014. 朝焼けの門
夜明け前の砦に、ようやく姿を現した後発組。
焼けた村を越え、命を繋ぎ、声もなく歩んできた者たちが、静かに門をくぐる。
そして始まる、いくつもの再会――涙も、言葉も、ただそこにある生の証として。
夜明け前の風は冷たい。けれど、その冷たさが、むしろ緊張した心を保ってくれるようでもあった。
ミヨたち後発組は、屋敷を出たあと、いくつかの分岐路を避けながら郊外の林道へと進んでいた。
集まったのは、おとな七名、子ども三名、そして年老いた者がふたり。荷車や馬は使わず、全員が徒歩。あえて目立たぬよう、身軽な旅装に見せかけた粗末な荷を背負い、隊列もばらけさせてある。
空は少しずつ白み始めていた。真上にはまだ星が残っているのに、東の空だけがうっすらと紅を帯びている。
「……森の影が長いうちに、次の丘を越えたいね」
先頭を歩くミヨが、振り返らずに小さく呟いた。すぐ後ろにいた女中の一人がうなずく。
「今ならまだ、追手は出ていないはず。屋敷内の騒ぎは、朝食の混乱でしばらく隠れるでしょう」
「セギル様も、限界のところで時間を稼いでくださってる……失敗はできないよ」
会話は必要最低限。足音は落ち葉を踏む音と、時おり風に混じる鳥の羽ばたきだけだった。
道の途中、ひとりの子どもが足を止めた。まだ六つにも満たない幼子だ。
母親が立ち止まり、その肩をそっと抱く。
「歩ける?」
「うん……でも、寒い」
小さな声に、母親は自分の外套を脱いで、その背にかけてやる。
「すぐ、焚き火のあるところへ着くよ。忍さまも待ってるかもしれないから」
その名を聞いた子どもは、少しだけ顔を上げて頷いた。隣にいた別の子どもが、手をそっとつないでくれる。
「……ねえ、しのぶさまって、本当にすごいの?」
「すごいよ。だって、母さまが言ってた。神さまに会ったんだって」
「神さま……?」
木々の隙間から差す朝の光が、少しだけその言葉を神秘的に響かせる。
誰もが疲れていた。それでも、誰も文句を言わなかった。彼らはただ、信じていたのだ。あの母子が、そしてその先にいる誰かが、自分たちを受け入れてくれると。
やがて、森の向こうにひとつの丘が見えはじめた。
そこを越えれば、目的の砦が見えるはずだった。
ミヨは腰に差した小さな布包みを指でなぞる。そこには、セギルから託された地図の切れ端と、合図の符札が収められている。
まだ砦の外壁は見えない。だが、空気が違う。
周囲の音が、風の流れが、すぐ先に何かがあると告げていた。
「――もうすぐ。あと少しだよ」
その言葉に、隊列の最後尾からも安堵の気配が漂った。
夜が明ける前に着く。それが、最初の約束だった。
※※※
砦の中庭に、かすかに霧が立ちこめていた。朝の空気はまだ冷たく、石壁の隅には昨夜の焚き火の名残が白く残っている。
砦守備隊の副官ナデルは、北門近くにある監視塔の上から、林の方角を静かに見つめていた。
見張り台の旗がひとつ揺れ、風の向きが東へと変わったのがわかる。
「……来るな。予定より少し早いくらいか」
目を凝らすと、まだはっきりと姿は見えない。だが、森の影の揺らぎや、鳥たちの動きが微かに変わっている。人の気配を感じて、獣たちが息を潜めたのだ。
ナデルは静かに階段を降りると、近くの衛兵に声をかけた。
「北側、第一接触準備。来訪者は十数名。荷物軽装、徒歩。黒鳥副官セナ殿の後発脱出組と思われる」
「了解。正門ではなく、横通路に案内するか?」
「そうだ。例の通路に。見張りと誘導は最小限、他の兵は中庭に近づけるな」
「了解しました」
衛兵が走っていくのを見届けると、ナデルは胸元の革袋に手を入れ、一枚の札を取り出した。
それは、セナを通じて事前に託された識別符――砦に入る者が“仲間”であることを識別するための、神の加護を帯びた道具だ。
「……ようやく、そちらもたどり着く頃か。セナ殿、うまく導いてくれたな」
彼女は微かに笑い、北門へ向かって歩き出す。
砦の内側では、既に仮設の食堂と寝所の整備が終わっていた。人数に合わせた床敷きと、予備の衣服、子ども用の湯と薬草。
長距離の徒歩移動を想定した簡易対応とはいえ、ここまで準備されていたのは、事前に詳細な予測があったからに他ならない。
神の声を受けた者たちが、すでに動いていた。
――そして。
「来た!」
門上の見張りが、声を上げた。だがそれは叫びではなく、かすれた合図のような声だった。
門のすぐ外、木立の向こうに人影が揺れる。日差しがその背後から差し込み、逆光のなかに浮かぶ十数の影――
疲れた足取り、荷の少なさ、互いを支えるように歩く姿。
――間違いない。
ナデルは静かに門扉の前に立ち、片手で合図の旗を下ろす。
ゆっくりと、砦の門が開いていく。石と鉄の擦れる音が、朝の空気を割った。
その向こうに、ようやく届いた人々の影が現れた。
※※※
砦の門が、ゆっくりと軋みながら開いた。
朝日はまだ地平線の向こうで、空はほんのりと藍色に染まっている。夜の名残と朝の気配が交錯する、その狭間の時刻だった。
風が冷たく、静かだった。
焚き火の煙がわずかに揺れる。
誰もが声をひそめ、息を飲む。砦の内も外も、言葉ではなく「気配」でやり取りされていた。
石の門の向こう――
砂と風にまみれた一団が、ひと筋の列をなして進んできた。
足音が、かすかに響く。
靴の底が土を叩く、衣の裾が擦れる。
けれど、誰ひとり叫ばない。
助けを求める声も、泣き崩れる声もなかった。
それが、むしろ現実味を帯びていた。
荷車を押す者、子を背に負う者。
ふらつきながらも、自らの足で歩いていた。
彼らの先頭に立つのは、一人の若い女だった。
顔には疲労と汚れの跡がにじみ、髪は風に乱れている。
それでも、その目だけは、迷いなく前を見据えていた。
砦の内で待つ者たちが、その姿を見つけた。
門の上では、イオスが静かにうなずいた。
誰よりも先に、彼の眼差しが「迎え入れよ」と命じていた。
砦の門兵が、合図もなく動き出す。
門がさらに開き、朝の風が中へと吹き込んできた。
その風に乗って、焦げた草の匂いと、かすかな血の気配が流れ込んだ。
朝が来る。
生きている者たちが、ここにたどり着いた。
※※※
門を越えたとたん、踏みしめていた力が抜けたのだろう。
誰かが膝から崩れ落ちた。肩を揺らし、声にならない嗚咽を漏らす。
その音をきっかけに、あちこちで、堪えていたものが次々とこぼれ出す。
泣き出す子ども。
黙ってその背を抱く母親。
肩を叩き合い、ただ無言でうなずく男たち。
だが、叫び声も、取り乱す者もいなかった。
「生きて来れた。」それだけで、十分だった。
ここが砦であり、ようやく「守られる側」に立てたのだという実感が、重たく胸に降りてきていた。
人の波の中を歩いていたセナが、立ち止まる。
門の内で彼女を迎えたのは、砦に先に着いていた仲間たちだった。
そのうちの何人かは、無事を確かめると同時に涙を流し、セナにすがるようにして言葉をかける。
「本当に、よくぞ……」
「戻ってくれて、よかった……!」
セナは何も言わず、ただうなずいた。
泥と焦げ跡にまみれた顔に、疲れきった笑みがわずかに浮かぶ。
肩を抱かれたまま、彼女もまた、誰にも聞こえないような声で、静かに返す。
「みんな……よく生きて……くれた」
その光景は、やがてほかの者たちにも波のように広がっていった。
再会を果たす者たちが、次々と人混みの中で見つけ出されていく。
泣く者、笑う者、抱きしめ合う者。
そして、静かに背中を押し合う者もいた。
朝の光が、ようやく砦の屋根を照らし始めた。
誰もが無言のまま、ただ確かに、生きてこの地にたどり着いたのだと、その温もりを確かめていた。
ようやく砦に辿り着いた後発組。
「生きて来れた」という実感が、どれだけ重いものかを、誰もが噛みしめる瞬間です。
このあと砦の中では、それぞれの役割や決断が動き出していきます。
次回は、彼らを迎え入れる側――イオスや幹部たちの視点から、砦の空気を描いていきます。




