015. 誰もいない都に、火が灯る
無人となった辺境伯の屋敷に、王都からの命が届いたとき、
もはや見届ける者は誰ひとりとして残っていなかった。
だが時は止まらない。
廃墟には獣が集まり、人はそれを追う。
誰かの終わりが、別の誰かにとっての始まりとなる――そんな世界の、静かな息遣いを描く。
砦の中庭には、すでに幾つもの臨時の寝台が並べられていた。
まだ夜が明けきらぬ薄明の中、手持ちの松明と焚き火の明かりだけを頼りに、兵と医療係たちが駆けまわっている。
「こちら、子どもと高齢者を優先! 脚を引きずってる者もここへ!」
兵士の一人が声を張り上げると、それに応じて担架が運び込まれた。
乗っているのは、ぐったりとした老人。傍らでは娘らしい女性が付き添い、泣き腫らした目で周囲に頭を下げていた。
「この子、熱が……三日くらい、食べてません……!」
医療係の少女がひとり、抱かれた幼子の額に手を当て、顔をしかめた。
「毛布をもう一枚。湯があれば、それも……」
後ろから別の者が走ってくる。
「まだ火が起ききってません! 水を温めるだけでも……!」
混乱はある。足りないものも多い。
けれど、誰も無駄口を叩かない。
足を止める者もいない。
――今できることをやる。
その意思だけが、人々を繋いでいた。
荷車を押していた男が、自分の積荷の上にいる少女をそっと下ろす。
片方の靴がなく、膝には血の跡がついていた。
「この子、うちのじゃねぇんだ。途中で拾って……でも、ちゃんと……」
男が言い終わる前に、女の係員が少女を受け取った。
「任せてください。あなたは、あなたの子を探して」
男は何か言いかけたが、黙ってうなずき、再び人混みの中へ消えていった。
砦の壁は高く、厚い。
だが、そこに生まれていたのは、防御ではなく、受け入れだった。
今だけは、誰も拒まれない。
その事実が、どれほど人の心を救うかを、誰もが知っていた。
※※※
朝が来ても、屋敷は静まり返っていた。
普段であれば、下働きの者が廊下を掃き、給仕が台所で鍋の音を立てているはずの時刻。
だが今、聞こえるのは風が吹き抜ける音と、遠くで軋む扉の音だけだった。
広すぎる屋敷の中に、人の気配はほとんどなかった。
部屋の襖は開け放たれたまま、寝具も中途半端に片付けられている。
誰かが出て行く途中で手放した小袋が、廊下の隅に落ちていた。
かつて命を受けて動いていた兵士たちは、いつのまにか姿を消していた。
馬屋には数頭分の轍の跡が残り、兵の小部屋では鎧の一部が脱ぎ捨てられている。
置きっぱなしのままの小剣が一本、鞘から半分抜けたまま床に転がっていた。
「この家はもう終わりだ」
そんな言葉が交わされたのを、誰かが耳にしたかもしれない。
けれど、それすら確かではない。
使用人も兵も、まるで一斉に潮が引くように、屋敷から姿を消していた。
広間の柱時計だけが、規則的な音を刻んでいた。
その音が、やけに重たく、寂しげに響いた。
不在ではなく、置き去り。
この家は、誰かによって見捨てられたのではない。
自らを見捨てたのだ――と、誰かが言えば、きっと誰も反論できなかっただろう。
※※※
朝の冷気が、屋敷の中にまで忍び込んでいた。
広い廊下に足音はない。人の気配も、火のぬくもりも、とうに消えて久しい。
本妻は、上質なマントを羽織ったまま、ひとときも立ち止まらずに歩いていた。
荷物は最小限。付き従うのは、古参の侍女ひとり。
後ろには、身支度を整えたふたりの子どもがついてくる。
「母上……父上は、どうするのですか?」
小声で問うた少年に、本妻は振り返らない。
「……もう、どうもしないわ。してはならないの」
その声には、怒りも悲しみもなかった。ただ、冷たい霧のような静けさがあった。
廊下を抜け、正門の前へと歩みを進める。
扉はすでに開けられていた。
門番の姿も、荷車を引く下僕の姿も、そこにはない。
母子三人の前には、ただ馬車だけがぽつんと置かれていた。
御者台には、長く屋敷に仕えていた御者がひとり、顔を伏せたまま黙って手綱を握っていた。
本妻は静かに乗り込む。子どもたちも、それに続く。
扉が閉まる音と同時に、御者が無言で馬を進めた。
広すぎる庭先に、見送る者はいなかった。
砂利の上に残された車輪の跡だけが、彼らの存在を証明していた。
――この家はもう終わったのだ。
そう口に出す者はいなかったが、誰もがその事実を否定しようとは思わなかった。
※※※
重く閉ざされた書斎の中。
分厚い扉の隙間から差し込む光は、まるで外界との最後の繋がりのようだった。
部屋の隅には、空になった酒瓶が転がっている。
破られた書類の断片が床に散らばり、帳簿の表紙は濡れたように波打っていた。
静寂の中、何かを叩きつける音だけが、ときおり響く。
「……なぜだ……どこで間違った……」
辺境伯は机に突っ伏し、唸るように呟いていた。
顔は赤らみ、目は血走り、手には空の盃が残されている。
妾たちはいない。
妻も、子も、兵も、家臣も。
すべてが彼の許から離れていった。
だがその音にすら、応える者は誰もいなかった。
立ち上がろうとして、椅子ごと倒れる。
床に尻もちをついたまま、辺境伯は虚ろな目で天井を見上げた。
「……わしは……領を守ってきた……。この地を、民を……」
かすれた声が、空しく壁に吸い込まれていく。
誇りも、義務も、今や誰にも顧みられぬ。
窓の外では、朝の光がゆっくりと差し込み始めていた。
だがその光が、彼のもとに届くことはなかった。
まるで、この部屋だけが時間から取り残されたかのように。
※※※
扉が砕けるような音を立てて、書斎の空気が揺れた。
辺境伯は反応できなかった。
自分の錯覚か、酒のせいかと疑った瞬間には、すでに数名の兵士が部屋へなだれ込んでいた。
「動くな!」
怒号とともに、槍の穂先が突きつけられる。
呆然と見上げる辺境伯の両脇に、がっしりとした腕が伸びた。
重い鎧の軋む音が、まるで法の音のように響く。
「王命により、領政の不備および住民保護の義務を放棄した責をもって、身柄を拘束する。」
中央に立つ役人が、形式的な口調で巻物を読み上げた。
「……なっ……ば、馬鹿な……っ!」
辺境伯は叫んだ。だが、その声に重みはなかった。
椅子を蹴って立ち上がろうとしたが、酔いと疲労で足元がもつれ、膝をついた。
「妾どもが……逃げたのだ。わしが……わしが何をしたというのだ……!」
役人は応じない。
兵士が無言で彼の腕を取り、手枷をはめた。
冷たい金属が皮膚に食い込んだ瞬間、辺境伯の抵抗は、ただの震えに変わった。
廊下にはもう誰もいない。
迎えも、見送りもない。
ただ、足音と鎧の音だけが、がらんとした屋敷に反響していた。
書斎の扉が閉じられる。
その向こうには、割れた酒瓶と散乱した書類、そして倒れた椅子だけが残されていた。
※※※
焚き火の煙が立ちのぼる。
周囲に誰もいない屋敷の庭先。崩れかけた塀の陰に、数人の冒険者が腰を下ろしていた。
「ここ、狩りやすいな。森も近いし、魔物もそこそこ湧いてるし」
「建物も、けっこう残ってるしな。屋根のある場所で干し肉作れるだけでありがてぇ」
皮を剥いだ魔物の頭を蹴飛ばしながら、年嵩の男が笑う。
「もともと、脳筋バカが領主してたって噂だぜ。
税金は重いし、女遊びは派手だし、民は逃げるし。挙げ句の果てに、王都に連れてかれたって話」
「自業自得だな」
「むしろよく今まで持った方だろ。神の加護でもなきゃ無理だって」
皮を火にくべたとき、ぱちりと音が鳴った。
しばらくして誰かが言う。
「でもよ、皮肉なもんだな。人が住んでた場所のほうが、モンスター集まってくるってのはさ」
「……いや、逆だろ。モンスターが集まってくるから、人がいなくなるんだよ」
静かに笑い合いながら、彼らはまた食事に戻っていった。
※※※
古い地図の上に、黒い印がひとつ加えられた。
その横には、新しく書き込まれた地名――「旧辺境伯領都」。
冒険者ギルドの掲示室には、ざわざわと人の気配が満ちていた。
「ここ、開いたんだってな」
「え? 例の“無血崩壊”したってとこか」
「そう。元々は辺境伯の屋敷があったらしいけど、住人はもういない。魔物も出始めてるし、狩場としては悪くない」
話しているのは、受付に立つ若い男と、登録済みの斥候職の女冒険者。
その奥、別室ではギルドの中堅幹部たちが集まっていた。
「で、これは……あの“北の避難者”の出した情報か」
「はい。例の砦に入った集団のひとつ。神の加護を受けたって噂されてる連中です」
資料を読みながら、年配のギルド員が低くうなずく。
「面白いな。土地を守る力じゃなく、土地を開く力か……。あいつら、本当に神に選ばれてるのかもしれん」
「それに……住人が消えたってことは、“誰のものでもない”ってことですから」
「ま、誰のもんかなんてどうでもいい。
今は獲物がいて、宿代と食い物を落とす奴が来りゃ、それで十分だ」
ひとりが笑いながら言う。
だがその視線の先には、壁に掲げられた書状があった。
「神の導きに従い、地を清める者に、力と富が与えられん」――そう記された、ある少女の言葉だった。
忘れられた都に、少しずつ人の足音が戻ってきます。
それは決して、かつての栄華の再現ではありません。
けれども、忍たちが開いた「生の道」が、こうして別の形で誰かの役に立っていくのです。
次回は、砦に戻って、忍たち自身が進むべき“次の一歩”を決める場面へと移ります。




