氷結の理
その日の朝、俺は妙に胸がざわついていた。
何度も鏡を見返し、床屋に寄り、髪を短く整え、伸びかけていたヒゲを剃る。
そのまま風呂屋に駆け込み、湯船の中で何度も深呼吸を繰り返した。
心臓がドクン、ドクンと、いつもより大きな音を立てている。
(……今日で終わりだ。必ず、決める。)
湯上がりに見上げた空は、雲ひとつない快晴。
冷たい風が頬をなでるたび、心の奥で何かが吹っ切れていく気がした。
(やるしかない……絶対に。)
王城へと向かう道、街の人々が祈るような視線をこちらに投げかける。
あの応援してくれた人たち、顔も声も、胸にしっかり刻み込む。
(ありがとうな……。)
――そして謁見の間。
広く荘厳なその空間には、張り詰めた緊張感が満ちていた。
コツ、コツ……自分の足音がやけに響き、玉座に座る氷の女王が鋭く冷たい視線を投げかけてくる。
その周囲には、鎧の金属が静かにきしむ音だけが聞こえる近衛騎士たち、そして貴族たちの冷ややかな目。
「――では始めよ。」
女王のその声は、静かでありながら、剣のように鋭かった。
俺は、グッと拳を握り締める。
そして、深く深呼吸を一度。
(ここまで来たんだ……もう、逃げる理由はない。)
「……ひとつ、よろしいでしょうか?」
その一言で、空気がピリッと張り詰めた。
視線が一斉に俺に向けられる。女王もまた、わずかに目を細める。
「なんじゃ。もうしてみよ。」
女王の声は静かだが、その奥にある“期待”のような微かな揺らぎを俺は見逃さなかった。
そして――覚悟を決めて言う。
「女王陛下。私は今日、あなたを笑わすことができなければ、処刑されます。
孤児院出身の私にとって、下級貴族の地位はこれ以上ない褒美だと承知していますが……
今、一つだけ、望みを叶えていただきたいのです。」
その言葉が落ちた瞬間、ざわつく広間。
「無礼だ!」
貴族の怒号が響くが――
「……よかろう。もうしてみよ。」
女王のその声が、すべてを静めた。
俺はゆっくりと口を開く。
「私は5歳の頃、一人の少女に救われました。
その少女がいなければ、私はとうに死んでいたでしょう。
そして今、その孤児院が存亡の危機にあります。
ですので……もし私が領地を賜ることが叶った暁には――
孤児院の300人の孤児、そして貧民街の住人たちを、私の領地で引き取らせていただきたいのです。」
重苦しい沈黙が広がる。
女王の瞳が、一瞬だけ小さく揺れた気がした。
「……孤児など……引き取っても、一文の得にもならんぞ。」
その声は冷たい――だが、その奥に確かに、痛みが宿っている。
「いいえ。」
俺は静かに、しかし確固たる声で応える。
「孤児たちは、私にとって“財産”です。」
「……奴隷にでもするつもりか。」
「いいえ。1日2~3時間だけ働いてもらいますが、
その後はしっかりと学んでもらい、温かい食事と、柔らかいベッドを与えます。」
一瞬の静寂――そして、
「ぶはっ……!」
貴族たちが堰を切ったように笑い出した。
腹を抱え、椅子を叩き、涙を流しながら爆笑する者。
あまりの笑いで椅子から転げ落ちる者まで現れた。
「最高だ! 君は本当に芸人だな!」
「こんな冗談、聞いたことがないぞ!」
俺は一礼しながらも、淡々と告げた。
「……これは、冗談ではなく本気です。」
さらに爆笑が広がる。広間全体が、笑いの渦に巻き込まれる。
(これが……この国の“冷たさ”。)
ちらりと、玉座を見る。
女王は――無言でその光景を見つめていた。
表情は変わらない。だが、その目は、ほんの一瞬だけ微かに震えた。
そして場がようやく落ち着いた頃、女王はスッと立ち上がり、低く告げる。
「よし。……わかった。では――私を笑わしてみよ。」
声は冷たい……だが、その奥に、わずかな“期待”が確かに宿っていた。
俺は深く息を吸い込む。
(……これが、俺の原点だ。)
――そして。
「い…の…ち…の…り…ん…ご… いのりんご」
広間が一瞬で静まり返る。
貴族たちの顔が固まる。
「……何だ、それは?」という視線が突き刺さる。
だが俺は構わず、もう一度。
「い…の…ち…の…り…ん…ご… いのりんご」
女王の眉が、わずかにピクリと動く。
肩も、かすかに震えた。
さらにもう一度。
「い…の…ち…の…り…ん…ご… いのりんご」
女王の唇がわずかにゆがみ、口角が上がり――
その手が、思わずお腹に添えられる。
(……来る……!)
そして最後。
「い…の…ち…の…り…ん…ご… いのりんご!」
女王の口元がピクッと動き、次の瞬間、
「……は……は……はっ……!」
小さな、しかし確かに“笑い声”が漏れた。
場が凍り付く。
全員が驚愕して息を飲む。
「女王が……笑った……!」
「氷の女王が……笑ったぞ!!」
その声が、雪崩のように広間を駆け抜ける。
そして――女王は、ハッとしたように口を押さえた後、
次第にその肩が震え、ついに――
「ふふっ……あはははっ……!!」
腹を抱えて、涙を流して笑い始めた。
その瞬間、俺は――まるで世界が音を立てて変わるのを感じた。




