013. 消された帳簿と動き出す影
邸内が混乱する早朝。
本妻の仕掛けが辺境伯の怒りを受け流し、裏では静かに“証拠”が処理されていく――。
今回は、神の道具を手にした者たちと、屋敷を抜け出す後発組の動きに焦点を当てます。
砦の外壁が見えるその瞬間まで、息をひそめた人々の一歩一歩を、どうぞ。
早朝。東の空が白みはじめ、城館の石壁にかすかな朝の光が差し込む。まだ冷たい空気が階段の吹き抜けを這うように広がるなか、辺境伯の寝室から怒声が響きわたった。
「どういうことだ! 妾屋敷が空っぽだと!? 侍女もいないだと!? なぜ誰も報告してこなかったッ!」
怒りに燃えた男は、織布を幾重にも重ねたゆったりとした衣をまとっていた。
それは東方の交易商が献上した、肌にやさしく吸い付くような寝巻き――この地では珍しい異国趣味の品である。まとわりつく布が動きにくいと文句を言いつつも、彼はいつしかその着心地に慣れ、今では好んで使っていた。
「どうせあれだ、誰かが手引きしたんだ……裏切り者がこの屋敷にいる……!」
部屋の隅に控える家臣たちは誰も口を開けず、ただ背を丸めて嵐が過ぎ去るのを待っていた。
そこへ、重い扉が静かに開かれる。
「おはようございます、貴方様。ご機嫌を損ねては、お身体に障りますわ」
入ってきたのは本妻。彼女もまた、同じく東方風の長衣を身にまとっていた。
落ち着いた色合いに細やかな縫い取りが施されたそれは、上質な仕立てに違いないが、あくまで異国の趣向を借りた“夜の衣”という位置づけである。彼女の所作は、そのまま朝の光をたずさえて入ってきたかのように優雅だった。
「……こんなときに何をしに来た」
「怒鳴っていては、誰も動けなくなりますわ。まずはお食事をお取りくださいませ。温かい湯も、貴方様のお好きな香草もご用意しております」
彼女は近づくと、さらりと寝巻きの裾を引き、軽く礼をする。
その一動作で、周囲の空気が少しだけ落ち着いたようにさえ感じられた。
「……ふん。飯など食っている場合ではない」
「いえ、腹が満ちれば目も冴えるもの。朝食のあとで、じっくりと調べては? 召使いの顔色を見るのも、そのときで十分でしょう?」
辺境伯は唸るように黙りこくり、しばし思案したが、やがて渋々とうなずいた。
「……わかった。だが食い終えたらすぐに調べさせる。誰かが必ず裏で動いている……!」
荒々しく立ち上がると、彼は大股で部屋を出ていった。寝巻きのままに、羽織を片手にぶら下げながら。
本妻はその背を見送りつつ、侍女に視線を送る。
「――朝食が終わるまで。十分でしょう?」
その小声に、侍女は静かにうなずき、廊下の影へと消えていった。
※※※
石造りの廊下を、女中のフミはそっと足音を忍ばせて進んでいた。空はまだ薄暗く、屋敷の灯火もすべてが点る前。
だが廊下の奥――書庫の脇室には、すでに灯された小さな明かりがあった。
扉を二度、小さく叩く。
「セギルさま、私です。フミでございます」
しばしの沈黙ののち、中から返事があった。
「入れ」
鍵が外され、軋む音とともに扉が開かれた。現れたのは、灰色の髪に眼鏡をかけた老人。屋敷の会計係として長年仕えてきたが、数年前に“隠居”の形で裏方に回され、今は書庫整理を命じられている男だった。
「時間は?」
「朝食まで、あと半刻ほど……本妻様が、伯爵様の気を引いてくださっております」
「上出来だ。入れ」
フミは頷いて部屋に入る。帳簿や証書が山積みになった棚の前に、黒い布に包まれた一袋が置かれていた。彼女はそれを両手で持ち上げる。
――これが、神様から託された“転送袋”。
中は不思議と軽い。厚紙のような硬いものを入れても、布地はふわりと形を変え、音も立てない。
「間違えるなよ。渡すのは“あの帳簿”と“昨年の銘柄証券”、“側近リスト”の控え。それと、もう一冊――あれはお前の判断だ」
「承知しました。……伯爵様に気づかれずに済めば、もうこれが最後の仕事になるはずです」
フミは頷き、手早く作業に取りかかる。
セギルの指示通り、書棚の奥から木箱を開き、手帳のように見える黒革装丁の帳簿を取り出す。指先でめくると、中には細かく並んだ銘柄名と銀貨の数字。
――裏帳簿。公文書には記載されない、隠し財の記録だった。
「これですね……それと、こっちの封書の束も」
「念のため、あれも入れろ。“妾”に支払われた屋敷経費の記録だ。無論、帳簿側には記載されていない」
フミはそれらを転送袋に入れ、最後にそっと口を結ぶ。
その瞬間――。
袋全体が、ふわりと光を帯びはじめた。
空気が震えた。袋は、もともとそこにあった形を崩すように、淡く、やわらかな白い光の球へと変わる。
音はない。ただ静かに、床の上でふわりと浮かび、白光の粒子となって空中に消えた。
そこに残されたのは、わずかに漂う草香と、微細な光粉のようなものだけ。すぐにそれも、吸い込まれるように霧散した。
「……本当に、神の技だな」
「ええ。証拠は何ひとつ残りません。あとは、託した先の方に任せるだけです」
フミは静かに頭を下げた。
セギルは棚の裏側に回り、空の木箱を元通りに収める。
「お前も、もうすぐだな」
「はい。『妾付きの侍女だった者の親族』という口実で、今日のうちに屋敷を出る予定です」
そう言って微笑んだフミの顔は、どこか晴れやかだった。
神の道具により証拠は託された。これでもう、忍様とその母君に“濡れ衣”はかけられない。
次は、自分たちの脱出。だが今は、あと半刻だけ――役目を全うする。
※※※
屋敷の中庭に、冷たい朝の風が吹き抜ける。夜の気配がまだ残る石畳の上を、数人の女中たちが足早に歩いていた。
「私たちは妾付きの侍女でした。どこへ行ったか、見当もつきません。今から周囲を見て回ります」
門番にそう告げたのは、中堅女中のミヨだった。目元に疲れを隠し、口調はあくまで沈着。だが、その背後には二人の年老いた女と、幼い男の子が一人、肩を寄せ合うように立っていた。
ミヨたちが手にするのは、家人たちの外出許可証の写しと、屋敷内でよく使われる封印札。いずれも昨日のうちに用意されたものだ。
屋敷の雑務係が記録処理を行う隙を突き、帳簿担当のセギルが古い印を借りて複製した――“捜索協力者としての仮外出”という体裁だった。
「……子どもまで連れていくのか」
門番の若い兵が、ちらと後ろの男の子に目をやる。
「母が不安がって、どうしてもと。見回りには問題ないかと。ほら、この子も見張りのひとりですよ」
冗談めかした声に、兵は眉をひそめたが、深く追及はしなかった。朝の冷気と、辺境伯の怒声がまだ耳に残っている。こうした“下の者たち”を問い詰める気にはなれない。
「……わかった。なるべく早く戻れよ。妾と子がどこへ逃げたか、手がかりだけでも掴め」
「心得ております。ありがとうございます」
ミヨは深く頭を下げ、ゆっくりと門をくぐる。彼女に続く女たちも、言葉少なに外へ出た。
屋敷の外に出た瞬間、空気が変わる。冷たさではない。胸の奥に張り付いていた“壁”が、少しだけ剥がれ落ちたような感覚だった。
舗装のない細道を進み、角を二つ曲がると、小さな水場にたどり着いた。そこで一度、足を止める。
「……あと三組。交代で出てくるはず。全員そろうまで、ここで待ちます」
ミヨが低く言うと、連れてきた老婆が、疲れた顔でうなずいた。
「子どもを隠すなんて……まさかこんなことになるとはねぇ……」
「ううん、違うよ。忍さまが助けてくれるって……お母さん言ってたもん」
男の子が、ぽつりとそう呟いた。手には、忍がかつて配っていた小さな布の人形が握られている。色褪せたそれを、ぎゅっと抱きしめたまま、彼は空を見上げた。
空はもう、朝焼けの気配を帯び始めている。
――あと少し。あと少しで、砦の外壁が見えてくる。
最後の帳簿が光とともに消え、
女中たちは“捜索”を装い、静かに門を出ました。
子どもたちが握りしめていた希望――それは、忍の名でした。
砦では、神の道具を預かる者たちが、静かに迎えの準備を整えています。
次回は、ついに全員がそろい、砦で交わされる“次の一歩”の会議へと進みます。




