012. 消えた影、騒然の朝
夜明けは、静かに訪れた。
しかし、その静けさは、平穏によるものではなかった。
騒ぎの後に残されたのは、空になった部屋。消えた足跡、追いつけぬ影。
この朝、辺境伯邸はようやく、すべてを失ったことに気付くことになる。
朝の鐘が、屋敷内に低く響いた。
それは、いつもと変わらぬはずの一日の始まりを告げる音であった。
しかし、その日は違っていた。
まず最初に異変に気づいたのは、洗い場の女中だった。
「おかしいねぇ……今朝は、レイナ様のお使いがまだ来てないよ」
小鍋を火にかけながらそう呟いた彼女に、年上の侍女が眉をひそめる。
「……昨夜のうちに、具合でも悪くなったんかね」
誰かが軽く返し、場は一度、緩んだ。
だが、それも束の間のことだった。
続いて、別の若い侍女が血相を変えて飛び込んでくる。
「侍女部屋……誰もいない! ミナさんも、サエさんも……布団が冷たいままなんです!」
彼女の声が裏庭の方へと抜けていくのと同時に、他の使用人たちも次々と異変に気づき始める。
物置小屋の扉が、内側から釘抜きで外されていた。
炊事場の倉庫からは干し肉と保存パンがひと抱え分なくなっている。
水場近くの桶が三つ消えていた。
普段は誰も立ち入らない空き部屋の床に、泥の足跡が続いている。
「……これ、ただ事じゃないぞ」
厩番の老人が、かすれた声でそう言ったときには、もう屋敷中に緊張が走っていた。
女たちは口々に噂を重ね始める。
「妾の離れが……からっぽだったって」
「ええっ、まさか、あの子も……?」
中庭に、寝間着姿の若い兵士が慌てて走ってくる。
「報告です!物見櫓から、夜明け前に裏門の影で動く人影が数体――!」
報告の声が届いた瞬間、屋敷内は爆ぜるように騒然となった。
「本妻様を!すぐに!」
「辺境伯様は?……まだお休みに? いや、それどころじゃ……!」
階段を駆け上がる足音。
食堂から叫び声。
外へ走る者。中に逃げ込む者。
それは、忍とレイナたちが静かに去ってから、ちょうどひと晩が明けた頃のことであった。
※※※
「……た、大変でございますっ!」
顔面蒼白の若い兵士が、夜着のまま廊下を駆け抜けた。
駆け込んだ先は、屋敷中央にある主棟、辺境伯の私室。
「離れが……妾屋敷が空っぽでございます!」
扉の向こうからは、返事も音もない。
兵士が再度呼びかける。
「辺境伯様ッ!至急の報告が!」
そのとき、内側から鈍く何かが倒れる音がした。
そして次の瞬間、扉が勢いよく開く。
「……うるさいっ!なんじゃ、朝っぱらから……!」
顔を真っ赤にした辺境伯が、寝乱れた髪のまま現れた。
酒気を含んだ息。肌着のまま。
その姿に、兵士は一瞬、口をつぐむ。
「妾の屋敷が空っぽ?……どういうことじゃ、それは」
「レ、レイナ様も……お子も、侍女も、屋敷から姿が――」
「盗まれたのか?……いや、連れ去られた? まさか逃げたのか?!」
辺境伯の顔が一気に青ざめる。
「わしの妾が!このわしの許可なく!!」
怒声が廊下に響いた瞬間、反対側の回廊から冷ややかな声が差し込んだ。
「ようやく起きたようね。随分と鈍い男だこと」
本妻であった。
朝の支度を整えた黒衣の彼女は、すでに状況を把握しつつあった。
側に控えた侍女が、そっと書状を差し出す。
「妾宅の戸口の鍵、倉庫の損傷、兵の当直記録。加えて今朝、門番が交代していなかった件も——すべて、こちらに」
本妻は眉ひとつ動かさず、帳簿を辺境伯の足元に落とした。
「自らの屋敷の異変を、女中に教えられるとは……呆れ果てるわ」
「……そ、その、まさかお前が手引きを……」
「私が?ふふ。あなたはまだ、私を“ただの正妻”だと勘違いしているのね」
その笑みに、辺境伯は思わず一歩退く。
「よいでしょう。では、事態収拾に取り掛かりましょう。
兵を動かして、町の出入りを封鎖。砦と周辺村に“探索隊”を出すのです」
「ま、待て……そんなことをすれば王都に噂が……」
「もう遅いわ。妾腹の子が逃げ出したという話は、王室にも届くでしょう。
それがあなたにとって不都合なら……今すぐ、始末なさい。全力で」
その指示が下されたとき、すでに屋敷の者たちは散り散りに走り出していた。
騎馬兵が命を受け、南西の街道へと向かう。
使用人たちは荷をまとめ、書類を焼却し始める。
邸宅が“痕跡を隠す”作業に入り始めた瞬間だった。
辺境伯は、ただ口を開けたまま、部屋の天井を見上げていた。
何が起きたのか、自分が今、どこに立たされているのか。
そのすべてを理解するには、あと数日を要することになる。
※※※
屋敷の屋根瓦の影。
朝霧の中に、ほとんど気配を消すように一人の人物が身を伏せていた。
黒い頭巾と外套に身を包み、灰色の瞳だけがわずかに光を帯びている。
彼の名はガイ。黒鳥隊の一員で、潜入と索敵を得意とする。
「……あの本妻、やはり手が早いな」
耳に忍ばせた魔導耳殻に、仲間からの低い声が届いた。
《反応が想定より一刻早い。だが、動きに無駄が多いな》
ガイは微かに頷き、屋敷の中庭へと視線を戻す。
今まさに、寝間着の兵士たちが馬小屋に駆け込んでいく。
書類を焼く使用人。呼吸を荒くして走る侍女たち。
誰もが何かを見落とし、何かに気づかず、ただ焦っていた。
《イオス隊へは、既に伝達済み。砦側は完全に静穏》
《こちらは予定通り“今夜”後発組を出す》
「問題ない」
ガイは一言、短く呟いた。
その声は、屋敷の周囲に配されたもう数名の黒鳥隊メンバーの耳にも届いていた。
屋敷裏の井戸小屋、町外れの納屋、古い祈祷所の鐘楼跡。
それぞれの持ち場に伏せる影たちは、互いの姿を見ずとも連携し、同じ合図を共有していた。
《黒鳥様より伝言。移動経路“柊の道”を優先使用。》
《了解。後発組の引率はセナ副隊長が担当》
《南の誘導は任せた。こちらは西門を押さえる》
まるで舞台の幕がゆっくりと上がるように、邸内の混乱と、外の静寂が対照的に進行していく。
ガイは軽く腰を浮かせると、視線を南へと移した。
そこには、森と小道、そして夜を待つ者たちの気配がある。
「……予定通り動けば、犠牲はゼロだ」
誰に言うでもなく、空へと放たれたその声は、淡く揺れる霧に飲み込まれていった。
※※※
月は隠れ、雲は低く垂れ込めていた。
風は穏やかで、森の奥では梟が一度だけ鳴いた。
その音を合図にするように、邸の東端、古井戸の裏から一組の影が静かに現れた。
――後発脱出組、移動開始。
誰の声でもなく、誰の命令でもない。
だが、その場にいた者すべてが、いまがそのときであることを理解していた。
侍女のミナは、小さな背嚢を背負い、手を握っている幼子にそっと目をやる。
眠ったままのその子の顔を見て、ひとつ深く息を吸い込んだ。
「……静かにね。足音は、地面に置くように」
同じく、別の出口からはサエの姿があった。
背にはまだ赤子のいる布包み。手には灯りの代わりに蓄光石を包んだ布。
まるでそれぞれが違う演目の役者であるかのように、屋敷から、街の一角から、村の外れから……
ばらばらに見えた点が、ひとつの流れとなって集まり始める。
小さな手を握る親。
荷車に毛布を載せる老人。
手斧を懐に忍ばせる若者。
その誰もが言葉を交わさず、ただ、夜の中を進んでいった。
道は細く、草に覆われ、数十歩ごとに合図石や枝折れが目印となっていた。
先を進む黒鳥隊の影は、姿を見せぬまま、木の幹に印を刻み、交差点には石を並べた。
それが「こちらへ」と告げる無言の誘導であった。
息を殺し、歩を止め、音を立てぬよう、何かを祈るように。
その列は、まるで闇の中を泳ぐ川のように、ゆっくりと、しかし確実に西へ向かって進んでいく。
「……もうすぐ、あの人たちと、同じ場所に」
ミナがぽつりと呟いた。
それは隣にいた誰にも聞こえていなかった。
けれど、その想いは、確かに列全体に流れていた。
彼らが砦へと辿り着くその夜のことを、まだ誰も知らない。
逃れた者たちは、もう振り返らない。
残された者たちは、ただ騒ぎ立て、やがて沈黙する。
それぞれの夜が終わり、また新たな朝が始まる。
だがこの地にはもう、日常を支える者の姿はない。




