4.菖蒲色(le Violet)【解決編】
「分かったぞ、高速道路を使うんだ。
秋葉原駅で電車に乗り損ねたペリ子は、すぐさま発想を切り替えて、駅の改札を駆け足で出ると、外でタクシーを捕まえた。そして、秋葉原駅のすぐ近くにある本町インターから首都高速道路へ入り、そのまま渋谷インターまで一気に駆け抜けたのだよ」
マスターが意気揚々と言い放った。
「でも、実際にそのルートでどのくらいの時間がかかりますかね。駅の改札から出るまでの時間、タクシーを捕まえる間の時間、タクシーが下道道路を走って本町インターまでたどり着く時間。さらには、慢性的に渋滞している首都高速道路の移動時間に加えて、渋谷インターから駅前までの移動に要する時間と……」
僕はマスターの案にただちに賛同は出来かねた。
「ゆうに十五分はかかるでしょうね。下手すれば山手線の方が早く着いちゃうかもしれないわよ」
麦倉さんも冷めた言葉を返す。
「自動車を使うつもりならば、そもそも秋葉原駅の改札を通過してホームに行く必要がありません」
西野さんがドライな表情で否定した。
「違うよ。電車に乗り遅れたから、慌ててタクシーを拾ったのさ」
マスターも崖っぷちの抵抗を企てる。
「そのタクシーがすぐに捕まるでしょうか?」
「駅前に並んでいるタクシーだったから、すぐに捕まったのかもしれないよ」
「でも、ペリ子さんがいたのは山手線のホームです。仮にひとつの電車に乗り損ねたとして、どう考えたって、次の電車を待ちませんか。山手線ですから、五分と経たぬうちに次の電車がやって来ます。いるかいないかのタクシーと、渋滞しているかどうかも定かでない首都高速道路に期待をして、その場の思い付きで、自動車なんかを選択するでしょうか?」
すでに風前のともし火状態のマスターの反論を、西野さんはことごとく待ち構えて駆逐していく。
「要するに、車を使うつもりなら、はなから駅のホームになんかいないということよね」
麦倉さんがあっさり西野さんに軍配を上げた。
「はははっ、高速道路で駄目なら、いよいよジェット機ですかね」
冗談めいて僕も付け足したけど、誰も相手にしてくれなかった。
「もう少し具体的に考えを進めましょう。ペリ子さんが渋谷駅に着いてから、大きな人だかりができるまで、実際にはどのくらいの時間を要するでしょうか?」
西野さんが論点を整理した。
「さっきアドニス君が十五分といったじゃない?」
麦倉さんが僕をにらみつけた。
「本当に十五分で間に合いますかねえ」
続けて、西野さんも愛らしい視線を僕に送り込む。
「正直なところ、十五分ではちょっと無理な気がします。路上を歩いているペリ子さんに気付いた通りすがりの歩行者から、すかさず写真を撮らせてくださいと頼まれたとしても、それがさらに大きな人だかりにふくれあがるまでには、相当な時間がかかることでしょう。
僕は、山手線に乗ったヲタク君が秋葉原駅から三十分ちょっとで渋谷駅へ到着することを考慮して、それでもペリ子さんが僕らのまだ気付いていない何らかの手段で、極限まで時間を切り上げて渋谷まで行けたとして、人だかりが出来ていたことを合理的に説明できないかと、ささやかなる期待をしつつ、十五分という数字を告げたのです。しかしながら現実的に考えれば、まあ三十分は要することでしょうね、人だかりができるまでは……」
僕はひいき目を取り除いた見解を述べた。
「とどのつまりは、人だかりができるまでの時間を三十分と見積もると、ヲタク君は秋葉原駅でペリ子の姿を見かけて、それから電車が発車したわけだが、それとほぼ同時刻に、ペリ子は渋谷駅にいなければならなくなった、ということだ。
まさに、瞬間移動だな……」
さっきまで持論を木っ端みじんに論駁されたマスターが、もはや開き直って、うなずいている。さすがはアラフォーだ。切り替えの素早さではかなわない。
「本件に答えがあるとすれば、ヲタク君がペリ子さんを秋葉原駅の3番ホームで見た、という事実と、ヲタク君が渋谷駅へ到着するより三十分ほど前に、ペリ子さんが渋谷駅にいた、という一見矛盾する二つの事実を説明しなければなりません。もちろん、瞬間移動などという架空の特殊能力を人間が発揮できるはずはありません」
そう言うと、西野さんは紅茶をそっと一口すすった。
「さらに付け加えますと、皆さんは考えられる二つの可能性のうちの、片方しか追求をしていません。すなわちそれは、ペリ子さんがヲタク君を追い越す可能性です」
何やら謎めいたことを西野さんが発言した。
「じゃあ、もう一つの可能性って?」
僕はすかさず訊ねた。
「ヲタク君がペリ子さんに追い越される可能性です」
西野さんがすんなりと答えた。
「それって同じことじゃありませんか?」
「いいえ、同じではありません」
さあ、分からなくなった。ペリ子さんがヲタク君を追い越すことと、ヲタク君がペリ子さんに追い越されることは、数学的見地に立てば、どちらも全くの同義語に思えるのだが……。
「じゃあ、質問です。3番ホームで電車にギリギリで間に合わなかったペリ子さんは、その後でいったいどうしたのでしょうか?」
西野さんが僕たちに問題を提起した。
「渋谷まで瞬間移動したのだから、何か想像を絶する移動手段を用いたわけよね」
麦倉さんが首をかしげると、それを聞いた西野さんが首を振った。
「いいえ。ペリ子さんは3番ホームにそのまま残って、次にやって来た電車にただ乗っただけです」
「それじゃあ、渋谷まで一瞬でたどり着くなんて、出来やしないじゃない?」
「一瞬でたどり着く必要などなかったのです。山手線外回りに乗ったペリ子さんは、列車の時刻表どおりのおよそ三十分をかけて、秋葉原駅から渋谷駅までを移動しました」
「それじゃあ、先行電車に乗ったヲタク君の方が先に着いちゃうじゃないの? 山手線に快速電車はないのよ」
麦倉さんが西野さんに異議を唱えた。
「ここでヲタク君の容姿の特徴を思い出してみましょう。彼は三重顎を持つ典型的な運動不足体型でした」
「それがどうかしましたか?」
相槌を打つ感じのタイミングで、僕は問いかけた。
「閉塞性睡眠時無呼吸症候群――。
睡眠中の筋弛緩による舌部沈下などのため気道が塞がれて通常の呼吸ができなくなる症状で、肥満の人に多く見られます。この症状に患わされている人は、夜間時の睡眠が浅くなっている反動で、本人の意思にかかわらず、昼間でも簡単にところかまわず居眠りをしてしまう傾向があります。
そして、ヲタク君はこの閉塞性睡眠時無呼吸症候群の患者であったと推測されます。
今回の出来事は周回する山手線ゆえに起こった事件と言えましょう。もうお分かりですよね。そうです。山手線でペリ子さんに先行して渋谷へ向かったヲタク君は、電車の中で突発的な居眠りを引き起こして、そのまま渋谷駅を通り過ぎてしまいます。そしてヲタク君を乗せた電車が山手線の周回ループをもう一周回って、再び渋谷駅へ近づいた頃、タイミング良くヲタク君はふっと目を覚まします。
ヲタク君は、自分が余分に周回している事態に気付くことなく、そのまま渋谷駅で平然と電車から降ります。そして路上で、ヲタク君よりも一時間以上も早く渋谷駅へ到着していたペリ子さんを取り囲んだ巨大な人だかりを見つけて、仰天することとなるのです」
そう言い終えると、西野さんはいつもの優雅な仕草で、紅茶を一口すすった。
「そんな単純な解答ですか?」
あまりに馬鹿馬鹿しい真相に、僕は声を張り上げずにはいられなかった。
「はい。ヲタク君にとって電車内での居眠りは日常茶飯事のことですから、目が覚めた時に渋谷駅が近づいていたのでそこで降りただけで、一周余分に回っている事実に関しては、気付くどころか、疑いすらもしなかった」
「でも、さすがに気付かない? 一時間も余分にかかっているのだから」
麦倉さんが疑問を投げかけた。
「気付かなかった理由には、時刻が昼下がりであったことも影響しているかもしれません。
例えば、夜の七時の到着予定が八時となってしまうと、一部のお店が閉まったりすることで、時刻が経過している事実に気付くことができたかもしれませんが、それが午後一時半の予定が二時半になっていたところで、町の風景もそんなに劇的に変わりませんから、うっかり事態を見過ごしてしまっても不思議ではありません」
あまりに想定外のていたらくな展開に、僕はむしろ怒りが込み上げてきた。
「畜生。結局は、単なるあいつのポカに過ぎないじゃないか……。瞬間移動なんて言うから、信じて損をした!」
「聞きましたか、みなさん……」
「えっ?」
さっきまで愛らしかった西野さんの瞳が、今やジト目と化して、僕へと向けられている。
「思い出してください。今回の事件の説明時に、アドニス君はヲタク君のことを何度も『あいつ』呼ばわりしています。あたかも親しい友人であるかのように。
それからアドニス君は、J大学の学食で、ヲタク君ともう一人の学生がテーブルを共にしてだべっているのを、偶然となりの席に座っていたから話の内容を聞くことができた、と証言しましたが、それこそが、あろうことか、大嘘なのです!」
「そこまで言い切るのには、なにか根拠があるのかしら。摩耶ちゃん?」
麦倉さんが口をはさんだ。
「アドニス君は、ヲタク君がシュガーポットから何杯も砂糖をすくってコーヒーに投下していた、と証言しましたが、私が記憶している限りでは、J大学の学食のテーブルにシュガーポットは置いてありません。
アドニス君が実際にヲタク君の話を聞いていたのは、卓上にシュガーポットが置いてあるテーブル……。それはおそらく、渋谷のとあるカフェでしょう。
そして、ヲタク君と同じテーブルで話をしていたというもう一人の学生ですが、アドニス君のお話では、その学生に関する説明は一切なく、極めて影が薄い存在です。果たしてその学生がどのような人物だったのか、おそらくみなさんにはさっぱりイメージできていませんよね。
それもそのはず。ヲタク君と話しをしていた見ず知らずのもう一人の学生。彼の存在そのものが、またもや不届き千万、真っ赤な嘘であったというわけです。
しかして、ヲタク君と渋谷のカフェでテーブルを供にしていた謎の学生とは誰あろう……。
そうです。それは、言わずと知れた、アドニス君――、あなた自身なのです!」
西野さんが人差し指を伸ばして、まっすぐに僕に向けている。よくもあんなに反り返るものだと思うほど、白い人差し指は美しい円弧を描いていた。
「みなさん、先週の土曜日のことを覚えておいででしょうか。私もラ・グルナードへお邪魔しましたけど、たしかアドニス君はその時お店にいませんでしたよね。マスターのお話では、体調を崩した、という電話が本人からあったとかで、みんなで心配をしてあげていたのに、ところがなんと、その電話の内容そのものが、もはや言語道断としか言えませんが、さらなる追加の、真っ赤な大嘘であったのです。
アドニス君は、何を隠そう、コスプレイヤー追っかけ隊の一員なのです!
そして、ヲタク君とは追っかけ隊の仲間同士でつるんでいて、さんざんペリ子さんの写真を撮りまくった後で、渋谷のカフェにて反省会をしている時に、ヲタク君から今回の話を聞かされたのでしょう。
ここからは私の勝手な想像となりますが、アドニス君はヲタク君よりももっと後になってから渋谷へ到着して、ペリ子さんの人だかりに紛れ込んだものと思われます。ですから、ペリ子さんがヲタク君よりもずっと前に渋谷へ到着している事実も知らずに、ヲタク君の瞬間移動の話を真に受けて、興味を惹かれたというわけです」
まるで一枚一枚衣服をはぎ取るかのように、西野さんは容赦なく僕を窮地に追い込んでいった。
「さあ、いい加減に観念して白状しなさい。
日頃は性欲に無関心な聖人づらを振舞うあなたの本性は、実は、肌が露出したコスプレイヤーを撮影しながら、猥褻な興奮を感じて喜びを見出す、破廉恥かつ最低な色情魔であるということを!」
「違います。僕はそんなはしたないことなんて、絶対に……」
「ここまで来てまだしらばっくれるとは、往生際が悪いですね。
あなたは、本当はペリ子さんの大ファンです。なぜなら、これまでの説明で、あなたは彼女のことを必ず『ペリ子さん』と、常に『さん』付けで呼んでいました。
もしそれが違うと否定するのなら、今ここでペリ子さんの悪口を一言でもいいから、言ってみせなさい。さあ、言えますか?」
「うわあああああああ……」
どれくらい時間が経ったのだろう。気が付くと西野さんは、僕を除いた店員の二人と会話を楽しんでいた。
「さあ、今日はお話が楽しくて、思わず長居をしてしまいました。でも、そろそろ帰りますね」
カウンター席から西野さんがすくっと立ち上がった。
「摩耶ちゃん、また来てねー」
「はい、また来ますー」
笑顔で勘定を済ますと、西野さんは、麦倉さんとあのうらやましいハグを交わしてから、店から出ていった。先ほど受けた傷心状態から、僕は依然として立ち直れてはいなかった。
「さあさあ、五時を過ぎたから、これからは忙しくなるわよ。アドニス君、いつまでもくよくよしていないで、お仕事に専念しなさい」
麦倉さんが励ますように僕の背中をポンと叩くと、今度はマスターが僕の肩にそっと手を置いた。
「まあ、そう落ち込むなって。君が人並みの性欲を保持した健全な男子であることが分かって、正直なところ、僕はうれしくさえ思っているよ」
そう言って、マスターは厨房へ入ると、サラダの仕込みを始めた。
「大丈夫よ。今日のことは絶対にお客さんには告げ口したりなんかしないから、私たちを信じて、安心していなさいね」
そう耳元で告げた麦倉さんは、炊事場で使用済みのカップを洗い始めた。
そうだよ。別に、恥ずかしがることじゃないさ。誰でも同じようなことを妄想しながら、同じように普段の日々を過ごしているわけだし。まあ……。
うわあああああああ――。
結局、アドニス君も普通の男の子だったということですね。