016. 神、降り立ちて
砦にたどり着いた者たち、王都へ連行された者、そして無人となった領地――。
それぞれの動きが交差する中、忍の手によって「座」は整えられ、神は降臨する。
人知を超えたその存在が告げる“進む理由”とは何か。
静かな夜明けが、一つの時代の終わりと、新たな始まりを告げる。
陽が昇りきる前の、冷たい空気がまだ砦を包んでいた。
砦の奥、石造りの小さな会議室には、静かな緊張が満ちている。
中央の長机を囲むのは、イオスをはじめとする幹部たち。
忍はまだ姿を見せていない。だが、それがかえって皆の胸を重くしていた。
「……問題は、ここからどう動くかだ」
イオスが重い口を開くと、静まり返っていた室内がわずかに動く。
「この砦を拠点として防衛を継続するのか、それとも撤収するのか」
「補給は?」
「王都からの派遣軍は? 追撃があるとすれば、いつ来る?」
「連絡手段が断たれている以上、向こうの意図は測れません。こちらが“逃げた”と解釈される可能性は高い」
男たちの声が重なり、地図の上に指が伸び、交錯する。
だが、そのどれもが決定打を欠いたままだ。
「このまま留まれば、王都の使者が再び来る可能性が高い。
だが、移動すればそれは“逃亡”と取られる。咎を重ねることにもなりかねん」
イオスは、肘をついたまま深く考え込んでいた。
その目には疲労の色がにじみ、唇は固く結ばれている。
「……我らは、誰のために、どこへ向かえばいいのだ」
その問いに、誰も答えることはできなかった。
部屋に満ちていたのは、ただ現実の重みと、先の見えぬ霧だけだった。
※※※
会議室の扉が、短くノックされた。
続いて、控えていた兵士の声が響く。
「失礼いたします。隣国王都から、ユーリ殿が到着されました」
イオスは顔を上げると、静かに言葉を返した。
「通せ」
命を受けた兵士が一礼して去る。
すぐに扉が開き、長身の青年――ユーリが足早に入ってきた。
その後ろには、小柄な影がひとつ寄り添っていた。
忍である。
少し驚いた面持ちの幹部たちに、イオスが目線で制する。
「……連れは、忍か」
「はい」
ユーリが頷く。「砦に案内される途中で、ちょうど忍殿と出会いまして。
事情を伝えたところ、同行を申し出られました」
「問題ない。共に聞こう」
イオスの声に、誰も異を唱えなかった。
忍は無言のまま、部屋の端に用意された椅子へと腰掛ける。
その背筋は真っすぐに伸び、場の空気がわずかに引き締まった。
「……では、報告を」
促されて、ユーリは一礼し、報告を始めた。
「旧辺境伯領は、住民の姿なく、邸宅も屋敷もすでに空でした。
辺境伯本人は、王都からの使者によって拘束され、護送されています。
罪状は“領政の放棄”と“住民保護の不履行”。現在、正式な裁定を待つ身です」
幹部たちの間に、小さなざわめきが走る。
「また、邸宅内には強奪や略奪の痕跡はなく、
逃亡や集団移動による無人化と見られます。
すでに一部の区域では、野生動物や魔物の侵入も確認されており……」
言いよどんだユーリの目が、地図の一角を指し示す。
「――事実上、あの地は“空白地帯”と化しています」
誰もが黙り込み、その余波の重さを感じ取っていた。
誰もが知っていたのだ。
それは、かつて一国の一角だった場所が、
今や「誰のものでもない」地へと還っていったという事実を――。
※※※
イオスは静かに席を立った。
「この内容は……集まっている皆にも、伝えねばなるまい」
会議室にいた幹部たちが顔を見合わせる。
彼らに指示を出しつつ、イオスは小会議室を出て、砦の中央棟――集会場へと足を向けた。
その後ろには、ユーリ、忍、幹部たちが列をなす。
砦の集会場は、避難民たちの仮宿として使われていた。
子どもたちの笑い声はすでに止み、大人たちが不安げに集うその空間に、
イオスたちの到着が緊張を生んだ。
「みな、静かに」
一人の幹部が声を張ると、自然と空間に沈黙が広がる。
イオスは壇上に立ち、前を見渡した。
その眼差しには、兵として、そして一人の人間としての誠実さがあった。
「すでに知っている者もいるだろうが、
旧領主・辺境伯は王都の命により拘束され、連行された。
領都は、住民の避難により無人となっている。
今あの場所には、人の手はない。代わりに、野の獣が歩き、魔が蠢いている」
低く、だがはっきりとした声に、場が水を打ったように静まり返る。
「それでも、我々はまだ生きている。ここにいる。
この砦が最後の拠点であり、これからの道を決める場でもある」
続いて、ユーリが数歩前に出て頭を下げた。
「王都の方針は未定です。ですが、現時点で我々を追撃する動きは確認されていません。
皆さまが命をつなぐために動いたこと、それは王都の法に照らしても、咎とされるものではないはずです」
言葉の最後には、どこか確信と不安の入り混じった響きがあった。
だが、それをかき消すように――一つの小さな動きが、場の空気を変えた。
忍だった。
黙っていた彼が、会議室の隅にあった椅子を手に取り、ゆっくりと壇上に上がる。
イオスの立っていた位置を横目に見ながら、彼のさらに奥、壇の中央に――椅子を、そっと置いた。
誰もがその行動を止めなかった。止められなかった。
静寂が、集会場を包み込む。
まるで、その場所を待っていた者がいるかのように。
※※※
忍が壇の中央に椅子を置いてから、誰もが息をのんだまま動けずにいた。
空気がわずかに揺れる。まるで空間そのものが深く呼吸したかのように――静かで、けれど確かな変化。
そのときだった。
椅子の前に、光が差し込んだ。
外ではない。天井も、窓も閉じている。
それでもそこには、やわらかく、しかし濃密な白い光が静かに満ちていった。
気配が、現れる。
ひとり、またひとりと、膝をついた。
兵士が、避難民が、幹部たちが、思わず頭を垂れ、口をつぐむ。
誰も言葉にしないまま、ただ理解していた。
――神が、来たのだと。
その光の中から、ひとりの女性が歩み出る。
黒髪に、深い紫の衣。けれどその装いは、どこの民族にも属さない、時代も属さない――神のものであった。
彼女は、若すぎず、老いもせず、芯のある穏やかな眼差しを宿していた。
その姿を見て、レイナははっと息を呑む。
目の前の女性は、まるで――己と同じ歳のように見えたからだ。
「その姿は……」
レイナがかすれた声でつぶやく。
女性は――神は、静かに微笑んで言った。
「この姿は、あの子が最も信じている“母”という形。
お前の姿を借りて、現れたにすぎぬ。
普段の私を“視る”には、新官長の階位が必要であろう。
だが、今日は――あの子がここにいる。ならば、わたしは“この形”で、地に降りよう」
忍の肩がわずかに揺れる。だが、彼は顔を上げたまま、ただ静かに神を見つめていた。
神――カグヤは、壇の中央、忍の置いた椅子の前に立ち、そっとその前で手を合わせる。
「この座が、わたしに捧げられたものならば――ここに応えよう」
彼女が椅子に腰を下ろした瞬間、光はやわらかく収束し、場の空気は、完全に彼女を中心に形を変えた。
神は、実体として、この砦に降りた。
その場にいたすべての者は、頭を垂れることすら忘れ、ただただ、見つめていた。
※※※
砦の集会場に満ちていた静寂が、光によって塗り替えられた。
椅子に腰かけた神――カグヤは、目を閉じたまま、小さくひとつ息をつく。
次の瞬間、砦の天井が――否、天井そのものが消えたかのように、透けていく。
ただの幻影ではない。光と影が混ざり合い、空間がまるごと“持ち上げられる”ような感覚が集会場を包んだ。
視界が、上昇していく。
砦の屋根を超え、外壁を超え、雲を突き抜け、さらに上へ、上へ。
息を呑んだまま、人々は言葉を失っていた。
やがて、空が曲線となり、大地が丸みを帯び始める。
大気圏の外。
宇宙に浮かぶ青い星――それがこの世界であることを、人々は理解するにはあまりにも無知だった。
だが、その美しさだけは、直感的にわかった。
「見よ」
カグヤの声が、空から、内から、響く。
ひとつの点が、光となって浮かび上がる。
広大な大地の中に、かすかに煙が昇り、川が流れ、森が波打つ。
その地を神の声が指し示す。
「そこに道がある」
「この地より南西――古き道を辿り、聖なる泉へと至れ。
それは血を流さず、食を得られ、水に満ちた場所。
わたしが見ている場所であり、祝福を与える地である」
言葉とともに、光景はふたたび下降を始める。
上空から見ていた視点が、まるで鳥が地表へ舞い降りるように――
森を越え、河を渡り、目的地とおぼしき“開けた地”を捉えていく。
そこには、かつて文明があった気配すらある。
古びた石畳と枯れた神殿跡、しかし水が流れ、陽が射し、生命が根づこうとしていた。
「ここに留まること、それは咎を招く」
「逃げるのではない。進むのだ。
わたしの見る先へ。
進むことが、祝福となる」
砦の屋根が、音もなく“戻る”。
空間は元の集会場へと還り、人々はその場に膝をついたまま、動けずにいた。
誰かが涙を流し、誰かが両手を胸元で組む。
声はない。だが、すべての心が――震えていた。
ただ一人、忍だけが神の前に立ち、静かにその言葉を受け止めていた。
長きに渡ってこの地を縛ってきたものが、ついに解かれました。
神の啓示が意味するもの、それは生き延びる道であり、信仰の道でもあります。
次回、旅立ちを前に母と子に告げられる“別れではない始まり”とは――。
忍の歩む道が、いよいよ動き出します。




