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たった3文字を紡いだだけなのに、突如現れた男は完全にこの場を支配していた。
─── カツン、カツンと革靴の音だけが響く。
それと同時に、男の背中まである漆黒の髪が微かに揺れる。
一つに括られているそれは、とても艶やかで、黒天使の羽根のようだった。
モニカは髪を掴まれたままの状態で、男の顔を見つめる。
仕立ての良い服を着こなす程のすらりとした長身の男は、とても綺麗な顔をしていた。
すべてを見透かしているかのような深いブルーの瞳は、まるで氷のように冷え冷えとしていた。
すっと通った鼻筋に意志が強そうな凛々しい眉は、汚いものを見たかのように顰めている。でもそれすら美しいと思ってしまう。
そして男は真っすぐにセリオの前に立つと、静かに口を開いた。
「暴力で従わせるなど言語道断だ。今すぐ手を放せ」
艶のあるテノールの声は、誰かに命令することに慣れた口調だった。
「はぁ? 僕はまだ殴ってないし」
精一杯の反論をしたセリオに、モニカは思わず状況を忘れて、ずっこけそうになってしまった。
(……ああ、馬鹿だ馬鹿だと思っていたけれど、ここまで頭が悪いとは)
髪を引っ張られる痛みはかなりのものだけれど、そんなことを一瞬忘れて絶句してしまった。
けれど男は全く動じない。ご丁寧に、セリオに説明をする。
「力任せに女性の髪を掴む行為は暴力に他ならない。今すぐその手を放せ」
「は? そんなことなんで僕が命令されなきゃいけないわけ? これは教育だよ。言うことを聞かない女にはこうして躾なきゃいけないんだよ。こいつは僕の婚約者だ。僕がどうしたって構わない」
「呆れた奴だな」
「なっ」
胸を張りながら独自の持論を展開していたセリオに、男はその言葉どおり呆れ果てた表情を作った。
セリオは悔しそうに唇を噛み締める。でも、すぐにモニカの手を離した。
それは自分の過ちに気付いたからではなく、この男を攻撃するために。
「偉そうに、あんた誰だよっ」
「ちょ、まっ、待って」
勢い良く男を掴みかかろうとしたセリオに、モニカは待ったをかけた。
なぜなら、モニカはこの男の正体を知っているから。
クラウディオ・ファネーレ 御年27。そしてこの領地トラディを統べる領主さま。
辺境の村では領主の名こそ誰でも知っているが、その容姿を目にした者はほとんどいない。領主代理である村長が村を取り仕切っているから。
だからセリオが気付けないのは、ある意味当然であった。
とはいえ、領主を殴ったとなれば、無知で許される範囲は超えてしまう。
自分の近くで息をするなと訴えたモニカとて、わざわざ斬首の道を歩ませるほど非道な人間ではない。
「…… まったく後で村長に詳しく話を聞かなくていけないな」
面倒事を思い出したような苦い顔をしてそう言った男─── もといクラウディオは、殴り掛かろうとしていたセリオの腕をいともたやすく取った。
そして、ポイっと放り投げた。
大事なことで二度言うけれど、クラウディオはほぼ同じ体形であるセリオを、ポイっと放り投げたのだ。
まるでゴミをゴミ箱に捨てるかのように。