011. 騒めきの朝、始まりの鍵
遠い道のりを越え、忍たちはようやく砦にたどり着いた。
迎える者のまなざし、支えてきた母の手、そして眠りの中で交わされる静かな決意。
その頃、誰かの夜が終わり、誰かの朝が騒がしく始まろうとしていた。
嵐の音はまだ遠い。だが、それが近づいてくる足音は、もう聞こえている。
砦の門が、静かに開いた。
灯火の数は少ない。守りの拠点としては十分だが、迎える者の表情には緊張と、どこかに隠しきれぬ安堵があった。
石壁に囲まれたその空間は、外の荒野とはまるで違う。火の粉のように飛び散っていた焦燥も、不思議とこの地では静まっていく。
先頭を歩いていたのは、小さな影だった。忍。砂に汚れ、頬を赤らめたその子供の背を、母がそっと支えている。
砦の主であるイオスは、門の前で彼らを待っていた。
長身の男。その眼差しは厳しいが、懐の深さを感じさせる柔らかさもある。忍を見つけたその瞬間、彼の顔にかすかな笑みが浮かんだ。
「……よう、無事だったか」
それは誰に向けられた言葉だったのか。忍か、母レイナか、あるいはその後ろに控える仲間たちか。
だが、その問いに誰も答えることはなかった。
答える代わりに、忍がゆっくりと、イオスの前まで歩いていった。
その目を見上げた。まっすぐに、静かに。
イオスは膝を折り、視線を合わせた。そして、何も言わずに、ひとつだけうなずいた。
それだけで十分だった。言葉は必要なかった。
背後で、レイナが肩を震わせた。だが泣き声は漏らさず、ただ胸元を強く抱きしめる。
一行は、静かに砦の中へと迎え入れられた。
扉が閉まる音は、まるで何かが終わり、そして始まることを告げる鐘のようだった。
その夜、誰もがそれぞれの静けさと向き合うことになる。
※※※
砦の一室──
そこは臨時に整えられた休息の間だった。石造りの壁に囲まれた空間に、簡素な寝台と椅子、数枚の毛布があるだけ。だが、それで十分だった。野を駆けてきた者たちにとって、雨露を凌げるこの部屋は、何よりも温かかった。
レイナが、寝台に腰を下ろした。
忍がそっと寄り添う。その手は、母の腕に添えられたまま離れない。
「……よかった。本当に、無事だった……」
ぽつりとつぶやいたのは、年若い侍女のひとり、マリアだった。
その横で、やや年長の侍女カレンがうなずいた。
「ほんの数日前まで……砦にたどり着けるかどうか、半信半疑だった。けれど……」
目元を押さえるカレンの手は、震えていた。
砦主イオスは、ひとつ隣の部屋で報告を聞いていたが、扉の向こうから漂う空気に、目を伏せた。
「静かに休ませてやれ」とだけ残し、その場を離れる。
一方、レイナのそばでは、砦で待っていたもう一人の侍女が、静かに湯を沸かし、湿布を用意していた。
「湯を持ってきました。怪我も、軽いものではありません。早く、体を温めてください」
その声に、レイナがやっと口を開く。
「……ありがとう。でも、今は、ただ……」
視線の先には、息子の頬を撫でる手。
そこには、言葉では届かぬものが、確かにあった。
一同は、音も立てずに頭を下げ、そっと部屋を出た。
その廊下で、侍女のマリアがつぶやく。
「……もう、走らなくていいんだね」
それは誰に向けたものでもなく、自分自身に向けた、ほっとした吐息だった。
※※※
砦の一室。疲労と安堵の波に包まれた忍は、支給された簡素な寝具の上で小さく息を吐くと、すぐに眠りに落ちた。
夜の帳が深まり、星々の光が砦の屋根を静かに撫でていた頃――。
まぶたの裏に、やわらかな光が差し込む。
「……また、夢の中、ですか」
忍が目を開けると、そこは見慣れた白銀の虚空。重力も風もなく、ただ柔らかな光に包まれた無音の空間だった。
すぐ目の前に、ふわりと和装姿の少女が現れる。
カグヤ――この世界を創り、そして忍たちを呼び寄せた神であり、古き戦友でもある存在。
「おつかれさま、しのぶ。よく無事に砦まで来てくれたね」
その声音には、慈しみと安堵、そして次の準備を促す気配が滲んでいる。
忍はそっと頷く。
「……母も、子どもたちも、領民たちも。多くの者が命をかけて、ここまで来ました。次は……後発の者たちを、迎える番です」
カグヤが静かに手を振ると、空間が淡く歪み、そこにもうひとりの姿が浮かび上がった。
燕尾服のような装いを纏い、知的な眼差しを湛える中年の男――
王都の官僚にして、かつての師団メンバー、「ユーリ・ナカムラ」である。
「やあ、忍。どうやら先発は成功したようだね。報告はカグヤから受け取っている」
「ええ……でも、あの家はまだ、あのまま残っている」
忍の声が、低く震えた。
「母を苦しめた家……領民を見捨て、搾取し、腐敗の中心になっている連中。ぼくは、あいつらを許すつもりはありません」
ユーリは深く頷いた。
「それを聞いて安心したよ。……実は、もう動いている。
君が脱出した時点で、我々の『観察』は監視へと移行した。いま、本邸の捜索準備を進めている。狙いは、裏帳簿。君の言葉で言うなら“本丸”だ」
「……まさか、神様の夢通信経由で、国家機密の捜索命令が通るとは思いませんでした」
「いや、これは公ではない。完全な個人任務だ。
この国の中枢には、あの家と裏で繋がってる者も少なくないからな……慎重にいく」
カグヤが小さく笑いながら口を挟む。
「だから、今回は夢経由で忍に協力を頼んでるの。
屋敷内の“中の者たち”に指示を出せるのは、しのぶしかいないもの」
「了解です」と忍は言った。「その役目、引き受けます」
カグヤが再び手を振ると、今度は兵装を身にまとった若い女剣士の姿が現れた。
整った顔立ち、芯の通った目、落ち着いた所作――忍の記憶にある「後方連絡班の副隊長」、いまは後発組の現地指揮官を務める存在だ。
「副長。おつかれさまです」
「しのぶ様。無事の到着、何よりです。――夢経由での接続とは、懐かしいですね」
「今回、ユーリさんの依頼で、本邸と本妻側の部屋を調べてほしいんです。
裏帳簿があるはずです。それを見つけたら……」
「はい。例の“神道具”で、直接こちらに転送いたします。忍様のご指示どおり、協力者には順次連絡を回しております」
副隊長は背後にある光の球体――神が与えた転送装置に似た小型の光具を一瞥し、頷く。
「脱出の準備も整いつつあります。屋敷内の女中や、兵士の家族も含め、“捜索協力”の名目で屋敷外へ出る許可が降り始めました。
あとは、決行の合図を待つだけです」
忍は深く息を吸い、口を引き締めた。
「みんなを、頼みます。……ぼくは、この逃避行の先にある“建国”を視ている。
そのために、今は……この家を、終わらせる」
静かに、しかし確実に響くその言葉に、夢の空間にいた者たちは、誰もが深く頷いた。
カグヤが最後に微笑み、忍の肩にそっと手を置く。
「君は、もう“神の使徒”のようになってきてるわね、しのぶ。
でも、気張りすぎないで。……君はまだ、ひとりの子どもなのだから」
――ふっと、光が弾ける。
忍は、再び砦の寝具の上で、小さく寝息を立てていた。
※※※
まだ朝霧の残る、辺境伯邸の広大な敷地内。
侍女たちが炊き出しの準備を始める前の、ほんのわずかな時間――。
「……あれ?」
当直の若い兵士が、門番との交代を終え、何気なく視線を離れの方へ向けた。
昨夜まで灯っていたはずの小さな窓の明かりが、今朝はまったく見えない。
気になった兵士が、手近な扉をノックする。
「おはようございます、朝の見回りで――」
……返事はない。
「失礼いたします!」
不安に駆られた彼は、上官に許可を得る間もなく、扉を開け放った。
――誰も、いない。
布団は畳まれ、私物も一切ない。調理器具も、衣類も。
人が住んでいた痕跡すら、昨夜のうちに綺麗に消されていた。
「た、大変でございますっ!」
血の気の引いた顔で、兵士は離れを飛び出した。
主棟の廊下を駆け抜ける足音が、静寂な朝を引き裂く。
「辺境伯様っ!至急の報告が!」
兵士は、屋敷の中心――辺境伯が眠る私室の扉を乱暴に叩く。
「し、失礼しますっ、離れが……妾屋敷が空っぽでございます!」
……返事は、ない。
しばらくの沈黙の後、扉の向こうから“ごとり”という何かが倒れる音が響く。
次の瞬間、激しく開け放たれた扉から、寝巻き姿の男が顔を出した。
「……うるさいっ!なんじゃ、朝っぱらから……!」
寝乱れた髪。酒気を含んだ息。はだけた上衣に、片方だけ履いた草履。
――辺境伯その人だった。
目を血走らせ、顔を真っ赤に染めたその姿に、兵士は言葉を失う。
「妾の屋敷が空っぽ? 何をバカな……」
呆れたように一度鼻を鳴らした辺境伯だったが、兵士の蒼白な表情がそれどころでないことに気づくと、眉間に深い皺を寄せた。
「……まさか。あの女とガキが、逃げたとでも言うのか」
兵士が小さく頷くと、辺境伯は天を仰ぎ、次の瞬間――
「ぬおおおおおおおおおおおっ!!!!」
怒声が屋敷中に響き渡った。
慌てて飛び出してきた侍女たちや近隣の兵士たちが、主の怒鳴り声に顔をこわばらせる。
「わしの女がっ!わしのガキがっ!!誰の許しを得て逃げおおせたんじゃあああ!!」
怒気にまかせて机を蹴倒し、壁にあった掛け軸を引きちぎる。
怒声と物音が、廊下の奥まで響いたそのとき――
「……まぁまぁ、閣下。朝食のお時間でございますよ」
しれっと現れたのは、本妻の侍女頭だった。
その背後には、絹の着物を纏った品の良い女性――辺境伯の正室が、落ち着き払った様子で佇んでいる。
「朝食室にて、お身体を整えてからご命令を。
下々もこの騒ぎでは、動ける者も動けません」
「ふざけるな!貴様、なにを……!」
「……“なりませんよ、閣下”」
一転、鋭い声音に変わった本妻の言葉が、辺境伯の怒気を押さえ込む。
怒鳴ろうとした口が止まり、そのまま呻きながら、辺境伯は肩を落として朝食室へと引きずられるように移動していった。
その背を、本妻はじっと見つめていた。
「――さて。“中”を片付ける時間は……十分、取れましたわね」
誰に聞かせるでもない独り言。
その目は冷たく、口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。
この一話には、「三つの世界」が描かれています。
ひとつは、ようやく安堵を得た者たちの静かな夜。
ひとつは、夢の中で交わされる“次の一手”の相談。
そしてもうひとつは、何かを失いかけた者たちの、取り乱す朝。
特に最後の本妻の言葉は、読者に「この人は敵か味方か」という疑問を残すはずです。
次回は、その疑問に対する小さな答え――そして新たな動きが描かれます。




