第三章:交錯する思惑(2)
対決から二日後、工房に思わぬ来客があった。
「はじめまして、アサギ様。エルザ・シュタインホフと申します」
扉を開けると、そこには極めて洗練された雰囲気の女性が立っていた。
年の頃は二十代後半か。
深みのあるブルネットの髪を複雑なアップスタイルに結い上げ、最高級の生地で仕立てられた体にフィットするドレスを纏っている。
その琥珀色の瞳には鋭い光が宿り、微笑みながらも相手の心を見透かすような鋭さがあった。
「エルザ・シュタインホフ……大陸横断交易ギルド『黄金帆船商会』の会長ですね」
彼女の名はすでに聞いていた。
大陸規模で商業ネットワークを持つ女商人で、王国内でも絶大な影響力を持つ存在だという。
「ええ、よくご存知で」
彼女は優雅に微笑み、扇子を軽く広げた。
「フェリクス様との対決、拝見しました。あの方が負けるところを見たのは初めてかもしれませんわ」
彼女の声には上品な抑揚があり、言葉の端々に計算された魅力が感じられた。
「どのようなご用件でしょう?」
「ぜひビジネスパートナーシップを結ばせていただきたくて。アサギ様の《オートメイト》技術は、商業面でも革命的な可能性を秘めていると思いますの」
イリスとミミが警戒するように女性を見ていたが、俺はむしろ興味を抱いた。
大規模な商会との提携は、技術の普及と影響力拡大において理想的な手段だ。
「ミミ、お茶を用意してくれないか。イリス、午後の実験は少し遅らせよう」
二人はやや不満そうな表情を見せたが、頷いて席を外した。
「失礼します」
エルザは優雅に椅子に腰掛け、周囲を観察する目が一瞬煌めいた。
まるで工房の価値を査定しているかのようだ。
「では、具体的な提案を聞かせてください」
彼女は姿勢を正し、商談モードに切り替わった。
「率直に申し上げましょう。黄金帆船商会は、アサギ様の技術を独占的に流通させる権利を求めています。その見返りとして、大陸全土への流通網と、初期投資として相当額の資金を提供いたします」
彼女が提示した金額は驚くべきものだった。
王国からの支援の三倍以上。
しかし、「独占的」という言葉が引っかかる。
「条件の詳細は?」
「簡単に言えば、アサギ様の技術の商業利用権を当商会が独占し、売上の三割をアサギ様にお支払いします。技術開発の自由は保証いたしますが、販売経路は全て当商会を通していただく。期間は五年間」
彼女は扇子で顔を半分隠しながら、俺の反応を窺っている。
条件は一見良さそうに見えるが、どこかに罠がありそうだ。
「エルザさん、あなたは私の技術についてどこまでご存知ですか?」
「フェリクス様との対決だけでも十分でしたわ。あれだけの可能性を持つ技術は、適切な流通経路を確保すべきです。王国の支援だけでは……限界がありますから」
彼女の言葉には、王国の力を軽視するような含みがあった。
確かに、レオン王子の支援は心強いが、政治的な制約も多い。
一方で商会との提携は、より自由度の高い活動が可能になるかもしれない。
「確かにご提案は魅力的です。しかし……」
「お考えの時間が必要なのは理解していますわ。一週間後に改めて伺います。それまでに、こちらの契約書案をご検討ください」
彼女は緻密に書かれた羊皮紙の束を差し出した。
一瞥しただけでも、かなり込み入った法的文書であることがわかる。
彼女は去り際に振り返った。
「ところで、アルカディア帝国について、どれほどご存知ですか?」
「基本的な情報しか」
彼女は意味ありげに微笑んだ。
「彼らは……アサギ様のような革新的な技術に、非常に強い関心を持っているのですよ」
その言葉が警告なのか、それとも別の取引の予告なのか判断しかねた。
「心に留めておきます」
エルザは最後に優雅にお辞儀をすると、扉を開けて出て行った。
彼女が去った後も、高級な香水の香りが工房に漂い続けていた。
「あの人、怖い人……」
ミミがそっと戻ってきて、震える声でつぶやいた。
イリスも心配そうな表情で続いた。
「エルザ・シュタインホフは、どんな商売でも必ず利益を出すことで有名です。彼女と取引するなら、契約書の細部まで注意深く確認した方がいいですよ」
「心配するな。彼女の罠は見破ってみせるさ」
そう言いながらも、エルザが最後に残した言葉が気になった。
アルカディア帝国……王国にとっての脅威であり、未知の高度な技術を持つと言われる強大な国家。
彼らが《オートメイト》に関心を持っているというのは、良い知らせとは思えなかった。
◇
その夜、遅くまで契約書の分析に没頭していた。
エルザの提案した契約には、予想通り様々な落とし穴が仕掛けられていた。
特に技術の派生的応用に関する権利の記述には要注意だ。
「このままでは、《オートメイト》から派生する全ての技術が彼女のものになってしまう……」
独り言を呟きながら、修正案を作成していた時、工房の扉が静かにノックされた。
「こんな時間に誰だ?」
警戒しながら扉を開けると、そこには見覚えのある老騎士の姿があった。
ダンカン・グレイウォール—王宮顧問にして、元王国騎士団総団長だ。
威厳のある白髪混じりの髪と、長年の経験を刻み込んだような表情が、薄暗い灯りに照らされていた。
「失礼な時間に参上したな、アサギ殿」
彼の声は低く、落ち着いていた。
「ダンカン殿。どうぞお入りください」
彼を応接室に案内すると、ダンカンは周囲を警戒するように見回した後、話し始めた。
「単刀直入に言おう。エルザ・シュタインホフが訪ねてきたと聞いた」
「はい、今日の午後です」
「彼女との取引には十分注意することだ。彼女は利益のためなら手段を選ばない。そして何より、彼女の商会は大陸全土に情報網を持っている。アルカディア帝国とも取引があるとの噂だ」
「実際、彼女は帝国について言及していました」
ダンカンの表情が引き締まった。
「やはりか……」
彼はしばらく考え込んでから、決意を固めたように話を続けた。
「アサギ殿、我が王国はいま、非常に危うい均衡の上に立っている。アルカディア帝国は軍事的にも技術的にも我々を上回っており、いつ侵攻してくるか分からない状況だ」
「そんなに差があるのですか?」
ダンカンは重々しく頷いた。
「特に彼らの『生体魔導工学』と呼ばれる技術は、我々の常識を超えている」
「生体魔導工学……」
初めて聞く言葉だったが、何か不吉な響きを感じた。
「生きた組織と魔導技術を融合させる、禁忌に近い技術だ。彼らは生物の持つ自己修復能力や適応力を兵器に取り入れている。通常の魔法や機械では予測できない動きをするため、対処が非常に難しい」
ダンカンの説明に、俺は強い興味を覚えた。
それは《オートメイト》とは真逆のアプローチに思えた。
「詳しい情報はありますか?」
「残念ながら限られている。だが、我々の偵察によれば、彼らは『生体コア』と呼ばれるものを中核に据えた兵器を開発しているらしい。その詳細は不明だが……」
彼は言葉を選びながら続けた。
「……非人道的な方法で作られているという噂もある」
「そんな技術が本当に存在するのですか……」
「懐疑的なのも無理はない。だが、力は制御できてこそ意味がある。アサギ殿、あなたの《オートメイト》も同じだ」
彼の言葉には、単なる警告以上のものが込められていた。
「あなたの技術は王国に希望をもたらすものだ。しかし同時に、使い方を誤れば大きな災いになる可能性も秘めている」
「何が言いたいのですか?」
ダンカンはまっすぐに俺の目を見た。
「力には責任が伴うということだ。技術の発展を急ぐあまり、考慮すべき倫理的な問題を見逃してはならない」
彼の言葉は重く響いた。
確かに俺は効率と最適化を追求するあまり、時にその先にある影響を十分に考えていなかったかもしれない。
「王子は若く、時に熱に浮かされることもある。あなたの技術に大きな期待を寄せ、急速な普及を望んでいる。だが、変化には常に痛みが伴う。バルドルのような職人たちの反発は、その一例だ」
「彼らのことも考えています」
「それは良いことだ。だが最後に一つ……」
彼は声を落とし、より差し迫った口調になった。
「ジャレッド公爵の動きに注意せよ。彼はあなたの台頭を快く思っていない。そして今、彼と帝国の間に何らかの接触があるという情報が入っている」
「帝国と?」
「まだ確証はない。しかし、彼の屋敷に帝国の使者らしき者が出入りしているとの目撃情報がある」
この情報は深刻だった。
ジャレッドが単なる保守派の代表ではなく、帝国のスパイかもしれないとなれば、事態はより複雑になる。
「注意します。情報をありがとうございます」
ダンカンは立ち上がり、最後に付け加えた。
「力を持つということは、選択と責任を持つということだ。アサギ殿、あなたの選択が王国の未来を左右するかもしれないことを、忘れないでほしい」
彼が去った後、窓の外の夜空を見上げた。
星々が、遠い世界から俺を見下ろしているようだった。
「効率の先にあるもの……か」
女神の言葉を思い出す。
《オートメイト》の能力をどう使うべきか。
それは技術的な問題ではなく、より深い倫理的な問いなのかもしれない。