第5話月面のデジタル・ソーサリー -未知への跳躍
コールドスリープから目覚めてしばらく経ったある日。
春香は月面コロニーの「デジタル・ソーサリー研究所」にて、自身のサイバネ体に組み込まれた“魔法炉”制御プログラムを調整していた。
**桐生(主治医)**や研究員たちのサポートにより、月面社会における“魔法”の安定運用は徐々に普及し始めている。
しかし春香は、自分が見た“魔法”の可能性に対し、既存の理論や技術が追いついていないと感じていた。
春香(心の声)
「今の研究所が扱っている“魔法”は、月面コロニーのエネルギーや情報制御を効率化するための技術に留まっている。
でも、私が体験したあの感覚――もっと深い未知の領域があるはず。」
研究所のホワイトボードには複雑な数式や量子演算のフローチャートが書き殴られている。
春香はそれらに目を走らせながら、頭の中で新たなインスピレーションを組み立てる。
研究員A
「春香さん、どうしたんです? 難しい顔して……」
春香
「……この“魔法”って、本当にこれが限界なんでしょうか? 私、まだ“魔法炉”と完全に同期したとき、不思議な感覚を覚えたんです。言葉にしづらいんですけど、既存の理論じゃ説明しきれていないような……。」
研究員Aは少し戸惑いながらも肯定する。
研究員A
「正直、私たちも“魔法”をまだ理解しきれていません。ナノマシンと量子演算の融合とはいえ、予測を超えた現象がしばしば起こる。
もし春香さんが“未知の領域”を感じるというなら、新しいアプローチが必要なのかもしれませんね。」
休憩室に戻った春香は、コーヒーを飲みながら桐生と会話する。桐生はコーヒー片手にタブレットを眺め、心配そうに眉をひそめている。
桐生
「君が未知の領域に踏み込みたいのはわかる。でも、今だって身体に相当な負荷がかかっている。下手に深入りすれば、君の体が悲鳴を上げるかもしれないよ。」
春香
「それでも……私は進みたいんです。コールドスリープから目覚めたとき、すべてが変わっていて正直戸惑った。けど、私にはこの体と“魔法”を引き出す特別な力があるらしい。
それがただの道具で終わるなんて、嫌なんです。もっと大きな可能性があるなら、確かめたい。」
桐生は一瞬言葉に詰まり、最後には苦笑しながら肩をすくめる。
桐生
「やれやれ……医者としては止めるべきかもしれないが、君の目はまっすぐだ。わかった。僕もできる限りのサポートはする。身体の安全ラインを超えないよう、モニタリングだけは徹底してくれ。」
春香は大きくうなずいた。
その夜、研究所のサーバールームにて、春香は研究員のロイドと密かにコンソールを覗き込んでいた。ロイドは以前から春香に協力的で、新しい技術を模索する仲間の一人だ。
ロイド
「実は、開発部門の一部で極秘プロジェクト“オーバーフレーム”が動いているって噂があるんだ。
今の“魔法炉”の仕組みでは到底実装できない拡張機能を開発しているらしい……でも詳細はトップシークレットで、表には一切出てこない。」
春香
「“オーバーフレーム”……どんな研究なんだろう?」
ロイドはコンソール画面を操作し、端末に残された断片的なプロジェクト名や関連コードを表示する。
そこには「多層量子連結」「高次演算領域の生成」「仮想空間の実体化」など、既存の理論を大きく逸脱したキーワードが散見された。
春香(心の声)
「この言葉の数々……私が感じた“未知の領域”に近いものがある。もしかして、ここにヒントがあるんじゃ……!」
しかしアクセス権限が厳重に守られており、ロイドもこれ以上の情報を引き出せない。
ロイド
「今のままじゃ無理だ。このプロジェクトはコロニーの上層部や企業連合も絡んでいるらしい。無理にハッキングすると俺たちの身が危ない。
でも、君の力なら何か手がかりを掴めるかもしれない。」
春香はしっかりと唇を噛み、モニターに浮かぶ文字を睨む。ここに“新たな魔法”の鍵が隠されている。
翌日、思い切って春香は研究所の所長に直談判を試みる。上層部が関わっているという“オーバーフレーム”計画について説明を求めたのだ。
所長は眉を寄せつつも、言葉を選んで話し始める。
所長
「……その名称をどこで耳にしたかは問わない。確かに“オーバーフレーム”は、今の“魔法炉”を超える性能を持つ新システムのコードネームだ。
だが、あれはまだ不安定で、暴走した場合のリスクが桁違いなんだ。月面コロニー全体に未曾有の被害をもたらす可能性すらある。だから公にはできないし、人員も限られている。」
春香
「でも、それがうまくいけば“魔法”の本質をさらに深く探れるんですよね? 私に協力させてください!」
所長はしばし沈黙し、春香のサイバネアームに目を落とす。
所長
「君が特別だということは重々承知している。実際、君が暴走しかけた魔法炉を止めた実績もある。しかし“オーバーフレーム”は桁が違う。
上層部も極秘裏にテストを進めているが、成功した報告はまだ一度も聞いていない。むしろ失敗したら……取り返しがつかない。」
そこに割って入るように、後ろから桐生がやってくる。
桐生
「所長、彼女は本気なんです。僕は医師として、春香の体を守る責任がある。しかし、彼女の“未知への好奇心”もまた尊重したい。
もし“オーバーフレーム”が避けられない道なら、早いうちに我々の手で安全策を講じるべきだと思いませんか?」
所長は桐生と春香の両方を見比べて、重々しくため息をつく。
所長
「わかった。君たちがそこまで言うなら、上層部と掛け合ってみる。結果がどうなるか保証はできないが……それでも構わないか?」
春香は迷わずうなずく。彼女の瞳には決意の炎が宿っている。
数日後、所長の尽力で春香と桐生は上層部の一角を担う会議室へ招かれた。
そこには、企業連合の重役と技術責任者、そして軍事セクションを統括する人物までもが集まっている。彼らは厳しい表情で春香を見つめる。
重役A
「ようこそ、特異体質のサイバネ少女。我々は君のデータを拝見させてもらった。確かに、現在の“魔法炉”を安定制御できる希少な存在だ。
しかし“オーバーフレーム”は、その何倍もの力を秘めている。それを扱うにはあまりにもリスクが大きいんだよ。」
軍人B
「万が一、制御に失敗すれば、コロニー全域どころか月面基地外にまで被害が及ぶ可能性がある。そんなこと、君に理解できるのかね?」
彼らの言葉には、春香を試す意図が見え隠れする。それでも春香は、ひるまず目を合わせる。
春香
「理解しています。でも、今の技術の枠を超えなければ見えない未来があると思うんです。私には、ただ大きな力を手にしたいわけじゃない。
人類がここまで築いてきた月面コロニーを、さらに豊かにする可能性を追求したいんです。たとえリスクがあったとしても、やらずに終わるよりはずっといい。」
周囲がしんと静まりかえった中、重役たちは互いに視線を交わし、やがて頷き合う。そして技術責任者が口を開いた。
技術責任者
「いいだろう。君と桐生博士、そして我々の精鋭チームで“オーバーフレーム”の研究を試行する。
ただし、もし制御不能に陥った場合にはただちに中止する。軍事セクションのバックアップも動員する予定だ。君もそれでいいな?」
春香は力強く「はい」と答え、桐生も黙ってうなずく。
“オーバーフレーム”の実験場は、月面コロニーの地下深くにひっそりと設置されていた。外界から完全に隔離された大型ドーム状の施設で、内壁には強化素材と最新のシールド技術が施されている。
桐生をはじめとしたサポートチームが遠隔モニタリングを行うなか、春香は制御スーツを身にまとい、巨大なコンソールの前へ立つ。
技術責任者(通信)
「では、始めよう。こちらで少しずつ“オーバーフレーム”を起動させる。君は魔法炉とのリンクを感じ取ったら、徐々に演算負荷を上げてくれ。」
コンソール上のインジケーターが動き出し、黒く渦巻くようなエネルギーがホログラムに投影される。これは従来の“魔法炉”よりも数ランク上の出力を想定した新型システムだ。
春香は深呼吸し、サイバネアームをコンソールにかざす。
春香(心の声)
「来る……頭の中に情報が雪崩のように流れ込んでくる。従来の魔法炉とは比べものにならない量……でも、私なら……!」
一瞬、視界がホワイトアウトするほどの強烈な光と演算コードが脳内を奔流する。しかし春香は歯を食いしばり、その膨大なデータを組み立て始めた。まるでパズルのピースを手探りで探すように、一つひとつ論理を繋いでいく。
周囲の技術者たちが息をのむ。計器類が警告音を鳴らし始めるが、まだ緊急停止するほどではない。
春香
「——いける…! もう少しだけ、出力を上げて!」
桐生の声が通信から聞こえる。
桐生(通信)
「無理はするなよ、春香! バイタルが危険域に近づいてる!」
春香
「大丈夫……ここで引いたら、何も変わらない……っ!」
さらに出力が引き上げられると、膨大な光の束が空間を満たし、強烈なエネルギー圧がドーム壁にぶつかる。だが春香は、その奔流の中で新たな“法則”を見出そうとしていた。
ついに、インジケーターが通常の安全限界を超えても大きな暴走は起きず、エネルギーは安定的に循環を始める。
技術責任者や軍事セクションの面々が目を見張り、桐生はホッとした表情を浮かべる。
技術責任者(通信)
「す、すごい……! オーバーフレームが、初めてここまで安定した出力を維持している!」
コンソールの表示が徐々に緑色へと変わり、警告アラームが解除される。しかし春香はまだ“それ”を求めている。未知の深みに、まるで手が届きそうな感覚——。
春香
「もしかして……これが、新しい“魔法”の形……?」
一瞬、春香の脳裏に壮大なヴィジョンが広がる。
それは月面コロニーを超え、地球や宇宙空間を舞台にした無数のデータリンクが立体網のように交差し、新しい秩序と創造を生み出すイメージ。
既存のテクノロジーを遥かに凌駕する、まるで“神の視点”すら感じさせる世界の姿が垣間見えた。
だがその瞬間、春香の視界がぐらりと揺れる。
桐生が通信越しに必死で呼びかける声を聞くが、遠くで反響しているようだ。体内に限界を告げる警告が走り、意識がふっと闇に沈んでいく。