018. 光、風に宿りて
砦を発った移動団は、まだ“旅”という言葉に実感を持たぬまま、最初の一歩を踏み出す。
誰もが戸惑い、不安を抱えながらも、それぞれの胸に灯る希望と使命が背を押していた。
神の気配は確かに在り、見送る者の仕草に、かつての絆が蘇る。
これは、分かたれた道のはじまり――そして、再び交わる日を信じて進む者たちの物語。
草を濡らす朝露が、陽の光をまだ受けきれずに薄くけぶっている。
その霧のなかに、かすかに砦の石壁が浮かび上がっていた。
ゆっくりと、確かに、その姿が遠ざかっていく。
誰ともなく振り返り、砦を見つめる者がいた。
そこに残した家族の影、別れの言葉、そして――最後の安全を置いてきた人々。
それでも、前を見据える者もいる。
目の前の道は未知だ。けれど、その先に“未来”があると、信じたい表情だった。
朝の空気は、張りつめた弓のように冷たく、清らかだった。
鳥のさえずりが、一歩ごとに背中へ届く。
木々の枝が風にゆれ、ざわりと衣擦れのような音を立てる。
だが、人々の足音は驚くほど静かだった。
そのなかで、小さな声が聞こえた。
「ねえ、まだ戻れるの?」
声の主は、母に手を引かれた幼い少女だった。
目をこすりながら、まだ寝足りない様子で、砦の影を見上げている。
母は、一瞬だけ砦を振り返り、そして娘の肩にそっと手を添えた。
「……大丈夫。前に進もう。
あっちには、もっとあたたかい場所があるんだって。神さまが教えてくれたでしょ?」
少女は、まだ理解できないまま、うなずいた。
その小さな仕草を、隣を歩く青年が目にとめ、静かに微笑む。
砦は、もう霧の向こうに霞み始めていた。
※
列の中央付近――
ひときわ装飾の少ない荷車のそばで、レイナが歩を進めていた。
風はまだ冷たい。だが、その冷たさがむしろ意識を澄ませてくれる。
彼女は、進行方向ではなく、左右の人々を見つめていた。
老いた者が膝をさすりながら歩き、若者が重症者の寝台を引く馬車の横で慎重に手綱を握る。
小さな子どもを抱く母親の顔には、眠気と不安が入り混じっている。
レイナは、その様子を確かめながら、ひとりひとりの顔を静かに見送るように視線を送った。
「……皆、大丈夫そうね」
そう小さく呟いた直後、医療班の一人――白衣の上にケープを羽織った青年が、隣に並ぶ。
「はい。昨夜は熱を出した方も落ち着いておられます。
今日の行程で問題になるような症状は、今のところ見受けられません」
淡々とした口調だが、その言葉の端に、かすかな安堵が混じっていた。
レイナは、ふっと小さく笑う。
「ありがとう。みんな、あなたたちがいるから歩けてるのね」
その言葉に、青年は少し目を見開き、照れたように視線を落とした。
「……いえ。僕らも同じです。レイナ様がいるから……皆が前を向ける」
その言葉は、意図せずして列の後方にまで届き、歩いていた老婆が笑みを浮かべて頷いた。
「そうじゃな。あんたの顔が見えるだけで、安心して歩けるよ」
「頼りすぎて、悪いねぇ」と別の男が苦笑する。
それを聞いて、レイナは立ち止まり、静かに首を振った。
「いいえ。今は、お互いさまです。誰かが誰かに支えられて……
そうして、少しずつ前へ進んでいけたら、それだけで十分です」
その言葉に、またひとつ、誰かの背が伸びた。
列はゆっくりと、しかし確かに動いていた。
※
小さな荷馬車の後部。
そこに積まれた布包みの上に、幼い少女が膝を抱えて座っていた。
馬車はゆるやかな丘を越える途中。
振り返れば、まだ遠くに砦の頂だけがかすかに見えた。
少女は、それを見上げたまま、ぽつりと呟いた。
「……バイバイ」
その声は誰にも聞こえないほど小さかったが――
彼女の手が、そっと小さく揺れた。
風にゆれる指先が、名残惜しさを帯びながら、霧の向こうの石壁に向かって揺れている。
その仕草を、砦の上から見つめるひとつの影があった。
門塔の陰に立つ門番の老人。
もう人の列はほとんど見えず、わずかに動く馬車の帆と、少女の手だけが視界に残っていた。
老人は、胸元に手を当て、ゆっくりと軽く拳を握る。
それは、誰に教えられたわけでもない、彼なりの“敬意”の表し方だった。
そして、心のなかでそっと呟く。
「……無事に、な」
その姿も、やがて霧に包まれて見えなくなる。
丘の背に隠れたその瞬間
出発した者たちにとって、砦は“過去”になった。
※
行軍はゆっくりと、丘のなだらかな下りへと差しかかっていた。
冷たい風が、草の匂いを運ぶ。
背後の砦はもう完全に霧の向こう。誰の目にも、その姿は見えなくなっていた。
レイナは、ふと足を止めた。
その瞬間、風が一段と強く吹き、彼女の髪をふわりと持ち上げた。
頬に触れたその風は、不思議とあたたかく――どこか懐かしい。
目を閉じる。
耳に届いたのは、風の音ではなかった。
……よく、ここまで来ましたね。
その声は、言葉ではなかった。
音でも、幻でもなく――まるで“心の奥底”に直接触れるような、静かなささやき。
「……カグヤ様」
レイナは、誰に聞かせるでもなく、微かにその名を呼んだ。
何も応えはない。けれど、胸の奥に灯がともったような感覚があった。
彼女は、そっと瞼を開けた。
そして、誰にも気づかれないように小さく微笑む。
「……私は、進みます。皆と一緒に」
そう呟いて、再び列の中に歩を戻した。
その背に、朝日がゆるやかに差し始めていた。
まるで、神のまなざしが、静かにその歩みを見守っているかのように――。
※
砦を離れて初めての丘を越えた先、移動団の全体像がようやく明瞭に広がる。
草を踏みしめる一団は、戦いのための部隊ではなかった。
けれどその整列には、不思議な秩序と意思が通っていた。
最前列 道案内と先導役
先頭を歩くのは、地図を手にした若き冒険者補佐と、地理に詳しい元商隊の男。
手綱を握る若者が、地面の状態を確かめながら進む。
荷を積んだ馬車の通行に支障がないよう、前方の草や石を避ける配慮も忘れない。
中核 療養者と家族、医療班
中心には、最も大きく、ゆっくりと動く馬車の列。
その上には、寝台に横たわる重症者や、座ったままの高齢者たちの姿があった。
医療班の者たちはその周囲を歩き、体調の急変に備えている。
常に一人は馬車の中を見守り、必要な者には水や薬を手渡していた。
歩ける者は徒歩で付き添い、家族と並んで進んでいる。
幼い子どもは、荷車の隙間に座り、親の背中にしがみついている者もいた。
側面警戒 黒鳥の女性兵と補佐要員
馬車群の左右には、黒鳥ギルド出身の女性兵たちが控えている。
戦いよりも“守る”ことを優先された彼女たちは、槍や短剣を備えつつも、穏やかな表情を崩さない。
彼女たちの視線は常に広く、子どもの転倒や動物の気配にも即座に反応していた。
後方 物資と荷運び部隊
最後尾には、食糧や水、薬品などを積んだ予備の荷車と、それを管理する使用人や若者たち。
一部の者は、村に立ち寄った際の物資補給や、野営の準備を担う小隊を兼ねている。
最後尾にも一人、弓を持った警戒役がいた。
彼の視線は時折、丘の背後を振り返るが、そこにはもう何もない。
人の波ではない。
けれど、これが“集団の意志”なのだと、誰もが無言で納得していた。
音の少ない行軍だった。
だが、歩く者たちの背中には、それぞれに小さな祈りと希望が背負われていた。
※
丘をいくつか越えた頃、後方を振り返る者は、もう誰もいなくなっていた。
それでも、誰かの心の中では、まだ――砦の姿が、霞の向こうに残っていた。
しばらくして、最後尾を歩く使用人のひとりが、立ち止まる。
風に吹かれた灰色のマントが、静かに翻る。
「……見えなくなったな」
ぽつりと、誰にでもなく呟く。
その言葉を聞き取った者はなかった。
けれど、その空気の変化に、前を歩いていた一人が立ち止まり、仲間を振り返る。
「ああ……行こうか」
たったそれだけのやりとりで、ふたりは歩をそろえ、再び列に戻っていった。
もはや、背後にあった石壁も、見張り塔も、何も見えない。
代わりに広がるのは、どこまでも続く、乾いた風の道と、遠くに連なる山の影。
そのすべてが――これからの物語の舞台だった。
※
空と地のはざま――
肉体から解き放たれた意識が、まどろみのなかを漂っていた。
そこに、静かに現れる光の粒。
「……レイナ」
名を呼ぶ声は、音ではなく“意志”のように届いた。
レイナはうっすらと目を開く。
現実には、まだ目を閉じて歩いているように見えているかもしれない。
だが、この時だけは確かに、彼女の魂が神とつながっていた。
「……カグヤ様」
その声には、緊張と同時に、深い安堵が滲んでいた。
『よく導きました。あなたの歩みは、すでに多くの者に勇気を与えています』
「いえ……私はまだ、確信が持てないまま……ただ、皆の顔を見て歩いているだけで」
『それで良いのです。あなたが“見ている”こと。それが、どれほどの支えになるか――
この先も、不安は幾度も訪れるでしょう。けれど、あなたには“語る力”がある』
レイナは、小さくうなずいた。
「……ありがとうございます。神様。忍のことも……どうか、見守っていてください」
『あの子は、大きな道を歩きます。あなたとの絆が、きっと支えになるでしょう』
言葉の終わりとともに、光が静かに消えていく。
レイナはそっと目を開けた。
目の前には、いつもの風景が戻っていた。
それでも、胸の奥には――ひとつ、確かな光が残っていた。
神は高みより、流れゆく旅団の背を見送っていた。
視界に映るのは、大地を歩む者たちの列。だが、その背後――砦の門にも、ひとつの光があった。
ひとりの老人。長きにわたりその地を守ってきた男。
霧のなか、静かに胸元に右手を当て、拳を軽く握る。
その動作に、神の視線が止まる。
それはただの見送りではなかった。遥か昔、神が見た“あの仕草”――かつての師団の敬礼。
《……この者も、残された絆のひとつ》
神は、記憶の海に揺れる数多の魂のなかから、この老人の“かつて”を感じ取る。
老いてなお、義を忘れず、ただ見送る者。
《この者も、また導くべきだろう。いずれ、再び仲間のもとへ》
神の意志は、風となり、光となり、まだ気づかぬ老人の背に触れた。
それは命令ではなく、ほんのわずかな“道しるべ”だった。
やがて、旅団が丘を越え、砦は完全に霧の彼方へと消える。
それでも、神の視界には、すべての歩みが光となって続いていた。
誰もが忘れかけていた絆と、まだ見ぬ再会の予兆を――。
レイナの導く移動団は、長い旅路のほんの最初の段階に過ぎない。
しかし、その一歩一歩の積み重ねこそが、やがて大きな流れを生む。
神の声が届く者も、そうでない者も、心の奥で感じている――「誰かが見てくれている」ことを。
次回より、いよいよ最初の中継地「古道」への道のりが始まります。風景の変化と共に、出会いと分岐が旅を形作ってゆくでしょう。




