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010. 約束の砦へ

闇に紛れての逃避行は、幾度も危機を乗り越えながら続けられた。

それぞれの想いを胸に進む彼らの足取りは、時にためらいながらも、確かに未来へと向かっていた。

そして今、一行はようやく「次の場所」へと辿り着く。

そこは、かつての仲間が領主として暮らす、安全と再出発の拠点。

静かに夜が明け、約束された砦の門が開かれる。


風は静かに、夜の帳を押し返すように吹いていた。

地平の彼方から、淡い橙色が滲むように昇り、荒野の影を少しずつ引き剥がしていく。


前夜、密かに集結した脱出者たちは、荒野の一角にある小さな窪地に身を寄せ合っていた。

まともな屋根すらないこの場所に、毛布代わりの外套を敷き、抱き合うようにして眠る子どもたち。

その背を、そっと覆うようにして見守る大人たちの顔には、疲労と覚悟が刻まれていた。


忍は、母・レイナのすぐそばで目を覚ました。

赤子の身体ではあるが、意識ははっきりとしたもので、空気の変化と共に「次の局面が近づいている」ことを感じ取っていた。


「夜が……明けたか」


そう呟いたのは、警護を担当していた若い冒険者の一人、黒鳥隊のロカである。

夜通し周囲を見張り続け、ようやくその肩がほんのわずかに緩んだ。


「よし、予定通り。今日中には“あの場所”へ着けるはずだ」


ロカの言葉に、隊員のひとりが頷く。


「デルナの“耳”がこっちに気づかぬうちに、動ききるしかないな」


デルナ荒野――それはこの地域一帯に広がる乾いた土地の総称。

正式な国境はないが、辺境伯領の支配が及ばぬ“曖昧な地帯”である。


この“曖昧さ”が、今の彼らにはありがたかった。

追っ手の手が届きにくく、誰もが「ここには入りたがらない」荒涼とした空間。

しかしその分、朝晩の冷え込みは容赦がなく、草の一本もない土地での行軍は心身に堪える。


そんななか、忍の耳に聞き慣れぬ会話が入ってくる。


「……ここを抜ければ、あの人の館が見えてくるはずだ。

今の我らに必要なのは、少しの庇護と、次に備える時間だ」


忍の体を抱くレイナの腕にも、微かだが確かな力が宿っていた。

その眼差しの奥には、「守るべきもの」のために進む母の決意が、確かにあった。


やがて、空はすっかり朝の色に染まり、

数えきれぬ足跡が、新しい一日のはじまりを告げるかのように、大地へと刻まれていった。


※※※


ルナ荒野の奥深く。

そこは、地図の上では曖昧にぼかされた“辺境伯領と他国との緩衝地帯”。

正式な国境線は存在せず、だが間違いなく、ここを越えれば――“あの領”を出たことになる。


夜が明けてしばらく、脱出一行は静かに進軍を再開していた。

痩せた土地を踏みしめながらも、顔には一筋の光が差し始めていた。

追手はいない。今のところは。


「……あれが、境の柱」


先頭を進む黒鳥隊の副隊長・セナが指差した先、土と岩の丘にぽつんと立つ、風化しかけた石柱が見えてきた。

かつて国同士が交わした盟約の証ともされる、古びた境界標。

今では誰も気に留めぬその柱が、彼らにとっては“生存の証明”となる。


「ようやく……ようやく、ここまで来たんですね」

レイナが呟いた。隣を歩く老侍女・おたきは無言で頷く。


彼女たちの足元には、冷えた地面と、無数の足跡。

かつては屋敷で働いていた侍女たち、鍛冶屋の夫婦、行商の家族、薬草師とその弟子、

そして、何より――未来を担う子どもたち。


その中心にいる忍は、母の胸の中から、静かにその石柱を見上げていた。

ここが、前世にも現世にもなかった“境”なのだと、心のどこかで理解していた。


「この柱を越えた瞬間、私たちはもう“あの家の人間”ではなくなります」

そう言ったのは、同行する元兵士の男だった。

彼の顔にも、長年押し殺していたものが浮かび上がっていた。


一人、また一人と、石柱を越えてゆく。


誰も声を上げない。

しかし、誰もがその瞬間、胸の奥でなにかがほどける音を聞いていた。


――終わりのはじまり。

いや、始まりのはじまり。


「ようやく…ここまで来たね、忍」

レイナの頬に一筋、涙が伝う。


忍はその顔をじっと見つめ、赤子の身体でありながら、かすかに、小さく、笑った。


風が吹く。

新しい風だ。

その風が、脱出者たちの髪を、衣を、旗のようにはためかせていた。


※※※


荒野を越え、石柱を背にしながら歩を進める一行の中で、忍は母の胸に抱かれたまま、静かに目を閉じていた。


だが――その内側では、すでに赤子の心ではなかった。


(ここが、出発点……。あの屋敷でも、あの家でもない。ここからが、俺たちの物語だ)


異世界に転生してからの短い日々。

目も定まらず、声も出せない身体の中で、忍は考え、感じ、観察してきた。


あの屋敷での立場。

母の弱さと、侍女たちの献身。

父の冷たさと、神の存在。

そして、協力者たちの“意志”。


この逃避行は、ただの逃亡ではない。

今はまだ小さな流れだが、やがてそれは――国を形づくる奔流となる。


(俺は、ただ守られる子どもじゃない。ここで、生き抜く意味を見つけなきゃいけないんだ)


ふと、抱かれている忍の体がピクリと動いた。


「……ん?」


レイナが顔をのぞき込む。だが忍は、すでに再び目を閉じていた。

その顔には、どこか決意めいた静けさが漂っていた。


彼には、まだ言葉も足りない。動く力も足りない。

だが、それでも。

逃げ延びたこの地で、自分が担うべき役割を心に刻んでいた。


――人を繋ぎ、導く柱となること。


(大人になるまで時間はある。その間に、学び、見て、聞いて、考えるんだ。

そしていつか、みんなを支える柱になる)


神の加護はある。仲間もいる。

けれど、それに甘えるだけでは意味がない。

この命を、異世界で“使い切る”と決めたからこそ、ここまで来られた。


「ありがとうな、みんな……俺、やるよ。やるから」


心の中で、静かに宣言する。


彼の表情は幼子のまま。だが、その奥には、

ひとつの師団を束ね、数多の戦を生き抜いた“かつての指揮官”の気概が宿っていた。


まだ遠い未来にある戦いを見据えながら、

忍の覚悟が、ひとつ、結晶となって降り積もった。


――これは、“リーダー”としての覚醒ではない。

これは、“責任”を自らに課した少年の第一歩。


やがて来る嵐に向けて、彼の物語が、静かに動き出していた。


※※※


乾いた風が、低くうなるように荒野を吹き抜ける。

太陽はすでに空の高みに昇り、石と土を焼きつけるような光を投げかけていた。


その中を、一団の人影が進んでいた。

男も女も、年寄りも子どもも。

誰もが疲れていたが、誰もが足を止めなかった。


その先にあるのは、「安全」だった。

そして、「約束された未来」だった。


「……見えてきたぞ」


先頭に立つ男――領民のひとりが、声をあげた。

皆の視線がその先へと向けられる。


乾いた地平線の彼方に、わずかに黒く浮かぶ“影”。


それは岩山のようにも、土塁のようにも見えたが、徐々にその輪郭が明らかになっていく。


「……砦、だ」


その言葉に、隊列のあちこちで息をのむ音が重なる。

誰もが目指していた目的地――この逃避行の“第一のゴール”が、そこにあった。


忍はレイナの腕の中で微かに瞬き、目を細める。

陽の光に滲むその砦は、どこか懐かしいような安心感をまとっていた。


「……あと、もう少し」


声にならぬつぶやきが、心の奥で響く。

ここまで来た。生きてきた。

母も、領民たちも、皆が力を尽くして歩いてきた。


レイナもまた、薄く笑みを浮かべる。

弱りきった体に汗をにじませながら、歩を進めるその姿は、今や“守られるだけの女”ではなかった。


砦の門が見える距離まで来たとき、数人の衛兵が、丘の陰から姿を現した。


だがその装備も旗も、辺境伯のものではなかった。

それは――王都の紋章を掲げた、“友のしるし”。


衛兵のひとりが一団に近づき、声をかける。


「ようこそ。イオス様よりお預かりしております。ここより先は、我らが安全を保証いたします」


その瞬間、緊張の糸が切れたように、数人の婦人がその場に膝をついた。

子どもたちが泣き出し、男たちが小さくうなずき合う。


忍はその様子を、静かに見つめていた。


彼らが背負ってきた苦労と、恐怖と、希望。

すべてが、この砦の門を前にして、ひとつの区切りを迎えた。


けれど、これはまだ“始まり”でしかない。

砦の中には、これからの計画と、新たな出会いが待っている。


(ここから、築くんだ。俺たちの居場所を)


忍のまなざしは、砦のさらに向こうを見据えていた。


まだ見ぬ大地と、仲間たちのいる未来を。

旅の第一幕が、静かに幕を下ろす。

追われ、逃れ、集い、越えてきた数多の障壁。

そのすべてを乗り越えた先に、一時の安らぎがある。

だが、それは終わりではない。

ここから先、彼らは「居場所を守る者」として、新たな覚悟を抱えて歩み出すことになる。

──これは、ひとつの物語の転機。そして、新たな旅の始まりである。


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