4.菖蒲色(le Violet)【出題編】
「摩耶ちゃん、いらっしゃーい。また来てくれたのね。うれしいわ」
そう言って、来店したばかりの西野さんといきなりハグを交わしたのが、ラ・グルナード店員の麦倉乙女さんである。
麦倉さんは、ご存知、常盤色の章で西野さんに恋愛の悩みを解決してもらい、それからしばらくして、土曜日限定でラ・グルナードでバイトをするようになったのだ。彼氏との同居生活へ向けた軍資金を蓄えたい、というのがどうやら動機であるらしい。
「うん、美味しい紅茶が飲みたくなって、また来ちゃいました」
西野さんも嫌がることなくハグに応じる。西野さんの方が麦倉さんよりちょっと背が高いので、膝をかがめながらだが、いつまでもムギューっと二人が抱き合っているので、僕もマスターも目のやり場に困ってしまった。
土曜日の午後三時半過ぎ。ちょうど客足も途絶えたところで、店内の客は西野さんだけだ。西野さんはそうなる時間帯を狙っていつも来店しているのではないかと、時々僕は勘繰ることがある。
「摩耶ちゃん、今日はカウンターへ来なさいよ。奥の席で一人切りじゃ、つまんないでしょ」
麦倉さんの誘いに、西野さんが笑顔で応じる。
「じゃあ、おじゃまします」
「どうぞ、どうぞ。だったら、摩耶ちゃんのために、極上紅茶をサービスしちゃおうかなあ」
マスターはうきうきと嬉しそうだ。もちろん、僕もやぶさかではない。
僕たちの会話は、誰が誘発するわけでもなく、ミステリー論へと展開していった。
「ハリイ・ケメルマンの『9マイルは遠すぎる』という短編を知らないかい?」
マスターが僕たちに問いかけた。
「いえ、初めて聞きます」
僕は正直に答えた。
「私も知らないわ」
麦倉さんも知らないみたいだ。マスターが最後に西野さんへ目をやると、西野さんも無言でにっこり微笑んだ。つまりは、知りません、ということだ。
「9マイルもの道を歩くのは容易ではない、ましてや、雨の中となればなおさらだ」
マスターがなにやら謎めいた一文を口ずさむ。
「なんですか。それは?」
「『9マイルは遠すぎる』の小説で問題の核心となった文章だよ。
語り手である『わたし』が、探偵のニッキイ・ウェルトと二人きりで話をしていた時に、ニッキイから何か適当に短い文章を作ってみたまえ、とせかされて、とっさに思い浮かんだのが、
『9イルもの道を歩くのは容易ではない、ましてや、雨の中となればなおさらだ』、だよ」
マスターの弁が次第に白熱してくる。
「英語にするとわずか十一語の『A nine mile walk is no joke, especially in the rain』、という短い文章に過ぎないが、どうしてそれが浮かんだのかとニッキイから訊ねられて、『わたし』は、朝食を食べたレストランを出る際に、偶然すれ違った見知らぬ二人組の片割れがつぶやいた台詞であると答えたのさ」
「でも、それがどうかしたのですか」
趣旨の全貌が見えなくて、僕は訊ねた。
「その答えを言う前に、まずは考えてみようよ。この単純な文章からの論理的帰着として、果たして何が推測されるのかをね」
マスターお得意のじらし戦法が始まった。
「そうは言われても……」
突然の問いかけに、僕は困窮した。
「相変わらず君は暖簾に腕押しだねえ。じゃあ、乙女ちゃんはどうだい」
マスターは呆れた様子で、麦倉さんへと目を向ける。
「そうねえ。9マイルってどのくらいの距離なの?」
「ええと、1マイルがおよそ1.6キロだから、ざっと十五キロくらいかな……」
「十五キロも―――? 絶対に無理。あたしじゃ歩けないわ」
麦倉さんは両手を振って拒否をした。
「ああ、答えはそっちですか……」
マスターが苦笑いをした。
「じゃあ、いよいよ大御所に行こうか。摩耶ちゃんはなにか推理できたかな?」
マスターが本命の西野さんに問いかけた。西野さんは少しだけ考えていたけど、やがてつぼみのような小さな口が開かれた。
「うーん、そうですね。この見知らぬ二人組はともに男性ですか?」
突然の逆襲の質問だ。さすがは西野さん。
「ああ、そうだね」
マスターが即座に返した。
「それと、この言葉が発せられたのは朝食の時刻ですよね?」
「うん、そうだよ」
マスターが肯定した。
「そうですか。じゃあ、違いますね……」
西野さんがまた考え込んだ。
「ええと、何が違うんだい」
マスターが催促した。
「まず、この文章を語った人物は、つまりは二人連れの片方の男性は、明らかに愚痴をこぼしています。ということは、この人は雨の中の9マイルという長き道のりを実際に歩いたことになります。そうでなければ、愚痴を言う必要がありませんからね。それも今歩いて来たばかりのような口調です。
そこで、分からないのです。語られた時刻が朝ということは、その人物は雨の降りしきる9マイルもの夜道を歩いて来たことになってしまいます。ちょっとそれはあり得ないかな、と……」
「夜道じゃなくて、朝の散歩で歩いて来たのかもしれないわよ」
麦倉さんが提案した。
「9マイルって普通に歩くと、どれくらいの時間がかかりますか」
西野さんが静かに訊ねた。
「ええと、人が歩くのは時速四キロだから、ざっと三時間半くらいかしら?」
麦倉さんが首を傾げる。
「雨の中だし、そんな長い道のりなら、普通は途中で休憩を入れるから、もう少しかかるだろうね。小説の中では、少なくとも四時間はかかるとして、議論が進んでいったけどね」
マスターが補足した。
「やはり、その人物が歩き始めた時刻は真夜中となってしまいますね……」
「さすがだねえ、摩耶ちゃん。実はその通りで、じゃあなぜ、真夜中にその人物は雨の中を9マイルも歩かなければならなかったのか、という感じで、ニッキイの推理は進展するんだよ」
マスターが感心するように西野さんを褒めた。
「それで、その推理の結末はどうなるのですか」
我慢できなくなって、僕はマスターに訊ねた。
「このあとでニッキイがした推理は、そのレストランがあった場所の地理的状況に依存するものなので、その情報無しにニッキイと同じ推理をたどるのにはちょいと無理があるけど、最終的にニッキイが導き出した結論は、昨晩にどこかで人が殺されているはずだ、という想定外のものだった!」
「たった十一語の短い文章から、そのような大胆な結論が推理されるのですか?」
僕は驚いて訊ねた。
「そういうこと。すばらしい作品だろう。まあ僕が言いたいことは、超人的な論理力を駆使すれば、凡庸なる文章からでも、最高の座興が得られるということさ」
マスターが持論を語った。
「凡庸なる文章ね?」
「そう。なにか思い付かないかな。『9マイルは遠すぎる』のような気の利いた文章をさ」
僕の目がマスターの目とぶつかった。そう言えば、僕にも第三者が語ったちょっとばかり気になる台詞があったような……。
「秋葉原にいたペリ子が、渋谷へ瞬間移動をした――」
「なんだい、それは?」
突如発信した僕の意味不明なる文章に、マスターがプッとふき出した。
「おとといのことですが、僕は大学の学食でお昼を過ごしていました。その時に、近くのテーブルで話をする二人組がいまして、そのうちの片方が語った一言です。そいつはかなり大きな声でしゃべっていたので、聞くつもりはなかったのですが、話の内容は全部覚えているのですよ」
僕は盗み聞きをしてはいなかったことをことさら強調しておいた。
「ペリ子って、有名なレイヤーよね」
「レイヤー?」
麦倉さんの言葉に、西野さんが反応した。
「そう。コスプレイヤーを省略してレイヤーと呼ぶのよ。アニメやゲームのキャラクターに扮装する人たちのことだけど、売れっ子になると芸能界にデビューする人もいるわ」
「仮装をして、なにか面白いのですか?」
西野さんはレイヤーのことを知らないばかりか、コスプレ文化にも全く関心がなさそうだ。
「でもさあ、摩耶ちゃんがハロウィンの魔女をコスプレしたら、絶対に可愛いよねえ」
待ってましたとばかりに、マスターが会話へ割り込んできたが、それに対する西野さんの返答は、
「私は可愛くなんかありません!」
西野さんの予想外の反応に、マスターは肩をすぼめてすごすごと引き下がった。
「そうよね。摩耶ちゃんなら、きっとコスプレが似合うわよ」
麦倉さんが何気なく付け足すと、
「そうでしょうか……」
と、こちらには西野さんはにっこりと微笑みを返す。
毎度のことだが、西野さんお得意の、マスター限定照準の無意識ツンデレ攻撃が、またもやものの見事に炸裂してしまった。
「それで、アドニス君が学食で聞いた瞬間移動の話はどうなったんだっけ?」
麦倉さんが話を戻した。
「ああ、そうでしたね。もう少し詳しく説明しましょう。
話していた二人はうちの大学の男子学生で、いっしょのテーブルに着いていました。彼らは最初こそ僕も知らない地下アイドルグループについて語り合っていましたが、やがてその男子学生が思い出したように、
『秋葉原にいたペリ子が、渋谷へ瞬間移動をした――』
と言い出すのです」
「平野君、ちょっといいかな。
毎回『その男子学生』と呼んでいると、くどくなってしまうから、これからはその彼のことを『ヲタク君』と呼ぶことにしようよ」
奥に引っ込んでいたマスターが、小声で提案をしてきた。
「分かりました。そうしましょう。
では、そのヲタク君ですが……、彼の話によれば、先週の土曜日に彼は秋葉原駅にいて、3番ホームからやってきたばかりの電車に乗って、たまたま開いていた座席へ座ったそうです。すると、ドアが閉まる間際に、紫色の衣装を着たコスプレ美人がホームの階段を急ぎ足でのぼってきました。とっさに顔を見ると、なんと彼女は人気カリスマレイヤーの『ペリ子』さんだったのです。
結局、ペリ子さんはその電車には乗れませんでした。ドアが閉まってしまいましたからね。その時の慌てふためく彼女の様子から、ヲタク君は彼女が急いでいたような印象を受けたそうです。
テーブルに座っていたもう片方の男子学生が、すぐさま、見間違えじゃないか、と突っ込みを入れましたけど、あいつはそれを完全否定しました。ペリ子本命の自分が、まさか本人を見間違うはずがない、と断固主張したのです。
ヲタク君はそのままその電車に乗って渋谷駅まで行き、そこで電車を降りました。
その日の渋谷は、ハロウィン直前の土曜日ということですごく盛り上がっていたようで、好みのレイヤーを取り囲んで写真を撮る大きな人だかりが、歩道のあちこちでできていたそうです。もちろん、ヲタク君の渋谷訪問の目的もそれでした」
「わざわざ人混みに集まって、何がそんなに面白いのですかね」
西野さんがポツリとこぼした。たしかに西野さんって集団を毛嫌いしそうだな。
「そうよね、ハロウィンの渋谷ってあまりに人が集まり過ぎちゃって、どこへも動けなくなってしまうこともあるそうよ。まあ、あたし的にコスプレはちょっと興味があるけど。せっかく着飾った晴れ姿だから、たくさんの人に見てもらいたいという願望は大いに理解できるわ」
どうやら麦倉さんはコスプレ賛成派のようである。
「まあ、乙女ちゃんの場合、彼氏が絶対に許さないだろうけどね」
マスターがすかさず突っ込んだ。麦倉さんの彼氏は肌が露出する洋服が好みでないのだ。
「渋谷駅で降りたヲタク君は、そのまままっすぐ改札を抜けました。それから駅の外へ出たすぐのところに大きな人だかりができていたので、興味本位でのぞき込んでみたら、なんとその人混みの中央にあのペリ子さんがいたのです!
その人だかりは、ペリ子さんのコスプレ姿を写そうと集まった集団でした」
「それが、ペリ子が瞬間移動をしたってことね」
麦倉さんがうなずいた。
「秋葉原駅で電車に乗りそこねたはずのコスプレイヤーが、電車に乗って渋谷駅へまっすぐ行ったヲタク君よりも早く渋谷駅へ着いていて、そこで撮影会をしていたのか。こいつは興味深い話だな……」
マスターが腕組みをした。
「逆に言えば、ペリ子さんがヲタク君を出し抜いて、渋谷駅まで先に到着できた理由をきちんと説明すれば良いのですね」
西野さんの目がきらりと輝いた。好奇心旺盛時に見せるあのキラ星まなこだ。
「ところで、平野君。君はもしかしてこの問題の答えを、すでに知っているのではなかろうね」
マスターが疑るように僕を見つめた。
「いえ。僕も答えを教えて欲しいと思っているくらいですから」
僕は軽く否定をした。
「それならいいや。じゃあ、まずヲタク君が乗っていた電車だけど、どうにか特定できないものかね。秋葉原から渋谷へ向かう電車のルートなんて、実際はいくつもあるからね」
マスターが問題の核心へ踏み込んだ。
「秋葉原から渋谷だったら、山手線じゃないの?」
麦倉さんが即座に答えた。
「そうか、分かったぞ!」
マスターが突然叫んだ。さいわいなことに、他に客はいなかったけど……。
「どうしたんですか。急に大声を出しちゃって」
僕はマスターに訊ねた。
「ペリ子がヲタク君を出し抜いた方法が解けたのさ!
いいかい、ヲタク君が乗っていたのは山手線だ」
「はい、それで?」
「山手線には外回りと内回りがあるよね。そして、ヲタク君は秋葉原から渋谷へ行くのに、遠回りとなる路線の電車に乗ってしまった。そして、その電車に乗れなかったペリ子が逆に、後からやって来た逆回りの山手線の電車、実はこちらが近道となるわけだが、それに乗ってまんまとヲタク君よりも先に渋谷へ到着できたというわけさ」
「でも渋谷駅と秋葉原駅は山手線ではほぼ反対側に位置していますよね。近回りと遠回りで果たしてその時間差がはっきりと出るでしょうか」
僕は軽く反論をした。
「今調べてみるわ。
ええと、秋葉原駅から山手線の東京駅方面の外回りを使えば、渋谷駅まで三十分だけど、新宿駅方面の内回りだと、それが三十七分もかかってしまうみたいね」
麦倉さんがスマホを見つめながら答えた。
「どうだい。これで決まりだな」
マスターが得意気にガッツポーズをとった。すると、西野さんが小声で訊ねた。
「そう言えばアドニス君はさっき、ヲタク君がいたのは秋葉原駅の3番ホームだと言いましたけど、それで間違いないですか」
「そうでした。たしかにあいつは3番ホームの電車に乗ったとはっきり言いましたよ。
ちょうどその時、あいつは卓上のシュガーポットから砂糖を山盛りで三杯、四杯とコーヒーに注ぎ足していて、そんなにたくさん入れて大丈夫かな、と心配しながら見ていたところで飛び出した発言でしたから、よおく覚えています。絶対に間違いありません」
「それなら、秋葉原駅の3番ホームを出入りする電車を検索すれば、ヲタク君が乗った電車が特定できますね」
西野さんはさらりと言った。
「なるほど。麦倉さん、検索願えませんか」
僕は麦倉さんに要請した。
「ええと、秋葉原駅の3番ホームに出入りする電車は山手線で、東京駅方面行きだから外回りになるわね」
「外回りと言うことは近道ルートですから、先ほどのマスターの論説は完璧に崩されましたね」
「ええ、そんなあ。ヲタク君は同じホームから間違って内回り電車に乗ってしまったんだよ。きっと……」
マスターが女々しく食い下がった。
「秋葉原駅では山手線の内回りは2番ホームとなっているわ。そして2番ホームは3番ホームの向かい側に位置していて、階段を上り下りしなければたどり着けないわ。
言い換えれば、3番ホームにいる人が内回り電車に乗ることは無理ということよ」
秋葉原駅の構内図を検索していた麦倉さんが、マスターにとどめを刺した。
「ならば分かったぞ。ペリ子が山手線じゃない路線を利用すればいいんだ。
秋葉原駅にはたしか総武線が通っていたよね。総武線に乗って代々木駅まで行って、それから山手線に乗り換えて渋谷駅へ行けば、もしかしたら、外回りより早く到着できないかな?」
マスターが新たなアイディアを打ち出した。
「ええと、そのルートだと、代々木駅での乗り換え待ち時間まで含めて、二十八分で渋谷駅へ行けるみたいね」
麦倉さんが素早く検索で確認した。
「どうだい。周回をする山手線よりも、周回ループのど真ん中をまっすぐに突っ切る総武線の方が、圧倒的に早いということさ」
「それでも、たかが二分の差ですよね」
僕は反発した。
「二分でも先に到着できることに変わりはないじゃないか」
マスターも簡単には引き下がらない。
「でも、ペリ子さんは秋葉原駅では3番ホームの階段付近にいたのですよね。そこからすぐに総武線の電車に乗れるでしょうか?」
西野さんが小声で確認を求めた。
「ええと、それは……、乙女ちゃんどうなっているの?」
「秋葉原駅の3番ホームから、総武線に乗り換える5番ホームまでは、南側の階段を使えば行けるけど、ちょっとかかりそうね。それに、総武線の電車がすぐに来るとも限らないし」
麦倉さんが答えた。
「ほら、それで時間が消費されれば、時間差なんて全くなくなってしまうじゃないですか」
僕は要点を総括した。
「畜生。何か手立てはないかな。そうか、地下鉄だ――。
神田駅まで行ってから、東京メトロ銀座線に乗り換えれば、渋谷までは直行便だ。きっとペリ子はこのルートで行ったんだ。うん、間違いない」
マスターもあの手この手で応戦する。またまた新ルートを見つけ出してきた。
「そのルートだと、神田駅での乗り換え時間を考慮して、およそ三十分ね」
麦倉さんがスマホで調べ出した。
「それもだめですよ。ペリ子さんは秋葉原駅でヲタク君が乗った山手線の外回り電車に乗れなかったのです。だから次に来る電車を待てば、神田駅へはやはり数分遅れでないと到着できません。いくら山手線とはいえ、次の電車が来るまで少なくとも三分は要するでしょう?」
「そうでもないわよ。秋葉原駅の3番ホームは、同じホームの反対側が4番ホームとなっていて、そこには東京駅方面へ向かう京浜東北線が走っているから、山手線が出た直後にやって来た京浜東北線の電車に乗れば、ほとんど時間をロスすることなく、神田駅まで行ける可能性があるわ」
「それでも、そのルートで要する時間は三十分。ヲタク君が乗った山手線外回りも同じく三十分の時間がかかるのですから、渋谷駅にペリ子さんがたどり着けても、ヲタク君とほぼ同時です。一方で、ヲタク君が渋谷駅に着いた時には、ペリ子さんを取り囲む人だかりはすでにできていたというのですから、やはりおかしいですよ」
「ちょっと待って。京浜線を使って、神田駅じゃなくて、新橋駅まで行って、そこで東京メトロに乗り換えれば、わずか二十六分で渋谷駅まで行けるわよ。これだったら可能じゃないかしら?」
麦倉さんがスマホの検索で別ルートをひねり出してきた。
「仮にペリ子さんがヲタク君よりも五分早く渋谷駅へたどり着けたとして、人だかりができるまでに果たしてどのくらいの時間がかかるのでしょう?」
西野さんが冷静に問題提起をした。
「人混みをかき分けて、ようやく中にいるのがペリ子だと確認できたというのだから、相当に大きな人だかりだったわけだね」
マスターが付け足した。
「そうですよね。やはり無理なんです。少なくとも、ヲタク君より十五分は早く到着しないと、人だかりも含めて説明が付きませんよ」
僕はきっぱりと結論付けた。
「分かった。ペリ子は電車を使わなかったんだ。タクシーだよ!
道路を自動車でぶっ飛ばせば、電車よりはるかに早く渋谷へ行けるんじゃないかな」
マスターが車による移動手段を持ち上げた。
「秋葉原から車に乗って渋谷へ行こうとしても、都心部の慢性的な渋滞で思うようには進めません。三十分は普通に掛かってしまうと思いますよ。やはり無理ですね」
僕はあっさり否定をした。
「実は、ペリ子が二人いたとか?
秋葉原で見かけたペリ子と渋谷にいたペリ子は、全くの別人だったのさ」
マスターが投げやるような口調で決め付けた。
「先ほど話した事と重なりますが、あいつの話を素直に信じれば、あこがれのペリ子を見間違えるはずは断じてないそうです」
「しかし、秋葉原駅のホームでは、ペリ子を見たのは一瞬の出来事だろう。どうしてそう断言できるんだい」
マスターが反論した。
「その日のペリ子さんは、ハロウィンの魔女姿で、鮮やかな紫色のドレスと、大きな紫色のリボンが付いたウィッチハットを身に着けていたそうです。手には紫色の傘も携えていて、その特徴的でド派手なコスチュームは、そんじょそこらのレイヤーにはまずいなかったそうですし、それぞれの場所に出没したペリ子さんとおぼしき人物の顔も、ヲタク君はしっかりと記憶しているけど、どちらも間違いなくペリ子さんだった、とのことでした」
「たしかに、菖蒲色コスチュームをまとったド派手なレイヤーなんて、そうは見間違えようもないわね。
結局のところ、なにもかもが説明付かないということかしら?」
とうとう麦倉さんはさじを投げ出したようだ。
「アドニス君に質問です。ヲタク君が電車に乗っていた時刻は、何時頃でしたか?」
西野さんがなおもしつこく食い下がってくる。彼女はまだあきらめていないみたいだ。
「おそらく昼下がりの午後だったと思います。あいつはペリ子さんの持参アイテムの傘を、菖蒲色の日傘がとても似合っていた、と表現しました。もし、撮影会の時刻が夜になっていたのなら、傘が似合っていた、と単純に言ったことでしょうね」
「先週の土曜日の午後と言えば、心地よい日差しが降り注ぐ穏やかな小春日和でした。
それともう一つ。そのヲタク君ですけど、どのような人物でしたか?」
「どんな人かと言われても、学食で初めて見ただけですからねえ」
僕は素直に言いわけをした。
「体型とかは?」
「ああ、それなら見事なまでのデブちんです。顎なんか弛み切って三重だったし、いかにもアイドルおっかけ親衛隊の隊長を務めていそうな人物ですね」
「ということは、ちょっと階段を上っただけで、すぐにふうふうと息切れをしてしまいそうな……」
「その通りです。典型的運動不足な体型でした」
「なるほど、そういうことですね……」
そう言って、西野さんはふっーと深呼吸をした。
「論理的になればなるほど、創造性は失われる。バイ、フィリップ・マーロウ――。
何ごともきちんと手掛かりを集め、論理をたどっていけば、やがては唯一無二の真相に到達できるものです」
出た! 事件の真相に到達した際に西野さんが発する決め台詞だ。
「その台詞を宣言したということは、どうやら西野さんには真相が分かったということですね」
僕はすかさず西野さんに訊ねた。
「ええ、まあ……」
そう言うと、西野さんは少し顔を赤らめて下をうつむいた。
さあ、読者の皆さん。西野さんは、最後にヲタク君が運動不足であることを確認して、それから最終的な結論を導き出したようだが、果たしてその真相とはいかなるものだったのだろうか?
紫色コスチュームに包まれた美人レイヤーは、秋葉原と渋谷の全く異なる場所に、ほぼ時刻を同じくして、姿を現わしていました。本当に、彼女は瞬間移動をしていたのでしょうか。