

「昔、わしらの村にもあったよ。夏になると、どこもかしこも黄色になってな……

子どもたちが、よくかくれんぼをしたものじゃ」


その言葉に、レイナは微笑みながら耳を傾けていた。

この旅で、どれほどの景色を見ただろう。

草原、古道、石畳、湧き水、そして今、花。

どれも誰かの記憶であり、今は“彼らの現在”となっている。


「レイナ様」

イオスが近づき、小さな声で問う。

「しばらく、休みを取りましょうか? 荷馬車にも良い時間帯ですし……」


レイナは頷いた。

「そうね。今日は、この光の中で、お昼を食べましょう」


その言葉に、団員たちは静かに喜びの色を浮かべた。

馬車が順に止められ、幌を開け、荷台に日陰を作りながら、ささやかな昼の準備が始まる。

焼き乾かしたパンと、果実酒に漬けた干し肉。

子どもたちには、泉で冷やしておいたリンゴが振る舞われる。


花の中で、皆が笑っていた。

声を上げて遊ぶ者、寝転がって空を見上げる者、花を編んで冠を作る者。

そのひとときだけ、旅路の重さをすっかり忘れていた。


レイナは一歩、ヒマワリの海に足を踏み入れた。

丈の高い花々が、風に揺れて迎えてくれる。

そのひとつひとつが、まるで「よく来たね」と囁いてくれているかのようだった。


「……ありがとう」


思わず、そう口にしていた。

花に対してか、大地にか、それとも、ここまで歩んできた自分たち自身にか――

それは、レイナにも分からなかった。


だが、この瞬間が永遠ではないことだけは知っていた。

だからこそ、しっかりと味わいたかった。

誰かが歩んだ道を借りて進む以上、こうした出会いこそが、旅に意味を与えてくれるのだと。


やがて陽が少し傾き、ヒマワリたちは再び静けさの中に揺れていた。

食事を終えた団員たちが、荷馬車に戻り始める。

遊び疲れて眠る子どもを抱え、笑い合いながら歩く姿があった。


イオスが手綱を引き、レイナに目をやる。


「そろそろ、出発しましょうか?」


レイナはもう一度だけ、花畑を振り返る。

そして、確かに、うなずいた。


旅は続く。

けれど、今日見た光は、きっと誰の心にも残るだろう。

それは、命をつなぐ旅の途中に差し込んだ、かけがえのない陽だまりのようだった。



ヒマワリの咲き誇る丘を越えて、さらに一刻あまり。

空はゆっくりと茜色に染まり始め、日暮れの気配が草原を包み込もうとしていた。


「そろそろ、今夜の宿を決めねばなりませんな」

イオスが馬上からあたりを見渡し、陽の傾きを確認する。

子どもたちは日中の興奮からか、少し疲れた様子を見せ始めていた。

老人たちの足取りも重く、荷馬車の幌をおろす手が、どこか慎重になっている。


そんな中、前方を偵察していた者のひとりが戻ってきて告げた。


「東の丘の陰に……石の壁が見えます。古い家屋が、いくつか残っているようです」


その言葉に、一同の目が向けられる。

ほんの数年前まで、誰かが住んでいたかのような静けさが、空気に混じっていた。


やがて小道を抜けた先、草に飲まれかけたわずかな石畳の名残が現れ、その先に、確かに数軒の石造りの小屋が並んでいた。

屋根は半ば崩れ、扉の一部は風に飛ばされていたが、壁と柱はまだしっかりと残っていた。


「……廃村、ですね」

レイナはそうつぶやいた。

言葉にした瞬間、ここにあった人々の暮らしが、肌に沁みて届いたような気がした。


「人の気配は?」

イオスが辺りを見回しながら問う。


「ありません。痕跡も古く、動物の巣がある程度です。

ですが、壁はまだ使えそうです。風を防ぐには充分かと」


しばらくの間、誰も言葉を発さなかった。

沈黙のなかに、時の重みが降りてきたようだった。


レイナがゆっくりと小屋のひとつに歩み寄り、開いた隙間から中を覗く。

土の床、崩れた暖炉、煤けた天井。

それでも、明らかに“暮らし”の痕跡がある。

どこかに誰かの笑い声が残っていそうな、そんな静けさだった。


「ここで、休みましょう」

彼女はそう言った。

「この小屋が、今夜だけでも、私たちを守ってくれるなら」


荷馬車がゆっくりと村の中へと入っていき、車輪の音がかつての路地を軋ませた。

かつて火が灯ったであろう炉の前に、鍋が置かれ、乾いた薪が並べられる。

ほこりを払った石の床に毛布を敷き、子どもたちは荷物を枕にして、少しずつ眠気に落ちていく。


老人たちは火のそばで静かに語り合っていた。

「こういう村、昔はたくさんあったな……」

「わしの故郷も、こんな風だったよ。あの坂の向こうに畑があってな……」


イオスは夜空を仰ぎ、ため息混じりに言った。

「人が去っても、建物が残り、建物が残れば、灯りが戻る。

……それは、どこか救いですね。消えたものが、ほんとうに消えるわけではないと、教えてくれます」


レイナは、火の揺らめきに照らされた石壁を見つめながら、黙って頷いた。

ふと、忍の顔が浮かぶ。

あの子も、遠く離れた道のどこかで、こんな夜を過ごしているのだろうか――

そう思うと、胸があたたかくも、少しだけ痛んだ。


火が落ち着き、夜の帳が完全に降りたころ、廃村は再び静寂に包まれた。

けれどそれは、もう“死んだ村”の静けさではなかった。

誰かが火を焚き、誰かが壁にもたれて眠り、誰かが祈る――

その気配が、この場所に再び戻ってきたのだ。


石の壁が、風の音を防いでくれる。

崩れた屋根の隙間からは星がのぞき、冷たい夜気のなかに、人のぬくもりがしっかりと息づいていた。


この廃村の名は誰も知らない。

けれど、今夜ここに、確かに“灯り”が戻ったことを、星々だけは見ていた。



その岩は、草むらの中に静かに埋もれていた。

ほんのわずか、苔の間から角がのぞいていなければ、誰の目にも留まることなく、ただ風雨に磨かれ続けていたに違いない。


「……これは、意図して置かれたものだな」

先頭を進んでいたイオスが、馬を止め、ゆっくりと鞍を降りた。


彼は手袋を外し、指先で岩の表面をなぞる。

薄く、風化しているが、確かに線が刻まれていた。

直線や波紋、ねじれた形が連なり、どこか意味を含んだ“言葉”のような模様を描いていた。


「何か、書いてあるのですか……?」

レイナがそっと近づき、苔むす岩をのぞき込む。

そのすぐ後ろに、興味津々な子どもたちが顔を寄せた。


イオスは目を細め、しばらく何も言わず、指をゆっくりと動かしながら碑文を辿っていた。

そして――ふっと、風に混じるような声でつぶやいた。


「……スキタイ語だ」


誰もがその言葉に反応した。

風の音が止まったかのように、周囲が静まりかえった。


「スキタイ……?」

子どものひとりが、小さく訊ねる。


「昔の民の言葉です」

学士が膝をついて、岩をなでるように見やる。

「ずっと昔、草原を駆け、定住せず、風とともに生きた騎馬の民。

いまはもう、その言葉を話す者も、書く者も残っていません」


「じゃあ、この岩……」

レイナの声に、イオスが頷いた。


「旅の途中、誰かがここに立ち寄り、何かを刻んだ。

もしかすると“祈り”か、“別れ”か、“到達”か……

それはもう解読できぬとしても――ここを“通った者”がいたことだけは、確かです」


レイナは目を閉じて、指を石に添えた。

冷たい。だが、その冷たさの奥に、じんとした熱があるように感じられた。


子どもたちがささやく。

「この人たちも……お母さんたちみたいに、旅してたのかな」

「お水もあったのかな。お腹、空かなかったのかな」


「そうね」

レイナは穏やかに微笑んだ。

「きっと、私たちと同じように、誰かを守りながら、どこかへ向かっていたのよ」


その場に、言葉にできない空気が流れた。

太古の旅人と、いまここにいる彼女たち――

直接はつながっていない。けれど、道を踏むという行為だけが、時を超えて通じ合っている気がした。


「書いてある意味は分からなくても、こうして残っていることが、大切なんですね」

学士の言葉に、イオスがうなずいた。


「人はいつか消える。けれど、言葉や意志は、岩や土に残る。

それが“通った証”だ。ならば、我々も、どこかに何かを残していかねばならんのだろうな……」


夕日が差し込み、岩の碑文が金色に浮かび上がる。

誰のものでもない大地に、人の記憶がそっと灯るように。


レイナはゆっくりと立ち上がり、荷馬車の方を振り返った。

旅はまだ続く。

だがその先にも、こうした“誰かの跡”が、またきっとあるだろう。


ならば自分たちも、道の途中に、小さな灯を残していけるように――

そんな思いを胸に、レイナは再び歩き出した。



まだ空は深く、星の名残が消えきらぬうちから、一行のあちこちで火が落とされ始めていた。

廃村の片隅で迎える朝は、どこか荘厳で、どこか寂しく、だが確かに“新しい一日”の匂いを含んでいた。


レイナは小屋の石壁にもたれたまま、外の気配を感じ取っていた。

草が擦れる微かな音、火がくすぶる匂い、誰かの寝息、そして――風。


「……あ」


ふと、頬をなでるようにして流れ込んできたその風に、レイナは身体を起こした。

それは、これまで通ってきた草原の風とは違う。

冷たすぎず、重たすぎず、どこか水気を帯びていて――まるで見えない霧を含んだようなやわらかさ。


その瞬間、彼女の背筋にひやりとしたものが走った。

湿気。

空気が、変わっている。


「イオス……」

レイナが声をかけるよりも早く、副団長もすでに外に出ていた。

夜明けの薄明のなか、ゆっくりと顔を上げて、風の来る方角を見つめている。


「……海の匂いですな」

イオスの言葉は確信に満ちていた。

「黒海でしょう。まだ目には見えませんが、あちらから風が流れ込んできている」


その言葉を聞いて、レイナの胸にいくつもの感情が押し寄せた。

海――。

陸の旅を続けてきた彼女たちにとって、それはまだ遠く、けれど確かに“境界”を意味する場所だった。


「海って、ほんとにあるの?」

眠たげな声で、子どもがひとり尋ねた。

廃村の壁の隙間から、くしゃくしゃの毛布を引きずるようにして出てきた小さな姿。


「あるさ」

老人が、火のそばで湯を沸かしながら笑った。

「海は大きい。空の下、地の果て。昔、わしはそこまで馬で行ったことがある。波が空に届くようだったよ」


「空に?」


「そう。雲と波のあいだに、風が遊んでいた。きっと、今の風も、その時の風の続きかもしれんな」


皆が少しずつ目を覚まし、火に手をかざしながら朝の準備を始めた。

硬くなったパンを煮た湯に浸し、朝露に濡れた荷車の布を干し、荷を結び直す音が、静かに村に戻ってくる。


レイナは丘の上まで歩いていった。

小高い位置から東を望めば、夜と朝の境界線が、空に薄く走っていた。

そして南西の空からは、あの湿った風がまた頬を撫でてくる。


黒海――

その存在は、まだ見えない。

けれどこの風が、それを確かに告げていた。

旅は、確実に“次の領域”へと近づいている。


「この風の匂い、好きです」

そっと声をかけてきたのは、年若い少女だった。

まだ幼さの残る瞳で、遠くを見つめながら、続ける。


「ちょっと塩の匂いがして、少し冷たくて……でも、なんか、胸の奥があったかくなる気がする」


「そうね……」

レイナはゆっくりとうなずく。

「それはたぶん、“終わりの始まり”の匂い。

ここまで来たことで、もう戻れないことを、身体が知ってるのよ」


少女はその言葉の意味を測りかねたように首をかしげたが、やがてレイナと同じように、風が吹く方角に目を向けた。


――その時。

陽が地平線を割り、淡い金色が世界に差し込んだ。

木々が、瓦礫が、石の壁が、すべて光に包まれていく。


風が、やさしく吹いた。

あの海からやってきた、名もなき風が、旅の衣をなびかせ、明日へと背を押してくれるようだった。


レイナは、背筋を伸ばした。

「行きましょう」

その声に、仲間たちがそれぞれの場所から立ち上がっていく。


廃村に別れを告げ、荷馬車が再びゆっくりと動き出す。

まだ見ぬ海の気配を背に受けながら、彼らは今日という日を踏み出していった。


風の中には、始まりの匂いが満ちていた。

長いようで短かった「古道の章」。

この ep.22 では、レイナたちが通ってきた道の積み重ねにひと区切りをつけました。

風景ひとつ、石ひとつ、草の匂いひとつに、過去と現在が織り込まれていたことを、描けていたなら幸いです。


この旅の本質は、目的地にたどり着くことではなく、“通った痕跡”を未来に残していくこと。

そして次回、見えてくるのは――黒海を望む丘、その先の港町ノル・セリカ。


待ち受けるのは、ひと足先にその地へ赴いた男、ユーリ・ナカムラ。

かつて国の役人だった彼が、なぜ“道の端”で焚火を灯しているのか。

再会と分岐の物語が、静かに始まろうとしています。


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