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5.朱鷺色(le Rose)【出題編】

紅茶喫茶店のペルセフォネ―、主な登場人物


 西野(にしの) 摩耶まや

上智大学文学部に通う才色兼備な女学生。見た目は清楚なお嬢さんだけど、性格は超が付くツンデレ。血液型はAB型。


 平野ひらの 尋人ひろと

上智大学総合人間科学部の学生。ラ・グルナードではアドニス君と呼ばれ、女性客たちから可愛がられている。血液型はA型。


 羽出はで 純男すみお

紅茶喫茶店ラ・グルナードの店長。唯我独尊のフェミニストで、マスターと呼ばれて皆から慕われている。血液型はB型。


 麦倉むぎくら 乙女おとめ

土曜日限定で、ラ・グルナードへバイトをしにやって来るOL。つき合っている彼氏は外国人留学生。血液型はO型。


「あのお、まことに申し訳ございませんが、当店は禁煙になっておりまして……」

「なにい、いったいどこにそんなことが書いてあるんだよ?」

 角刈りサングラスの男が、テーブルをドンと叩いて毒づいた。

「はい、お客様の真後ろにある壁に……」

 マスターは笑顔を繕いながら、壁に小さく貼られている紙を指差す。そこには、『当店は終日禁煙でございます。お客様のご理解ご協力のほど、よろしくお願い申し上げます』と、はっきり書かれていた。

「けっ、どおりで灰皿が置いてねえわけだ……」

 体型はやや太り気味、年の頃は四十といったところか。

「ご協力、感謝いたします」

 マスターは形式通りに深々と頭を下げた。

「ちっ、なんでえ、うまい紅茶を出すとか言いながら、たいした紅茶でもねえし、その上、タバコも吸わせてもらえねえなんて、評判倒れのくそカフェもいいとこだな。ああ、不愉快極まりねえ。もう帰るぜ」

「すみません。お勘定は……」

「うっせーな。俺は気分を害したんだ。慰謝料を請求されないだけでもありがたいと思え!」

 怒鳴るように捨て台詞を吐き捨てて、その客は逃げるように店を出ていった。

「やれやれ、計算くの食い逃げですね」

 僕は客が座っていたテーブルを眺めた。一ランク上のスペシャルランチに、ダージリンの春摘み紅茶ファーストフラッシュ。千五百円をゆうに超える当店自慢の豪華メニューのほとんどが、ものの見事にたいらげられていた。

「いちおう、顔写真は撮ったわよ。さあ、どうするの。警察へ通報する?」

 さすがは乙女さん。客の怪しげな挙動に気付いて、とっさにスマホで隠し撮りをしたようだ。

「まあまあ。今度やってきて同じことをしたら、その時は通報しようね」

 マスターはいらだつ様子を少しも見せずに、淡々と仕事へ舞い戻った。自己の顕示けんじ欲に関しては誰にも引けを取らないマスターであるが、他者への糾弾きゅうだんとなると、こちらはいたって寛容なのである。そういえば、午後の二時近くになっているのに、店内にまだ客がいっぱい残っている。もっとも、狭くていかにも居心地が悪そうなあの玉座の間だけは、誰も座ろうとはしていないのであるが。

「それにしても、今日は男性客が多いですね」

 僕は思った通りの感想を口に出した。

「きっと、土曜日の午後だからじゃないかしら……」

 乙女さんが答えた。

「えっ、どういう事ですか?」

 僕の質問に返す間もなく、客からの注文に呼ばれて、乙女さんは向こうへ行ってしまった。土曜日の午後だから男性客が多い、という謎めいた命題の理由づけに、僕はしばし考え込んでいたのだが、やがてそれはある人物の登場であっさりと解決することとなった。

 カランと出入り口の扉が開く音がして、一人の女性客が店に入ってきた。黒を基調としたモノトーンワンピース姿の清楚な美少女、西野さんである。なるほど、ソーシャル・ネットワーク・サービスのこのご時世、客たちの間で、毎週土曜日の午後になるとラ・グルナードにスリム美人が現れる、といった情報が出回ったところで、ちっとも不思議ではない。

 西野さんが店に入ると、客たちからおおっと歓声が沸き起こった。それに驚いた西野さんは、一瞬たじろいで足を止め、猫が警戒するように周りをきょろきょろと見渡したが、やがて、凛と顔をあげると、玉座の間、相変わらずここへ座っている客はいなかったが、へ向かおうと足を進めた。ところが、再び足を止めるや、今度は顔をしかめて、くるりときびすを返すと、一目散に駆け足で店から飛び出していった。それに気付いた乙女さんは、反射的に西野さんを追いかけた。マスターも心配そうな顔をして、

「平野君、心配だから見てきてあげてよ。ああ見えて結構繊細デリケートな子だからねえ」、と僕にささやいた。

 西野さんって、大胆でいつも威風堂々としている人だと思っていたけど……。


 店の外を少し行ったところで、西野さんは乙女さんに肩を抱きかかえられて、めそめそと泣いていた。僕は後ろから近づいていって、小声で乙女さんに状況を訊ねた。

「どうしたんですか?」

「それがね……」

 乙女さんが説明をする前に、西野さんの口からその答えがこぼれ出る。

「お店がタバコ臭かったぁ……。ふええええん。美味しい紅茶が飲めなくなるぅ……」

 なんだそんなことか……。西野さんは泣くことに一生懸命になっていて、僕の存在にはまだ気付いていないみたいだ。さらに、アナウンサー顔負けの流暢な早口で、一気にまくし立てた。

「だって、あり得ないでしょう。仮にも香りを楽しむ品行方正たる紅茶喫茶で、こともあろうに極悪非道のタバコですよお。そんなの、△□×▲じゃないですかあ……」

 いつも冷静沈着な西野さんが、いつになく支離滅裂な言葉をわめいている。

「ああ、それなら大丈夫ですよ……」

 僕がそっと声をかけると、それに気付いた西野さんは、あっという間に泣き止んで、涙を手で拭ってから、なんであんたがそこにいるのとばかりに、つぶらな瞳で僕の顔をキッとにらみつけた。

「それにしても、よくタバコのにおいに気付いたわね。摩耶ちゃんって犬みたいに鼻が利くのかしら」

 乙女さんがほっとしたように笑顔を見せた。

「さっき変な客がいましてね。うっかり店の中でタバコを吸い出したので、マスターから注意されて、そのまま店から出ていったんですよ。別にお店が喫煙を許可するようになったわけではありませんから、どうぞ安心してください」

 気を使って、いつもより丁寧に西野さんに説明をしてあげたのだが、西野さんは、

「そうですか。事情は完全に理解いたしました。しからば、お店へ戻りましょう……」

と言って、くるりと向きを変えると、何ごともなかったかのように、背筋を伸ばしたいつもの凛とした姿勢となって、僕たち二人を出し抜き、先頭だって歩き始めた。それを見た僕と乙女さんは、ほっと顔を見合わせて苦笑いを交わした。

 店へ戻ると、西野さんの姿を確認した客たちから、再び、さっきよりは小声で、おおっと歓声が沸き起こった。続いて、顔めっちゃちいせぇ、とか、本当に黒髪じゃん、とか、客同士で交わされる猥雑わいざつなひそひそ話も聞こえてきた。西野さんはそれを一向に気に留める様子もなく、さっさと玉座の間へ座り、おもむろに文庫本を取り出すと、その瞬間にまた、おおっと歓声が起こり、ウヴァのストレートティーを注文すれば、またまた、おおっと歓声が沸き起こる始末で、いつもならミルクティーかアールグレイを注文する西野さんなのに、ストレートとは……。ちょっと周りの異様な雰囲気にいらついていたのかもしれない。

 よく見れば、客層は三十代台前後の男性がほとんどであったが、中に還暦をとっくに過ぎていそうな頭の禿げあがった客が一人いた。こちらはどうやら西野さんが目当ての客ではなさそうである。

「つい最近だけどね。SNSで、『四谷にある紅茶喫茶ラ・グルナードにて、毎週土曜日午後、絶世の黒髪美人が出没す。必見!』、と摩耶ちゃんのことが書かれていたから、ずっと気になっていたのよ」

 うしろにいた乙女さんがそう言って、ため息を吐いた。

「それって、一歩間違えればストーカー行為になりかねないじゃないですか」

「まあ、そうなってもおかしくないくらいの美人だからねえ。摩耶ちゃんって」

 うしろで僕たちの会話を聞いていたマスターが小声でささやいた。

「とにかくさ、お客さんの個人情報を他人に伝えるような会話だけは、絶対に慎んでね」


 いつもながら、西野さんは本を読み始めるとそれに集中して亀のようにじっと動かなくなる。三十分もすれば、西野さん目的の客たちも、さすがにつまらなくなったのか、ぞろぞろと帰り始めた。まさに西野さんの粘り勝ちといったところか。一方で、マスターはといえば、カウンターにいる頭が禿げあがった例の男性客と、ずっと会話をしている。こちらの老人はかれこれ一時間は店にいるのだが、話はいつまでも尽きないようだ。

 本を読み終えた西野さんがすくっと席から立ち上がった。その頃には、店内にいる客は西野さんと、マスターと会話で盛り上がっている老人だけになっていた。

「マスター、お勘定をお願いします」

 カウンターにやって来た無表情の西野さんが、マスターへ声をかけた。

「ああ、お嬢さん、いつもごひいきにありがとうございます」

 マスターが他人行儀に応対する。いつもなら、ああ、摩耶ちゃーん、今日も可愛いねえ、とでも答えるところを、老人を前にして西野さんの個人情報に配慮した発言であった。ところがそのタイミングで、突如、この老人が、まるで独り言をつぶやくかのように、奇妙なことを口にしたのだった。

「ところで、マスター。あんた、霊力の存在を信じるかい?」


 マスターがきょとんとして訊ねた。

「霊力って、そのお、幽霊の力という意味ですか?」

「ああ、そうだよ」

 老人は答えた。勘定を済ませて出ていこうとしていた西野さんだったが、『霊力』という謎めいた言葉に、からだがピクリと反応して、くるりと体勢を返すと、猫のように丸くなった目で、じーっと興味ありげなまなざしを老人にそそぎ続けた。

 一方で老人は、西野さんの反応に気付くことなく、淡々と独白を続ける。

「婆さんの墓に添えといた花なんじゃが、婆さんの霊力で、ある日突然、急成長をしたんじゃよ……」

 僕はあらためてこの老人を観察した。よく見れば、顔に刻まれたしわもかなり深くなっていて、発言からも知的な印象をあまり見いだせない、どちらかと言えば、認知症をわずらっていてもおかしくなさそうな人物である。

「急成長ですって?」

 まっさきに、僕が大声で反応してしまい、直後に、マスターが冷静な口調で確認を取った。

「花とは、花瓶に生けた花のことですよね? ええと、お墓だから花立てにですか」

「そうじゃな。言い換えれば、根っこを断ち切られて、養分を取り込めなくなった植物のなれの果てのことじゃな」

「たとえ花立てに生けた花でも、水は与えられているのだから、ちょっとくらいなら成長するんじゃないですか」

 老人が事を大げさに語っているのではと勘ぐった僕は、失礼を承知で訊ねてみたのだが、老人から返された言葉は次のようなものであった。

「ちょっとどころじゃない。花立てに申し訳程度に生けた花が、しまいにゃ、花立てからこぼれんばかりに急成長をしていたんじゃ」

 とっさに僕はマスターと顔を突き合わせると、マスターも困ったように首を傾げた。

「もう少し、状況を詳しくご説明ねがえませんかねえ」

 マスターのうながしに、老人はとつとつと語り始めた。

「婆さんの命日は三月三日でな……」

「ふむふむ、三月三日と言えば、桃の節句のひな祭りですね。えっ、それって今日じゃないですか!」

 そうなのだ。今日まさしくは三月三日であった。マスターが驚いたのも無理はない。

「最近になって、娘夫婦に孫が生まれてな。それから毎年、婆さんの命日直後の日曜日になると、孫を連れて必ずこっちへやってきてのう。いっしょに墓参りをするんじゃよ」

 老人は軽く口元を緩ませた。

「娘さんのお住まいは?」

沼津ぬまづじゃ。静岡県のな」

「ちょっとありますね。ここからだと……」

「だから、いつも高速道路を使ってやって来るんじゃよ」

「そうですか。ところで、お孫さんはおいくつで?」

「五歳になったかな。最近は婆さんの若い頃の面影も出始めてきて、とってもかわいいんじゃよ。佳代かよの奴め……。ああ、わしの娘の名前じゃがな。孫が生まれるまでは、一度も婆さんの墓参りになんぞ来んかったくせに、孫ができてからは、とって返すように、毎年欠かさず来るようになってのう」

 よほどうれしいのか、老人は先ほどと同じ情報を再度口にした。

「結構なことじゃないですか」

 マスターがすかさず相槌を打った。

「それでな、娘夫婦が訪れてくる前に、わしが婆さんの墓をきれいにして、事前に花を供えておくんじゃよ」

「つまり、ひな祭りよりも前に、お婆さんの墓前にお花を供えていられるわけですね」

「そうじゃな。ところが、娘夫婦がやって来てから、あらためて、みなで一緒に墓を訪れてみると、必ず、花立てからあふれんばかりに、生けた花が成長しておるんじゃ」

「あなたが事前に花を生けてから、再度訪問されるまでに、何日くらい間が空いていますか」

「年によって違うが、たいていは三、四日ってところかな」

「まあ、急激に成長することがあっておかしくはない期間と言えますかね」

 マスターは強引に結論をまとめようとしたのを、

「逆に、しおれちゃうくらいね」

と、乙女さんが皮肉るように口をはさんだ。

「最近の花なら一週間くらいは普通に持つよ。ところで、そのお花はどこかで買って行かれたものですか」

 マスターが質問の方向を切り替えた。

「霊園の入り口に手ごろな花屋があってな。いつもそこで買って行くんじゃ」

「ちなみに、どちらの霊園ですか?」

「青山霊園じゃ……」

「青山霊園ですか! 東京で一番有名な墓地ですね。大久保利通おおくぼとしみちとか犬養毅いぬかいつよし、さらには忠犬ハチ公のお墓まであるそうだよ。ここからすぐ近くだよね」

 マスターが僕たちに気を使って簡単な説明をした。それから思い出したように、マスターは老人に訊ねた。

「ところで、お婆さんが亡くなったのはいつのことですか?」

「今年が七回忌じゃな」

「七年ですか。その七年の間、いつも供えた花が欠かさずに成長をしていたのですかね」

「そいつは分からん。孫が生まれてから娘夫婦は毎年来とるけども、もっとも、あいつらが来なきゃ、同じ年に二度も墓参りなどせんからなあ。たとえ成長しておっても、気付くことなどなかろうて……」

「そうですか。でも、お孫さんのお歳は五歳ということでしたから、お孫さんが生まれてからの五年間は、ずっと花が成長したのが確認されている、ということですね」

「そう言われると、最初のうちは何も起こらんかったように記憶しておる。たしか孫が二歳の時に、はじめて、花が成長しておるとわしが驚いたのを、陽菜ひなが来たからお母さんがきっと奮発したのねって、佳代が口ずさんだのを覚えておるんじゃが、それからはずっと、急成長をする怪奇現象が起こっとるなあ……」

「佳代さんが娘さんで、陽菜ちゃんがお孫さんのお名前ですね」

 独り言のように、マスターがつぶやいた。

「墓前にお供えする花の種類は、いつも同じ花ですか」

「いいや。わしは結構気まぐれで、花屋できれいと思ったものを買っておる」

「そうですか。ところで、今日はひな祭りですけど、もうお婆さんのお墓にはお花をお供えされましたか」

「ああ、木曜日に供えておいた」

「木曜日ということは、おとといの三月一日ですね」

 マスターがうなずいている横で、さっきからずっと沈黙していた西野さんが、ようやく口を開いた。

「おじいさん。今日このあと空いていますか?」

「あいている?」

「お暇か、ということです」

「わしは元来隠居の身じゃ。年がら年中空いておるわな」

「そうですか。それは良かったです。それでは今から花立てのお花を確認しに……。いえ、私と一緒に、これからお婆さまのお墓をお参りにまいりましょう――」


 西野さんの突発的で驚愕の提案には、老人だけでなく、僕たちも当惑させられた。

「そう言う事なら、平野君、君も一緒に同行してやってよ。その間のバイト代はきちんと払うからさ」

「えっ、今日は土曜日ですけど、大丈夫ですか」

「ああ、店なら大丈夫だよ。乙女ちゃんもいるしね」

 マスターが乙女さんにちらっと横目を向けると、乙女さんはあきらめた様子で小さくうなずいた。

 それにしてもマスターって、いつも西野さんに甘い。もう立派な大人なんだし、頭なんか人一倍賢い人だと思うけど。

「まあ、美人のあんたといっしょなら、わしも楽しいからな。いいぞ、これから行ってみるか」

 どうやらこの老人も、あえなく西野さんスマイルに撃沈されてしまったようである。かくして、僕と西野さん、それに老人を加えた三人は、お婆さんのお墓参りへ出向く羽目となってしまったのだった。


「青山霊園でしたね。メトロ銀座ぎんざ線の青山あおやま一丁目駅で降りればよろしいですか」

 とっさに僕は老人に訊ねた。

「いや、それだとかなり歩かにゃいかん。わしはいつも乃木坂のぎざか駅から行くことにしておる」

「なるほど。乃木坂駅といえば、メトロ千代田ちよだ線ですね。となると、国会議事堂前こっかいぎじどうまえ駅で乗り換えか……」

 いずれにせよそんなに遠くでないことは確かだ。僕たちは四ツ谷駅からメトロ丸の内線に乗って、千代田線の乃木坂駅を目指した。

 今日は桃の節句か……。どおりで、駅の地下街もひな祭りのお飾りでどこもかしこも朱鷺ピンク色の一色いっしょくに染まっている。

「どうして三月三日を桃の節句と言うのでしょうね。日本でピンクの花とくれば、桃よりも桜の方がピンときますけどね。あっ、そうか。三月三日だと、まだ桜は咲いていないということですか。なるほど……」

 ついその場で思い付いたことをべらべらと口に出したけど、思いのほか、かなりひどい失言であったみたいだ。

「すみません。アドニス君……。今、私をからかっているのでしょうか?」

 西野さんが鬱陶しそうに訊ねてきた。からかっているつもりなど毛頭ない僕は、そのように西野さんに告げたのだけれど。

「桃の節句は、正式には上巳じょうしの節句と呼ばれ、一月七日の人日じんじつの節句、三月三日の上巳の節句、五月五日の端午たんごの節句、七月七日の七夕たなばたの節句、それに九月九日の重陽ちょうようの節句の五つが、季節の節目を表す五節句として、中国では定められています。そもそもこれらは、日本がどうのこうの言えるような立場にある記念日ではありません。それに、三月三日だと、桜と同じく、桃の花もまだ開花はしません」

「えっ、それじゃあ、なんで三月三日が桃の節句となっているのですか。桃の花とは関連がないじゃないですか」

「違います。桃の節句は、たしかに桃の花が咲く頃合いに祝う行事なのです。ここで注意しなければならないことは、中国のこよみが旧暦であることです。旧暦の三月三日は、現代歴に換算すると四月の中旬頃になっていて、ちょうど桃の花が咲き誇る時期と重なります。一方で、現代歴の三月三日の桃の節句に女の子の成長を祝って人形を飾る文化は、日本特有のものなのです」

 そう言って、西野さんはふーっと大きくため息を吐いた。面倒くさいことを説明させないでくださいとでも言いたげな、わざとらしい仕草リアクションであった。

 乃木坂駅の五番出口を出ると、眼前に青山霊園の小高い木立が広がっていた。まっすぐ園内に入っていくのかと思いきや、老人は左手に伸びる道路に沿ってすたすたと歩き始めた。かなり進んだところを右へ折れて、僕たちはようやく霊園に入ることができた。

「いつもここで花を買って行くんじゃよ……」

 そう言って、老人は霊園の入り口にたたずむ花屋へずかずかと入っていった。店の入り口の自動ドアに、『まことに申し訳ございませんが、三月中は午後五時半で閉店をさせていただきます』、と大きな紙がこれ見よがしに貼ってあった。とっさに僕は腕時計に目をやったが、ただ今の時刻は午後四時半をちょっとだけ過ぎたところだった。ラ・グルナードの禁煙宣言も、このくらいド派手に貼り出しておけば、先ほどのような迷惑客もいなくなりそうな気がするけど……。

「ほれ、そこらへんにあるのを適当に千円分な」

 店の中には何種類かの献花用の花が売られていたのだが、どれもこれも決してお安くはなく、千円分といってもほとんど雀の涙ほどしかない分量だった。僕たちは、花は見るだけにして、店をあとにした。霊園の中央の通りを北へ向かって百メートルほど進み、左に折れたすぐのところに、お婆さんのお墓があった。

「あっ、申し訳ありません」

 墓石と墓石の間の狭い参道を、ちょうど反対方向からやって来た濃紺ネイビーのジャンパーを着た男が、すれ違いざまに僕と肩が接触したので、向こうの方から謝ってきた。

「こちらこそ……」

 そう言って、僕も軽く頭を下げた。まだ若そうだけど、落ち着きも兼ね備えた、わりと背が高い人物だった。墓参りのくせに、特になにも手にしてはおらず、まるで散歩の通りすがりのようないでたちだ。そう言えば、僕たち三人も、特に献花や線香を用意しているわけではないから、同じようなものだけど……。

 『小野田おのだ家之墓』と書かれた墓石の側面には、老夫婦の名前が、昌典まさのり洋子ようこの順番で、小さく刻まれていた。昌典の文字だけは、まだ存命中であることを意味する朱色で塗られている。

「お婆さんのお名前は、小野田洋子さんなのですね」

 そう言って西野さんはお墓の前へ立つと、目を閉じて静かに手を合わせた。その瞬間、黒のワンピーススカートの裾がそよ風で静かに揺らいでいた。

 墓の左右の花立てには、チューリップと丸くて大きな花が、それぞれ二、三本ずつ生けてあった。たしかに、先ほどの花屋で売っていた品物である。どちらも見事なまでのピンク色の花であるが、量としては、所詮、千円分程度のままで、まだお婆さんの霊力が発揮されているとは言えなさそうであった。

「ピンクチューリップとピンクガーベラですね。紫色のスイートピーをちょっと混ぜればピンク色にさらに奥行きが出ますけど、それがないからピンク染めの直球勝負って感じのデコレーションとなっていますね。まあ、これはこれで良いとは思いますけど……」

 西野さんは、ほめているのか、けなしているのか、どちらとも取れるようなコメントを唱えた。

「ところで、お婆さんはご病気かなにかでお亡くなりになったのですか?」

 会話ネタに困った僕は、なにげなく切り出してみたのだが、いつも穏やかだった老人の顔が、その瞬間に一変した。

「悔やんでも悔やみきれんて……。婆さんは無謀な若者が運転する暴走車に巻き込まれて、無念の事故死を遂げたんじゃ」

「暴走車?」

「ああ。犯人の男は、当時二十五歳とか言っておったが、持病を持っておったみたいでな。運転中に突然意識を失って、そのまま歩道を歩いていた婆さんに突っ込んだんじゃ」

「てんかんか……。そういえば、この辺りでそんな事故のニュースが騒がれていた気がする。もうだいぶ昔だから、被害者も加害者も名前を忘れてしまったけど、とにかく悲惨な事故だった。加えて、加害者の男が、そのような大それた事故を起こしたにもかかわらず、自分は悪くないだとか、これまでに運転中に意識を失ったことはなく、今回が初めてだったとか、遺族への謝罪を一切することなく、身勝手な言い訳ばかりを報道陣に繰り返していたのが印象的だった。

「あれほどの事故ですから、加害者は当然実刑になりましたよね?」

 たとえ殺意はなかったにせよ、明らかに加害者側に非がある過失致死である。せいぜい数年の懲役くらいが相場と言ったところか。

「さあな。わしは裁判のことは興味もないし、難しいことはよう分からんからな……」

 そう言って、老人は寂しそうに首をすくめた。


 さすがは都心最大の霊園だけあって、もうあたりは暗くなりかけているのに、そこそこの墓参り客が依然として行き来をしていた。霊園を出たところで、僕と西野さんは老人と別れ、ラ・グルナードへ戻ることにした。

「やれやれ、今回は何もありませんでしたね。お婆さんの霊力も結局のところ見られませんでしたし……」

 帰りの地下鉄電車の中で、僕は横に座っている西野さんに話しかけた。

「おそらく霊力は、もう少し時間が経ってから、発揮されるのでしょうね……」

 西野さんがボソッとつぶやいた。

「えっ、どういう事ですか?」

 西野さんが自分のスマホを僕にかざした。

「七年前の事故なら、大々的に放送されて有名でしたから、ほら、すぐに検索できました。それによれば、事故が起こったのが三月三日の正午頃。被害者の女性は、通行人によって呼び出された救急車で病院へ搬送されたけど、意識不明のまま、その日の午後九時頃にお亡くなりになったそうです」

「ということは、霊力は亡くなった時刻である今日の午後の九時にならないと発揮されない、とでも西野さんは言いたいのですか?」

「ええ、おそらく」

「まさか、そんなことが……。僕にはまるで理解ができません」

 僕の必死のうったえを気に留めることなく、西野さんは車窓に広がる暗闇を見つめながら、静かに言葉をつぶやいた。

「真相を突き止める唯一の手掛かりは、心理的なものであって、物理的なものではない。バイ、ファイロ・ヴァンス――」

 おおっ、ここでいきなり決め台詞か……。これまでの情報から西野さんはいったいどんな結論を導き出したというのだろう?


「さすがは西野さん。いつもの決め台詞が出ましたね」

 期待を込めて、僕は西野さんに声をかけた。

「はっ……。無意識に決め台詞宣言をしてしまいました。でも、今回はまったく自信がありません……」

 西野さんがちょっぴり取り乱している。本当にうっかり口からこぼれてしまったみたいである。

「だったら、安易に決め台詞なんか唱えないでくださいよ」

 僕の軽い突っ込みに、意外にも、普段は威風堂々としている西野さんが、申し訳なさそうにうつむいた。

「そうですね。ちょっと、いえ、かなり後悔しています……」

 今回はやや自信がなさそうな摩耶ちゃんですが、彼女のたどり着いた推理がお分かりになりますか?

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