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第1話

桐生の言葉がまだ耳の奥で反響する。

「ここは2100年の月です」

信じがたい情報を飲み込む間もなく、春香の視界には見慣れぬ医療室の内装が映っている。四角いパネルが浮遊するように貼りつけられた壁は、やわらかい光を放ち、どこか幻想的だ。自分の体に意識を向けると、妙に軽いような、しかし所々に機械の軋みを感じるような違和感がある。コールドスリープに入る前、両腕も両脚ももちろん自分の肉体だったはずなのに、今はサイバネ化された銀色のパーツがむき出しだ。


「説明が追いついていないようですね」

桐生が柔らかい声で続ける。黒髪を短く切り揃えた中年男性だが、その瞳はどこか沈んだ色合いで、覚悟めいた決意を湛えている。

「あなたは、特殊な実験プログラムに参加してもらっていました。厳密には、それが原因で今もこうしてサイバネ化されているのです」


「実験プログラム……」

春香の声はかすれていて、喉の奥から錆びた音が出る。思い出そうとしても、頭の中には靄がかかったように記憶が薄い。


「思い出すのはゆっくりで構いません。まずは現状を理解してください。ここは月面コロニーの医療区画。地球では2080年頃から大規模な環境異変とエネルギー危機が起こり、人類は新たな生活圏を求めて月に移住を進めたんです」


桐生は淡々と話しながら、春香の身体に取り付けられた生体モニタを確認する。ディスプレイには、体内の機械的なパーツと有機組織の境界が複雑なラインを描いていた。


「地球が、そんなことに……」

呟く春香に、桐生はさらに続ける。

「そして、その過程で“魔法”と呼ばれる新たな現象が発見されました。正確には古来から存在した力なのか、それとも月の未知のエネルギーと地球の技術が融合して生まれた新概念なのか……まだ分かりません。ただ、人々はそれを“魔法”と呼んでいます」


“魔法”という言葉を聞いた途端、春香の中で何かがざわついた。突拍子もない話だと一蹴したいのに、奇妙に納得してしまう自分がいる。もしかすると、コールドスリープ以前にも、似たような話をどこかで耳にしていたのだろうか。


「そして、あなたの実験プログラムは、この“魔法”を人体に適合させるためのものでもありました」

「私が……魔法を扱える、とでも言うんですか?」

「理論上は、ですが。あなたの遺伝子構造には未知の素養があり、そこにサイバネ技術を組み合わせれば、新しい力を引き出せるかもしれない。そう考えた研究者たちは、あなたを被検体としてコールドスリープ状態にし、月面で実験を継続していたのです」


桐生の言葉は淡々としているが、責任感が重くのしかかっているようだ。医師である彼は、常に患者を守りたいという気持ちと、研究目的との間で揺れてきたのだろう。


「だけど、気づいたらこんな姿になっていた……?」

「ええ。時間の流れや諸事情を総合すると、あなたが最後に意識を失ったのは、およそ20年前。地球では2080年の半ば頃です」


20年。それだけの時間が失われた実感は湧かない。春香はベッドから起き上がろうとして、腕に力を込める。サイバネ化された右腕が“ウィン…”というモーター音のような音を立てるものの、スムーズに体を支えることができた。思った以上に、自分の意思に応えてくれている。


「実験の目的は、あなた自身の身体能力を高めると同時に、魔法適性を持つ人間のデータを集めること。すでに月面コロニーには“魔法”の応用が広まっていますが、その力はまだ制御しきれていない面が多い。そこであなたの特異体質が必要だった。――ただし、これ以上の続行があなたにどの程度の負荷を与えるか、懸念材料が多くてね」


桐生はコンソール画面をいくつか操作し、真剣な表情で言葉を継ぐ。

「正直、あなたが無事に目覚めてくれただけでも、奇跡に近い。あとはあなたの選択次第です。今の技術なら、サイバネパーツをある程度除去し、普通の人間として暮らすこともできます。あるいは実験を継続し、魔法の研究に協力してもらうことも――」


そこまで話したところで、コンソールの警報音が鳴り響いた。モニターが真紅に点滅している。桐生が驚きと焦りの表情を見せる。

「……研究区画で何かトラブルが起きているようだ。いや、まさか……魔法暴走の事故か?」


嫌な予感が走る。桐生は急いで医療室の扉を開け、廊下の先を確かめようとする。ガラス越しには、複数のスタッフが慌てふためき、警戒アラームが点滅する様子が見える。


「私に手伝えることはありますか?」

思わずそう声をかけた春香は、自分でも驚くほど冷静だった。つい先ほど目覚めたばかりのはずなのに、体の奥に“戦闘”か“行動”への準備が整っている感覚がある。サイバネ化された四肢が、状況を分析しろと訴えてくるようだ。


桐生は一瞬ためらうように眉をひそめるが、決意を固めた顔でうなずく。

「医療チームだけでは手に負えない可能性が高い。外の警備がどうなっているかもわからない。正直、君の力を借りたい――ただし、無理はしないでくれ」


研究区画へ通じる自動ドアが開くたびに、蒼白い光が瞬間的に漏れ出てくる。それは、電磁的な放電か、それとも“魔法”の奔流なのか。周囲はまだ混乱しており、誰もはっきりした状況を把握できていない。


(魔法――いったいどんな力なんだろう?)


胸の奥に募る疑問と不安を抱きながらも、春香は自分の足で立つ。コールドスリープから目覚めたばかりの身体は、思いのほかしっかりと動いてくれそうだ。この世界で何が起こっているのか、そして自分がどういう存在なのか――その答えを知るためにも、動かなければならない。


「わかりました。私にできることをやります」

サイバネアームを握りこんで感触を確かめながら、春香は桐生とともに研究区画へ足を踏み出した。


――そして、2100年の月面に咲いた“魔法”の謎へ、春香は第一歩を踏み出す。

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